玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*開国下田みなと

2022年04月28日 | 捨て猫の独り言

 下田への3日間の旅は最初と最後の日は、本格的な雨に見舞われた。4月は5月と違ってお天気がくずれることが多いのだ。その昔下田から江戸へ向かうには海路か、陸路では下田街道から天城峠を経て三島から箱根峠を越えたのだろう。東京駅の10番線から伊豆急の踊り子号で伊豆半島の東海岸を2時間40分かけて下田に着く。

 列車は坂道を駆け下るように終点の下田駅に近づいてゆく。かつて踏海(密航)を企てた吉田松陰もこの下田街道を駆け下ったことだろう。案内図には下田駅の手前に「松陰寓寄処」と記された場所がある。松陰は深夜「弁天島」から漁船を操り黒船に乗り込み、密航を求めるが拒否され自ら進み出てここ下田で拘禁されている。(弁天島と黒船遊覧船)

 

 雨の中、下田駅を1時頃に出て徒歩で25分という「玉泉寺」に向かう。勇む心にはコインロッカーに荷物を預けることが浮かばない。玉泉寺は市街地から離れた湾の奥にあり、観光客が見逃がすことが多いようだ。途中、道の駅「開国下田みなと」があった。ペリー来航以来、アメリカ、ロシア、オランダなどと次々に和親条約が結ばれてゆく。(ハリス記念館のある玉泉寺)

 

 黒船が浦賀に現れて3年後の1856年に、ハリスが米艦サン・ジャシント号で下田に着任、玉泉寺を日本最初の総領事館として開設。庭前に星条旗が掲揚され、以来2年10ヶ月玉泉寺は幕末開国の歴史の中心舞台となる(下田の領事館を閉鎖して、1859年に元麻布の善福寺に公使館が置かれる)。玉泉寺境内にはペリー艦隊の5名、ロシアのディアナ号の3名、アスコルド号1名の墓地がある。

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*いろいろなこと

2022年04月25日 | 捨て猫の独り言

 郵便受けに、初めて見る「顕生新聞」なるものが投げこまれていた。「富士大石寺顕生会二月度総幹部会」「日蓮大聖人に背く池田大作・学会は必ず亡ぶ」などの大活字が躍っている。「プーチンの犬と化し、日本のカネと領土を’献上’した売国奴がしゃしゃり出る幕はない。早く蟄居せよ」という最後の8面にあるコラムのほかは読む気にならなかった。

 この地域は創価の小・中・高の学校があり、公明党のポスターを貼り出した家庭を数多く見かける。ある意味では特殊な地域と言える。新聞はこの近辺のせまい範囲に、狙い撃ちで配布したものと想像される。同じ宗派であるがゆえにいがみ合うと言うことはありうる事だ。かつて公明党と共産党が、機関紙で非難の応酬を繰り返していた時期があったことを思い出した。

 

 千葉ロッテの佐々木朗希投手が完全試合のつぎの試合でも全国の野球ファンがかたずをのんで見守る中で、8回までパーフェクトに抑えて降板した。打線が1点でも得点していれば歴史的「連続完全試合」が見られた。ところであの試合での佐々木投手の降板は監督の大英断だと私は思う。しかしチームはその後の試合で打線が沈黙し、勝ち星から見放されることが続いた。これは「完全試合後遺症」としか言いようがない。

 連日のように辺野古新基地への抗議行動を続けている、芥川賞作家・目取真俊氏の小説「斥候」が雑誌「世界」5月号に掲載されている。同誌は「日本復帰」50年についての特集を組んでいる。作家は作品について「10年以上前に、父が県立北部病院に入院している時、同じ病室にいた女性の付き添いの老人と話す機会があった。その時に老人が、戦時中に同じ村の住民のことを日本軍に密告したと言うことで、戦後ずっと村八分になった人がいる、という話をしていた。その話をもとに私の父や叔母から聞いた話などを加えながら書いた小説である」と説明している。

 

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*伊豆の下田へ

2022年04月21日 | 捨て猫の独り言

 来週、伊豆白浜温泉に2泊する。ホテルは白浜海岸を望む場所にあるという。白浜海岸は伊豆急下田駅を降りて、そこから岬をひとまわりすると見えてくる場所にあるようだ。真っ白な砂浜を期待している。せっかくの機会なので「ペリー来航」の歴史を調べることにした。参考図書は「ペリー提督日本遠征日記」と「黒船に乗っていた日本人」の2冊だった。(咲き始めの頃のハナミズキ)

