玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

7000円割れより怖い

2008年10月30日 | ねったぼのつぶやき

 数年前NewsStationで久米アナが株価ボードを見ながら、「8000円を割りましたッ!」と悲鳴を上げていた。それをもアッサリ割り込んで底が見えないらしい。

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 秋空のもと私は干野菜作りが忙しい。銀杏、大根、椎茸、ズイキ。ズイキの皮たくり(東北では皮むきをそう言うらしい)は今を逃せない。干し柿もいいナ。鈴なりを見かけたけれどアレは渋?かけあってみるか。紫蘇の実の保存食もいいナ。床下にはらっきょう、梅干、梅酒、梅酢、果実酒が眠っている。(お裾分け・保存用のズイキ)

 秋の検診シーズンたけなわ。乳、子宮頚、肺癌は完。消化器癌は来週。検診時にインフルエンザの予防接種もしよう。鳥インフルエンザ由来の「新型インフルエンザ」情報は要チェック。「感染爆発直前」「空前の致死率」と並ぶと恐ろしい。知人もパンデミックが怖いと言っていた。癌もぶっ飛ぶ!。

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*グアム訪問記(3)

2008年10月28日 | 捨て猫の独り言

 マゼランの率いる軍艦5隻と227人がスペインを出発したのは1519年9月20日である。ヨーロッパから東アジアへの西回りの航路の発見が主目的であった。大西洋を南下するうちに難破や逃亡で3隻となった艦隊は南アメリカ南端から太平洋に出る。人の住む島にぶつかることなく4ヶ月近くの航海が続き1521年3月7日にマリアナ諸島に到着する。上陸したのはグアムのウマタック湾だ。

 ウマタック湾の浜辺では日曜日とあってバーベキューを囲む人たちでにぎわっていた。週末はいつもこんな調子ですよとガイドの安部氏は語る。今回の旅行で大航海時代に思いを馳せることになるとは思っていなかった。私はいつも予習不足だ。艦隊は新鮮な食料を補給しようとしたがトラブルとなり放火・虐殺・強盗を犯してまもなく出発した。この1ヵ月半後マゼランはフィリッピンのマクタン島で戦死している。ちなみに種子島に鉄砲が伝来したのはこの22年後だ。

 観光地の実弾射撃店は銃社会のアメリカならではのことだ。経験しなくてもいいことであったが好奇心が勝った。今となってはどちらかといえば経験しない方がよかったという思いが強い。射撃の感触は不思議なほど薄れている。拳銃についての知識はいくらか増えた。

 男性初心者で他店料金70ドルが26ドルである。357マグナム+44マグナム+45コルトの36発である。簡単な事前指導があり近距離にある宙吊りの人型の紙の標的に向けて狭い屋内で発射する。拳銃は回転式(リボルバー)2つと自動式1つの3種類を使用した。回転式銃には弾薬を自分で装填する。一発撃つごとに撃鉄を起こす。自動式はグリップの中に弾倉を挿入して手渡してくれる。弾丸(ブレット)+薬莢(ケース)+発射薬(パウダー)+雷管(プライマー)=実包(カートリッジ)である。銃はイギリスで生まれた。44口径は0.44インチのことで、1インチが25.4mmだから44口径は11.2mmである。あの安部さんは射撃にはまるで興味を示さなかった。(完)

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*グアム訪問記(2)

2008年10月25日 | 捨て猫の独り言

 チャペルでの結婚式を終えた翌日は半日のバス観光が組まれていた。日本語の上手な女性ガイドが付いて、タモン湾の北端の恋人岬と首都のハガニアにあるスペイン広場の主に2ヶ所を回った。18~19世紀にグアムはスペインの統治下にあった。観光の途中と最後はショッピングモールに監禁される。食料以外に欲しい物は何もない。

 その翌日は花婿の父の提案で島の南部をぐるりと回ることにした。コンビニ大阪のおっちゃんの手配で他店料金300ドルが180ドルである。私たちは60歳前後の男2人女3人の5人組である。一人当たり40ドルだ。ぴかぴかの小型バンで現れたこの日のドライバー兼ガイドは安部さんだった。安部さんは57歳で独身である。グアムの日本人で有名なのは一に横井庄一で二にコンビニ大阪のおっちゃん三は誰だと思いますかと問う。安部さんでしょと答えると、どうして解りましたと運転中の安部さんがはにかむように振り向く。

