玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*信仰ということ

2019年04月29日 | 捨て猫の独り言

 「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」の項にさしかかり、先へ読み進めなくなった。ここはひとまずキリスト教についての知識をいくらか得たうえでじっくり読むべきだと考えた。これまでの人生で、信仰などということに関しては縁のなかった私だが、最近は親鸞について調べたり考えたりする機会もあり「宗教」というものがなんだか向こうからやって来ているような感じがしている。(モッコクの殿ヶ谷戸庭園)

 

 本棚の遠藤周作著「私にとって神とは」を読んだ。この本はいつの間にか私の本棚に紛れ込んだものだ。誰かの手で、ところどころに傍線が引かれている。カトリック教徒である著者が質問に対して答える形になっている。本のあとがきには「迷いふかく小説を書かざるをえなかった男の気持ちを率直に語った本として、読者がご自分で宗教をお考えになる時の一助にもなれば嬉しい」とある。これはというものを以下に記す。

 おっかない父のイメージのような神は旧約聖書の中にたくさん載っています。旧約聖書はキリスト教の聖書というよりユダヤ教の聖書だからです。それをひっくり返して母の宗教にしたのがイエスだったと私は思うのです。復活とは蘇生ではなく、神の永遠の命の中へ戻るということと、その理念が誰かに受け継がれることをいうのです。また「私はなぜ仏教よりもキリスト教に心ひかれるか」という興味深い問答もあった。

 仏教の根本原則は執着は捨てよですから、人間のいやらしいところを追求することはなくなってしまう。キリスト教の場合は執着しているものを通して救いが来るという考え方です。またイエスと釈迦の最期も象徴的です。死というのはこの世界から新しい生命に入る通過儀礼だと思っています。それは試練であり、そして恐怖があり、苦しみが伴うのだと思います。仏教は死についてあまりにきれいな語り口だと感じてしまうのです。

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*カラマーゾフの兄弟

2019年04月22日 | 捨て猫の独り言

 4月20日は二十四節気の穀雨だ。穀雨とはたくさんの穀物をうるおす春の雨が降るころのこと。5月2日の八十八夜(雑節)は立春から数えて88日目で、茶摘みのころである。そして5月6日が立夏となる。庭ではハナミズキの花が咲き、柿の木が芽吹き、ツワの葉が茂り始めている。玉川上水では黄色いキンランの花が散策中の人々を楽しませてくれる。キンランと出会うと誰の顔もほころぶ。(小金井公園の桜)

 

 このところドストエフスキー全集の中から「カラマーゾフの兄弟」を毎日少しづつ読むのが日課になった。まだ30代だったころ職場の同僚とドストエフスキー読書会をやったことがある。日本で何度目かのドストエフスキーブームがおきていた頃のことだ。薄給の中から月払いで全集を買った。それは室内装飾品にもなった。その職場を短期間で辞めることになったが、いまだにその頃が懐かしい。(国分寺跡と野川の桜)

 

 今年もアトランタの孫娘たちが来日する。今年からの受け入れはしばらく中止しようと考えていた。来日する時期は、ある事情があって少し遅れることになった。妹の方は小学6年生として小学校に受け入れてもらえるだろう。姉の方はどうするか。そこで姉は私と一緒に「そろばん」の練習をはじめたらどうかと考えた。私もそろばんの初心者である。わが町にはなく隣の町の図書館でそろばんのいいテキストを見つけた。

 その図書館で岩波ジュニア新書「ドストエフスキーのおもしろさ」(中村健之介著)が目にとまり読んでみようと思った。行きあたりばったりの生活とはこのことだろう。その中に芥川の「くもの糸」が「カラマーゾフの兄弟」の中の「ねぎの話」を作りなおした「再話」であることはよく知られていますとある。一度は読んだことのあるカラマーゾフだが、はて「ねぎの話」にまるで覚えがない。そのことが気になり始めて、その個所を捜すため長い年月のあとに読み返すことにした。

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*遠くまで自転車で

2019年04月18日 | 捨て猫の独り言

 よく晴れて暖かい日の朝の朝だった。ふと思いついて杉並区にあるという真教寺を訪ねることにした。さて自転車でどのぐらいの時間かかるか興味があった。まず五日市街道に並行して走る玉川上水の桜並木を東へ向かう。かつて自転車通勤で何度も往復した五日市街道と別れて井之頭通をさらに東へ向かう。井之頭通の吉祥寺駅から環状八号線を横切る地点までの距離が長く感じられた。

 地図を見ると先日降りた仙川駅は南北に走る環八の西にあり、この日に目指した永福町駅は環八の東にある。なぜか仙川駅も環八の東側にあるかのごとく錯覚していた。やっとたどり着いた永福町駅の交差点を右折して永福通りを南へ向かう。下り坂の途中に、このあたりの地名の由来となった曹洞宗永福寺があった。永福通りを少し入ったすぐのところだ。永福通りに面した永福稲荷神社にはすぐ気付いた。そのすぐ隣奥が永福寺だった。