 

 アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー提督はアメリカ東海岸の海軍基地ノーフォークを1852年11月24日に出港し、アフリカ大陸の南端からセイロン、シンガポール、香港、上海を経て那覇に滞在している。さらに小笠原諸島を探索して那覇に戻り、ついに1853年7月8日に江戸湾に姿を現す。14日に久里浜で米国大統領からの国書を幕府に渡し、17日ひとまず浦賀を沖を出港し25日に那覇に投錨。これまで日本に接近した外国船は、まず長崎に回航されたがペリーはこの幕法に従わなかった最初の外国人となった。

 翌年の2月11日にペリー再び江戸湾に姿を現す。横浜村で米国からの献上品の蒸気機関車の模型の試運転や1マイルの電信戦を張り通話、農具の組み立て、江戸の力士の相撲披露などの交流があり、3月31日に日米和親条約調印。4月18日ペリー下田に入港し、5月13日箱館に向けて出航。6月7日下田に再入港、和親条約の追加13か条を締結(下田条約)。6月25日ペリー艦隊下田を出航し帰国の途につく。

 ペリーは琉球、小笠原諸島経由で日本にやってきて、途次の自然や風俗、文化の調査を行ったようだ。琉球は当時薩摩藩の支配下にあり、そのため「われわれの一挙手一投足、いつもスパイがつきまとって監視している」と怒っている。興味深いことだが「食という面では、日本や中国よりはるかに琉球の方がすぐれている」とも記している。ペリーにとって沖縄が重要な土地であったことは新たな発見だった。また「日本の、既婚女性と独身女性を区別するその黒い歯はぞっとしない眺めだ」とも記している。当時は、われわれが想像する以上に日本人の海の漂流者は多かったようである。

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*私だけの聖地

2022年04月18日 | 捨て猫の独り言

 玉川上水を西へ金毘羅橋を目指して歩いた。この日は17000歩。週に一度、自宅から東西南北の4つのコースを順ぐりに2時間以上かけて歩く。春分を境に昼の長さが長くなり、冬枯れの景色の中で桜が咲き始め、つぎに清明の季節になると身の回りは「花と若葉」に劇的に変化する。

 若葉のトンネルの中を、ときどきマスクを外しながらひたすら歩く。目につくのは、ヤマブキや群生するハナニラ、ダイコンバナだ。ことのほか暑い日で、途中で上着を脱いで半袖の下着姿になる。タンポポやタチツボスミレが咲き競う。群生するニリンソウに出会うとうれしくなる。

 

 金毘羅橋すぐ近くには私だけの聖地がある。そこでは、私以外に参拝する人を見かけることがほとんどない。市販の地図にもネットで検索にも出てこない。ある旧家が私的に管理している。ミニ富士浅間、金毘羅、秋葉神社があり、山、海、火の神が祀られている。手入れが行き届いて、なんだかすがすがしい気分になれる。

 

 境内には、シロヤマブキ、シャクナゲ、ツツジ、シャガが咲いていた。ツツジは小高い斜面をこんもりと覆うには適している。帰り道でウグイスの鳴き声に気づいたり、キンランを見かけたりした。また庭先でみごとにフジの花を咲かせている家もある。玉川上水沿いの住宅では冬にはコナラ・クヌギの大量の落葉、今の若葉の頃にはクヌギ・コナラ大量の雄花のかたずけに追われる。

 

 

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*歴史的快挙

2022年04月14日 | 捨て猫の独り言

 囲碁ナショナルチームの監督であり、また千葉ロッテのファンである高尾紳路九段は、つぎの二つの快挙の当日、すぐブログに投稿していました。「2022年4月10日は歴史的な一日になりました」として、上野愛咲美女流棋聖が、日本女流棋士で初めての国際棋戦優勝者(日本・中国・韓国・台湾)となったこと、そして佐々木朗希投手が完全試合を達成したことについて記していた。

 そのコメントがまた高尾九段らしいものでした。「いろいろな方から、’おめでとう’ と連絡を頂きました。(自分が)世界一になったわけでも、完全試合を達成したわけでも無いのに、困惑しましたが ’ありがとうございます’ と返信したのは、正しかったのでしょうか???」

 高尾九段は上野愛咲美女流棋聖とつぎのような縁もあるのです。上野女流棋聖の師匠は、藤沢一就八段です。その一就八段の父は昭和を代表する棋士の藤沢秀行です。破天荒な生活で有名でしたが研究会「秀行塾」で若手棋士を育成して、藤沢秀行を師と仰ぐ者は多くいます。そして高尾九段はその門下生です。