 1972年にグアムから横井庄一伍長、その2年後にフィリピンのルバング島から小野田寛郎少尉が帰還して日本人を感嘆せしめた。安部氏は2002年に本物の「横井ケーブ」を発見する。いつの日か荒れ果てた横井洞穴を再建するプロジェクトを完遂したいと考えている。グアムの人はおおらかです。観光客に間違ったことを平気で教えます。例えばニセの南十字星、ニセのラムラム山(最高峰)、ニセの横井ケーブなどです。そういえば先のバスのガイドさんはアメリカネムノキをモンキーポッドと告げて私は今でも混乱している。

 安部氏の「南の島に憧れてーグアム島移住編」が2年前に牧歌舎から出版されている。もらった名刺には探検家とある。パソコンで探検歴を調べた。21歳の頃奄美の沖永良部島の洞窟探検を皮切りに38歳ではオーストラリアを自転車で一周を試みる。しかしシドニー発2ヵ月後に栄養失調になりケアンズで断念する。オアフ、マウイ、モロカイ、ハワイ島などに移住地を捜し求め、結局2000年にグアムに上陸し、ツアーガイド兼探検家としてグアムで8年目になる。安部さんの7時間の案内で素敵な一日となった。

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刺毒魚騒動顛末記其後

2008年10月23日 | ねったぼのつぶやき

 Drの往診、処置を受けた後も続く出産以来の痛みに「ヒョットして毒素が我が微細な血管に進入し、全身に及ぶ敗血症を引き起こしここで入院?」と最悪のセオリーが頭を過ぎり、拡大する発赤,腫脹は不気味に見えた。その内自制可能な痛みに変り翌朝膝直下迄腫れてはいたが帰国出来ると安堵した。

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 帰国翌日、息子(彼らも昨夏ここで過ごした)に警告の気持ちもあって報告した。「受診しておいた方がいいじゃない?」息子には素直な私は彼の安心のために受診した。アレルギー科も標榜する近くの内科医は彼の女性の発言通りだったPC記事を伝えると、温浴?と首を捻り本をめくった。(写真はマゼランが上陸したグアムのウマタック湾)

 この春娘の海外移住の子守を手伝い疲労困憊して以来、体質が変ったようで今まで何でもなかった虫刺されが腫れあがり、熱を持ち完治するまで10日もかかる様になって今回が4回目であった。前例に従いアイシング、リバノール湿布で一反は改善した足背が再度熱を持ち、傷口痛さえ伴うようになった。しばらく続いた不自然な歩行は一年前から痛み勝ちの左膝通を増悪させておりヤッパリ専門に罹るべしと遠くの公立病院の皮膚科に行った。

 つけ睫毛をつけた若い女医で、こんなケースは珍しかったのか根堀葉堀り聞いてきた。太い針でつついたが廃液はなくとっておきの処方箋(リンデロン錠)を出してくれた。オールマイティのそれは翌日には効果を見せ始め次回の減量処方で終わりとなるだろう。ヤレヤレ。

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*グアム訪問記(1)

2008年10月21日 | 捨て猫の独り言

 成田を予定の30分遅れでコンチネンタル航空ボーイング767は20:55に飛び立った。3時間15分の飛行で日本との時差は1時間である。空港到着後バスに乗せられていくつかのホテルを回りながら最後のホテルに私たちが着いたのは夜明け前かと思う頃だった。帰りはグアム発16:35で普通の時間帯だった。

 ガラス張りの祭壇の向こうに水平線と青い空が見える。チャペルでの結婚式は開放的な気分になる。グアムの西海岸のタモン湾は白い砂浜に恵まれて岬に沈む夕日が美しい。それに比べて東の海岸は深さ1万1千メートルのマリアナ海溝に面して荒波に洗われている。タモンには北はホテルニッコーから南はヒルトングアムまでホテルが集中してそのホテルロードをバスが頻繁に往復している。私たちが泊まったフェスタリゾートグアムはタモンのほぼ中央に位置していた。以前は日本の第一ホテルが経営していたという。

 6月から10月までは雨季で毎日2回ほどスコール(シャワー)があった。5分もすればすぐに止んでしまう。軍事基地や観光への依存度が大きいのは沖縄と同じだ。沖縄よりも徹底している。タモンのホテルロードに立ち並ぶ大型免税店、ショッピングモール、レストランは映画の撮影セットかと見間違うほどだ。