 坂を下ったところを三鷹市の井之頭池を水源とする神田川が流れている。橋を渡りこんどは坂を登りきると甲州街道に出る。このあたりの甲州街道の真上には首都高速新宿線の高架がかかり永福料金所がある。このあたり曹洞宗と浄土宗ばかりの寺が八つほど緑道をはさんで街道沿いに並んでいる。その一番奥に真教寺はあった。門から少し離れた道端に「親鸞聖人御尊像奉安・真教寺」の看板がある。正門は鉄格子の高い扉で、寺らしくない門構えだ。寺はゆるやかな細長い傾斜地に建てられていた。

 

 門からは植え込みのある細長い通路が続いているが、人影もなく立ち入ることは遠慮した。フェンスを隔てて隣には真教寺とは対照的に光り輝く広大な墓地が見える。まずはその和田堀廟所を見学することにした。中央の桜並木が今を盛りと花を散らしている。真教寺と同じで昭和の初期の頃に築地から移転したようだ。樋口一葉、古賀政男などの墓所がある。再び真教寺に戻ると門の中で住職の奥さんと思われる方が草木の手入れをしていた。親鸞、玉日、九条兼実の三体像の拝観は勤労感謝の日の報恩講の後なら可能と教えてくだされた。

 

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*日本民芸館

2019年04月15日 | 捨て猫の独り言

 だいぶ前に下北沢から駒場東大前あたりを散策したことがある。東大駒場キャンパスの見学後に、加賀百万石の当主だった前田家の洋館と和館がある駒場公園に迷い込んだ。ここは目黒区で下北沢は世田谷区だ。公園内には日本近代文学館がある。公園に隣接して日本民芸館なるものがあった。この日はどちらにも入館することはなかった。特に民芸館については当時は全くの無知だった。

 日本民芸館とは1889年生まれで民芸運動の主唱者で思想家、美学者、宗教哲学者である柳宗悦が1936年に開設した。大原美術館で知られる実業家の大原孫三郎から経済面の援助を受けた。民芸運動とは当時の美術界ではほとんど無視されていた日本各地の日常雑器、日用品など、無名の工人による民衆的工芸品の中に真の美を見出し、これを世に広く紹介する活動のことである。柳は朝鮮とのゆかりも深い。また沖縄文化の紹介、仏教彫刻家の木喰の研究、機関紙「月刊民芸」発行など活動した。

 柳は1914年に声楽家の中島兼子と結婚、母の弟である嘉納治五郎が我孫子に別荘を構えており、宗悦も我孫子へ転居した。やがて我孫子には志賀直哉、武者小路実篤ら白樺派の面々が移住し、旺盛な創作活動を行う。また柳は学習院時代の英語教師であった鈴木大拙に生涯師事し交流している。他力に支えられて無我の境地となったとき、相対的な美醜を越えた絶対の美の世界が実現すると述べている。

 桜が散り始めるころ、小平霊園へのウオークに出かけた。柳宗悦の墓所に参るのが目的だった。霊園案内図には「作家・民族研究家」とある。柘植、梅、椿、木斛、連翹などが植えられている。連翹が黄色く咲き誇っていた。柳には三人の男の子がいる。インダストリアルデザイナーの長男宗里、美術史家の次男宗玄、園芸評論家の三男宗民である。次男は、お茶の水女子大を定年後、武蔵野美術大学教授を務めた。

 

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*梁塵秘抄

2019年04月08日 | 捨て猫の独り言

 平凡社の「死を想う」は、とりあえずとかすらすら読める本だ。伊藤比呂美が石牟礼道子と対談し、伊藤が石牟礼に遠慮のない質問をくりかえす。小さいころから父が酔っぱらうと必ず私たちをお仏壇の前に座らせて、それがうらめしかったですが、訳のわからないお経をあげてね。それは帰命無量寿如来で始まる親鸞聖人の「正信偈」でした。

 「浄土ってあると思います?」あるんじゃないかという気がする。皆の願いがあるから。あれほど皆、先祖代々「お浄土に行かせてください」とか「後生を願う」とかね。人間は願う存在だなと思いますね。逆に言えば人間はそれほど救済しがたいというか、救済しがたい所まで行きやすい。願わずにはいられない。伊藤は「後生を願うという言葉はとても好きです」と応じる。

 梁塵秘抄の歌がいくつか話題になる。熊野詣で有名な後白河院の撰だから、秘抄の歌謡には仏教の影響が著しい。「仏も昔は人なりき、我等も終には仏なり、三身仏性具せる身と、知らざりけるこそあわれなり」「今様」は今私たちが言う流行歌とはちょっと違うけど、歌だから。経をとなえる代わりに歌った。歌にして伝えれば仏もすらりと出てくるし。

