玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*死とは何か

2011年08月01日 | 捨て猫の独り言

 死後の世界があり、そこではかつて死別した人々に再会できると信じている日本人はどのぐらいいるのだろう。「あの世あるいは天国で会える」などの言葉は、私たちの生活でごく普通に使われている。物語を創出することでなにがしか心の安定を得ようとしているものと考えられる。私たちにとって死は限りなく身近なものであるにもかかわらず、それをとことん追求することを避けたいのは人情というものだ。ここでは死に関連する記述の中から、これまでに私が興味を抱いたものをいくつか取り上げてみたい。

 人は自分の死は経験できない。死が存在するときは私は存在していないし、私が存在するときには死は存在していない。つまり一人称の死は無いことは明らかです。現象的には生きているものは必ず死ぬということだし、論理的には一人称の私は死なないということです。私たちは現象と論理のはざまで生きているわけです。自分は死なない、死ぬのは肉体だと言い方が出てきます。するとこれにつられて、つい魂が死後云々というふうに言いたくなりますが、死が存在しないのだから、死後が存在するわけがないですよね。(池田晶子)

 たとえばじぶんたちは日々不在を体験している。かつて友達であった人がなくなっているとき、かつて父親や母親であったとか肉親であった人がなくなって、今や不在である。またかつていった土地、もう二度といくことのない土地もじぶんにとって不在である。このようにかんがえていくと、人間の存在が世界における不在を絶えず体験しながら生きているようなものだ。そして不在がすべてをおおいつくしたとき、それが死なんだとかんがえるようになって、じぶんは死とか老いとかにたいする恐怖や悲しみを和らげられるようになった。(ボーヴォワール)

 誰がいつ、どこで、どういう病気で、どういう死に方をするかは一切わからないし、はたからわかるはずはないし、ご本人もわかるわけはない。だから、そういうことについていうのは無駄である。生死は不定である。(親鸞)

コメント (3)
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