 観光客のほとんどは日本人である。耳寄りな情報がある。私たちのホテルのすぐ近くに「コンビニエンスストア大阪」があった。朝8時の開店時に行くとほかほかの大きなオニギリが手に入る。それだけではない。ここで申し込むとオプショナルツアーの料金が他店の半額近くだ。レストランは送迎付きで格安料金になる。穏やかな笑顔の大阪の年輩のおっちゃんが携帯電話でてきぱきと手配してくれる。グアムの経済を牛耳っているのではと思わせる風格がある。

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*大リーグの学習

2008年10月17日 | 捨て猫の独り言

 偶然目にした平凡社新書 「大リーグと都市の物語」 を読んだ。著者は1959年生まれの宇佐見陽で2001年に出版されたものだ。その中の興味深いことなどを記録してみる。マンハッタンから北へバスで5時間半の小さな町に野球の殿堂がある。南北戦争の時には兵士たちが野球を楽しんでいたようだ。日本では勝海舟の頃である。

 1990年代以降フットボールや野球やバスケットボールなどのスポーツ産業は産業別規模では50種中23位で32位の航空産業24位の自動車産業を上回りGNPの約1割を占める。プロスポーツチームの印象は都市の印象と連動する場合が多い。自治体は球団を所有できないが球団不在による都市の評価急落を恐れた市が公的資金を投入することも多い。

 1947年は黒人初の大リーガーのジャッキー・ロビンソンがデビューした年である。その50年後1997年に背番号42は大リーグ全球団の永久欠番となった。差別に耐えたブルックリン・ドジャースの二塁手だった。1958年には最も地元に愛されたニューヨークの2球団が西海岸に移転するという大きな出来事が起きた。ブルックリン・ドジャースはロサンゼルスにニューヨーク・ジャイアンツはサンフランシスコにである。

 球場はまず単独型か他競技との複合型かに、さらにダウンタウン型か旧住宅地型か郊外型かに分類できる。例えばボストンのフェンウェイパークは住宅地の一角に建設したためレフト側にそびえ立つグリーン・モンスターやセンター脇の切れ込み部分など外野フェンスの変形具合では際立っている。入場するときも野球場というより大きめの野外劇場に入るような印象で街路から自然に球場入口へ歩んで何の違和感もない。もともと沼地(Fens)の多い地域なのでこの呼び名がついた。ある選手は古い歴史と独特の雰囲気からこの球場を聖地と呼んだ。欧州風の小粋な街トロントの中心街に位置しているブルージェイズの本拠地スカイドームは中世期に立てられた教会のようで関係者の評価も高い。球場名決定に当たって市民公募が行われスカイドームの名前の応募者の中からくじ引きで当選者が決定され、カップルでの生涯座席が授与されたという。しかし2005年にはロジャース・センターと改名されている。

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刺毒魚の対処は湯浸し

2008年10月16日 | ねったぼのつぶやき

 小一時間も待ってヤットDrと女性がやって来た。中年の女性はDrとタイアップしたナースと思われた。「当初は熱いお湯につけたほうがいいんです。ストーンフイシュ(オコゼの一種)にやられたんでしょう。これは痛いです。大の男が拳で壁をたたき血まみれになることがあります。個人差はありますが手をやられるとグローブ様に、足だと付け根まで腫れる事もあります。子供の方が軽いようです」と聞き安堵した。

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 痛みだけが強く自覚され動悸は感じなかったけれど、血圧は188まで上がっていたから動悸も強かった筈だ。2種類の時間薬と痛み止めを注射し、痛みが止まらなかったら翌朝来診するよう告げて帰った。注射は効く様子もなく早々に薬を内服した。4~5時間は痛み、腫れは踝を超えて上がってきたが、次第に和らいで朝を迎えた。膝直下迄パンパンに張っていたが痛みは消えていた。時期を逸した今回は冷やし通した。

 旅程通り帰宅できたが、復路は車椅子上の人となった。その効用で飛行機への乗り入れ、税関などスイスイと通過した。PCで調べると女性の指摘通りだった。つまり今回の対処法は当初45程度のお湯に30~90分漬けると解毒され痛みも緩和するとあった。ホテル側は若い女性で「経験しない事」と言ったのは風評被害を恐れたのだ。炎症に温浴とは驚きだが、経験有用謝々。