 「仏は常にいませども、うつつならぬぞあわれなる、人の音せぬ暁に、仄かに夢に見え給ふ」もよく知られているらしい。後日知ったのだが芥川龍之介が四行中三行までも本歌取りしたのが「人の音せぬ暁に、仄かに夢に見えた給ふ、仏のみかは君もまた、うつつならぬぞあわれなる」という。また石牟礼著「あやとりの記」にある「十方無量 百千万億 世々累劫 深甚微妙 無明闇中 流々草花 遠離一輪 莫明無明 未生億海」は石牟礼創作のお経である。

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*白日会展

2019年04月04日 | 捨て猫の独り言

 知人から届いた「白日会展」の招待状を手に国立新美術館に出かけた。入り口で受け取った出品目録はあとで見ることにして、まずは会場の膨大な作品群を一通り急ぎ足で見て回る。スマホならもっと楽だろうにと思いながら、デジカメで気になる作品を撮影する。30ある区画の一つでは、第95回記念特別展「白日会中興の祖ー伊藤清永展」があり、代表作20点が公開されていた。この区画だけは撮影禁止と警備員に注意を受ける。

  目録を見ると、会友の緒方かな子(広島)の作品「いつも隣で」は第9室だという。言わずと知れた広島カープ緒方監督の夫人である。その隣には韓国から一般入選の孫美良の作品「I was dancing」が展示されている。これは光がうまく描かれていると思う。無印は入選作品、△は会友、〇は準会員、◎は会員である。この区画には会員の作品「薫風」「cage 」「 Music」「 birth」などが並んでいた。

 

 第12室には、会員の塩屋信敏(鹿児島)の「桜島」がある。この方は知人の中学の後輩にあたる。その関係で白日会展の招待状が私の手に届く。この区画には鹿児島の会員の堀之薗光一「卓上の航海灯」同じく池畠昇「桜島」がある。「桜島」は他に1点あったので桜島は合計3点ということになる。

 

 さて今回の特別展で洋画家・伊藤清永(きよなが)をいくらか知るところとなった。YouTubeで公開中の白日会制作動画を見た。裸婦を生涯のテーマとしたという。2001年90歳で没した。曹洞宗の寺の三男として育ち、愛知学院大学の教授、51歳のときフランスとオランダに滞在し制作。その後「伊藤の裸婦」として高い評価を受ける。その一方で愛知学院大学講堂に7年がかりの巨大油彩壁画「釈迦伝四部作」を73歳のときに完成。1986年より白日会会長を務めた。

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*実篤公園

2019年04月01日 | 捨て猫の独り言

 調布市の仙川駅の近くに出かける用ができた。少し早めに出かけて仙川駅の近くにあるという「実篤公園」に立ち寄ることを思いついた。下調べが不十分で、桐朋学園や神代高校や寺などにはばまれた格好で遠回りしてなんとかたどり着く。武者小路実篤については「新しき村」の実践や、「仲よきことは美しき哉」などの数々の絵色紙などが浮かぶぐらいで、詳しいことはなにも知らない状態だった。

 公園敷地の大部分はなだらかな傾斜地になっている。公園管理棟の横の入り口を入り、坂道を下るとまもなく旧実篤邸が見えてくる。この日は立ち入ることはできずに応接間や絵筆などの置かれた仕事部屋などをガラス戸越しに見学する。すぐ近くには湧水を水源とした「上の池」がある。公園を二つに分けるようにフェンスで囲われた一般道がある。その下に掘られた短いトンネルをくぐると公園の「下の池」に出る。さらにもう一つ短いトンネルを抜けて昭和60年に開館した実篤記念館に着く。(右端はモクセイの若木)

 

 実篤は階級闘争のない世界という理想郷の実現を目指して大正7年に宮崎県に「新しき村」を建設した。実篤は大正13年には離村し、村に居住せずに会費のみを納める村外会員となった。実際に村民であったのはわずか6年である。昭和14年に埼玉に「新しき村」ができ両村は今日でも現存する。実篤は「水のあるところに住みたい」という子供の頃からの願いをかなえ、調布に70歳で転居し亡くなる90歳までこの地で過ごした。最寄り駅が仙川であったことからこの家を「仙川の家」と呼んでいた。

 白樺派同人の多くは学習院出身の上流階級に属する作家たちである。実篤の他に志賀直哉、有島武郎、木下利玄、里見惇、柳宗悦などがいる。同窓・同年代の作家がまとまって出現したこのような例は、後にも先にも『白樺』以外にない。彼らは恵まれた環境を自明とは考えず、人生への疑惑や社会の不合理への憤る正義感をすり減らさずに保ち得た人々だった。学習院院長であった乃木希典が体現する武士像や明治の精神への反発もあったようだ。

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