 

 千葉出身の高尾九段はプロ野球では千葉ロッテ、バスケット(Bリーグ)では千葉ジェッツを応援しています。どちらもよく会場に足を運んでいます。2年前には佐々木朗希選手を追ってキャンプ地の石垣島まで追いかけていきました。なぜか高尾九段は南の方の鹿児島・沖縄にはよく出かけます。

 

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*白日会展(2)

2022年04月11日 | 捨て猫の独り言

 私の知る展覧会と言えば、白日会展、日展、武蔵美の学園祭ぐらいですが。見学はひさしぶりのことでした。

 

 総陳列点数は722点(絵画667、彫刻55)です。白日会のYouTubeがあるというので視聴してみました。タイトル作家名入りで若手を中心に60点の紹介です。

 

 会場に出向いて自分の気に入った作品を探す楽しみに勝るものはありません。

 

 麗しきかな・・・・

 

 写真かと見まがうような作品は創作現場を覗いてみたくなります。

 

 

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*白日会展(1)

2022年04月07日 | 捨て猫の独り言

 寒の戻りの小雨が降るあいにくの日曜日だった。「第98回白日会展」の招待の葉書が届いて、国立新美術館に出かけた。東京展は明日が最終日という。このあと4月に名古屋、6月に関西展がある。やはり郷土の作家の作品に注目してしまう。塩屋信敏の「桜島」ぐるり一周してこれからも描く計画かもしれず。濱ヤロスラヴァの 「光り輝くジパング」、鎌田博子の「戯ー東の国のおとぎ話」の2点もおそらく桜島だろう。「桜島」はもう1点、広島の卜部正行の作品があった(この方もよく桜島を描く)。

 彫刻で私がまず探すのは丸田多賀美と、大御所中村晋也の作品だ。ところが今回の二人はこれまでとは全く違う印象の作品だった。丸田は「かはたれどき」という「胸像」で、桜島の火山岩を彫ったと思われる。なるほど素材が暗褐色のため、近寄らないと目鼻立ちがよく見えない。「かはたれどき」=明け方で、「たそがれどき」=夕暮れという。中村はいつもの巨大なブロンズ像から一転して小ぶりの「名月をとってくれろと泣く子かな」だった。ねんねこはんてんの中の幼子が空を見上げて指さしている。

 

 絵画でやはり鹿児島の徳永敏の「パーキンソン病のスエ子」は衝撃的だった。見えるものを通して見えないものを描く「写実の王道を歩む白日会」とはこのことか?

 

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*甲子園から戻って

2022年04月04日 | 捨て猫の独り言

 つい最近まで庭の自然の恵み「蕗の薹」を天ぷらや蕗味噌として味った。そして今はツワの若葉が茂り始めて殺風景だった庭が緑に覆われつつある。「清明」の頃には、冬を東南アジアで過ごしたツバメが数千キロを越えて日本にやって来るという。そして雁はこの頃に群れをなし北のシベリヤに帰り、また秋には日本に渡ってくるのだという。 

 昨年、庭の梅の幹を大胆に切り落としたせいで今年は梅の花の数が憐れなほど減った。その少なくなった梅の花も散り、近くの公園の桜並木では花吹雪が舞い始めている。庭のハナミズキと柿の木には、小さな小さな花や若葉が姿を見せ始めた。常緑樹のクロガネモチは古い葉を落としている。

 

 甲子園の野球観戦から戻って、しばらく疲れが取れなかった。私が泊まった友人宅の近く、すなわち阪神甲子園駅の近くには二つの誇り高き店があることを知った。ドイツ菓子専門店の「カイザー」、それに無農薬胚芽米のおにぎりの店の「清左衛門」だ。清左衛門のパンフに米食の勧めがあり、朝のパンをそのうちご飯にしようと考え始めている。

 私が応援した大島高校と優勝した大阪桐蔭高校はまさしく対照的なチームだ。大島は選手全員が地元出身者の離島の県立高で、桐蔭は全国から有望中学生をスカウトして育成する私立高である。近江と桐蔭の決勝戦を私はテレビ観戦する気にもなれず外出することにした。大差の決着になることは分かっていたからだ。これほど高揚感のない決勝戦になった原因について、関係者はなんらかの改善策を行うべきと考えた。

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