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熱烈歓迎刺毒魚のキス

2008年10月15日 | ねったぼのつぶやき

 リムジンの迎えを受けて海辺に隣接する教会に到着した後、若者たちの結婚式は親族のみの列席のなか、半分練習を兼ねた趣で微笑ましく挙行された。新郎新婦は緊張と嬉しさと恥じらいの表情を称え初々しい。

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 翌々日夕食まで海に出た。大きな湾に沿った海岸線。透明な海水は淡い空色から次第に紺色へと色合いの深さを増し、水平線の向こうまで果てしなく続いていた。とチクリと足を何者かに噛まれた。足を引きずって上がりひとまず夫に毒の吸出しを頼む。ところが痛みは増し時間を経る毎に腫れて来た。ホテルの対応はフロントの日本女性が中に入ったが消毒しかない。

 部屋の戻ったが疼痛、発赤、腫張が増してくる。痛みは並でなくこれでは夜を越せない。日曜日の夕刻とタイミングも悪い。指示された機関にに電話すると「大きな病院は時間待ちが必要で薬剤は翌日回し。往診なれば薬剤処方付きで即刻可。通訳付きで加算」となって往診を乞う。痛みはじっとして居れない程に増し冷やし続けた。ところがこれがなんと・・・。

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10・9の朝日新聞

2008年10月09日 | ねったぼのつぶやき

 甥が明日グアムで挙式する為今夕出掛けることになった。一週間にも満たない留守ながらパスポートが必要となると双方忙しない。気にかけながら昨夕カバンだけは出し朝方一気に支度した。思うにいつもコンナ風だ。忙しい訳でもないのにこのパターンの繰り返し。ユックリ準備すれば楽しみも倍加するかもしれないのに。

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 「ねぇ○さん! よく聞いといて。年取るって大変なことなの。朝起きて3度の食事の用意と後始末でしょう。洗濯物を2階に干すのだって1時間もかかるの。アッという間に一日が終っちゃう。今の内に何でもやっときなさいねッ」「眼と耳が不自由になってね。眼鏡をかけた上に拡大鏡までいるの。準備に手間取って疲れちゃうわ。母親を見ながらアンナ年寄りにはなるまいと思っていたけど、自分がそうなってよ~く解るわ!」

 先輩方の嘆きはいずれこの身に及ぶ。一気の準備で間に合う内はそれもいいか。今朝の新聞は「ノーベル賞」「株安の緊迫感」「人生のエンデングシリーズ⑦」が並列しており、再終項には還暦を越えたら3点実行のヒントも添えられていたっけ。(国分寺の遊歩道)

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*高円寺散策

2008年10月07日 | 捨て猫の独り言

 参禅会は毎月20日の午後6時に始まる。先月は土曜の午後から早めに出かけて高円寺駅の南側を散策することにした。手ごろな地図がなかったのでので手ぶらで出かけた。駅の近くにある高円寺にはすぐにたどり着いた。街中にあっても落ち着いた雰囲気の格式あるお寺だった。そこからさらに南に向かうと西照寺という小さなお寺に出た。

 後で地図を調べたら杉並八小と光塩女子学園に囲まれた地域には西照寺を含めて七つほどの寺の名が確認できた。狭い範囲の中に小さなお寺どうしが肩を寄せ合ってひっそりと存在している。私は端っこの西照寺だけをかすめて通りすぎたようだ。地図を持たないことによる不都合であった。

 さらに南下を続けると、まもなく東西に走る青梅街道と直角に出会う。近くに五日市街道入り口という交差点を発見した。青梅街道は青梅と新宿で五日市街道は五日市と高円寺ということなのかと思った。さらに妙法寺の横を通って荒玉水道道路を直進して善福寺川に出た。護岸工事が行われていた。別の道を引き返すことにして堀の内を北に向かう。五日市街道から少し入った梅里あたりにまたしてもお寺が密集している地域があった。どの寺も整備されているという印象だ。墓地を多く抱える寺ほど存立の基盤は強固である。ある寺の門前には掲示板があり、本堂でのコンサートなどの案内が掲示されていた。

 この日の参禅会は前半の法話を聞いてすぐに帰宅した。なんとせっかくの座禅を放棄したのである。9時から放送されるBS映画劇場の黒沢明監督作品 「隠し砦の三悪人」 を見るためだった。いつになっても甘え多き後ろめたきこと多き生活である。

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