玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*ある秋の日に

2017年09月25日 | 捨て猫の独り言

 巣鴨駅辺りに用があって出かけた。9月初旬の陽射しの強い土曜のことだった。用が終わると染井霊園を見学して、帰りに途中下車して池袋駅周辺を散策することにした。「とげぬき地蔵(高岩寺)」と「六義園」は経験済みだから今回はパスだ。見知らぬ街でどの店で食事するかはいつも悩ましい。駅の近く、白山通りに面した定食屋「鮒いち」の日替わりランチに失望することはなかった。

 染井墓地は白山通りを挟んで「とげぬき地蔵」の向かい側にある。髙村光雲、光太郎、智恵子らの髙村家の墓所と岡倉天心の墓所を確認して目的を果たす。染井霊園は小平霊園などとは違って雑然とした印象だった。霊園の通路は近隣の住人の生活道路になっていて、ときおり自転車が墓地の中を通り抜ける。痴漢やひったくりに注意のポスターもあった。(殿ヶ谷戸庭園にて、キツネノマゴと萩と湧水池)

 

 都電荒川線の駅を目指して白山通りを北に向かう。白山通りも他の幹線道路と同様に道幅が拡張され沿線に高層ビルが立ち並ぶ。都電荒川線の新庚申塚駅から池袋四丁目駅まで乗車した。撤去計画は撤回され都電荒川線は存続する。外国人観光客にも分かりやすいように愛称が「東京さくらトラム」に決定したという。今年の四月のことだからこの愛称を知らない人はまだ多い。

 新たに整備されたと思われる「南池袋公園」は家族連れでにぎわっていた。西武デパートのある東口から長い地下通路を人波をかき分けながら西口に出る。「池袋演芸場」の位置を確認する。ウクレレ漫談の「ぴろき」の全身写真のチラシがあり、思わず手が伸びた。9月6日発売のCD「明るく陽気に、生きましょう」の宣伝だ。後日NHKラジオの歌謡番組で偶然聞いた。東京芸術劇場の5階で休憩して帰宅した。

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*野川公園の柳橋②

2017年09月18日 | 捨て猫の独り言

 自転車で玉川上水沿いを東に小金井公園まで行き、関野橋を右折して南下すると中央線の東小金井駅に出る。さらに南下すると連雀通りに突き当たる。このあたりが少女Aが母親と二人で暮らしていた小金井市東町4丁目だ。西武多摩川線が見えてきた。その線路沿いを南下すると少女Aが卒業した東中学がある。線路と学校の間にある、車は通れない細い急な坂道を下ると野川が見えた。車が通る堅固な二枚橋という名の橋が架かり、緩やかに流れる野川の川幅は狭い。

 そこは公園の北口だった。じつは地図の小さな橋に、「柳橋」の表示がなく実在するかどうかを確認するのが目的の一つだった。案内板を見ると数えて五番目に「やなぎ橋」があった。殺された元美術教師が写生をしていた場所だ。作者である髙村薫もこの場所に立ったはずだ。ここから北口の方を振り返ると、西武多摩川線の門型鉄塔(送電線)も、大きく茂った川岸の木々にさえぎられて見えない。生前の被害者が橋のそばを写生場所に選んだ理由はまさにそれだったと書いている。

 ゆるやかにカーブする野川と国分寺崖線の間にはいくつかの小さな池がある。その区域は柵で囲われて「自然観察園」となっている。その出入口は一つで柳橋の近くにある。ボランティアの会が発行する「花だより」などの印刷物が置かれていた。野川公園はかつてのICUのゴルフ場を買収して昭和55年に開園したという。幅30mの東八道路で南北に分断されている。道路を跨ぐ3つの陸橋で行き来できる。公園は初めてだったが、東八道路は世田谷の長男家族を訪ねる時はいつも利用していた。

 柳橋の近くの岸辺では家族連れが敷物を広げ、子供たちは野川に入って水遊びをしていた。ざっと観察園の見学をすませる。そこから下流の一之橋北口から出て少し東八道路沿いに行くとICUの裏門に出る。ひっそりした簡素な門衛所から、中に入ると右手には富士重工の塀が続き、ICUの校舎は左手の林の中にあるようだ。バス停のあるロータリーに出た。そこから大学の正門まで構内を600mの道路が東へ一直線に伸びている。校舎などは見ずにキャンパスを出た。ICUは桜の名所でもあるそうだ。

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*天皇・沖縄への思い

2017年09月11日 | 捨て猫の独り言

 現在の天皇は日本国憲法のもとで即位した初めての天皇だ。「象徴」としての天皇像をどのような思いで築いてきたのか、その歩みをたどるという連載が毎日新聞で始まった。その第一部は「沖縄への思い」である。かつて天皇制に反対とあっけらかんに表明したこともある私だが、現在はその未熟さを認めることにしている。そこには美智子皇后には参りましたという思いも混じる。

 

 初めて沖縄を訪れたのは本土復帰の3年後、皇太子時代の1975年だった。このとき海洋博の開会式の「おことば」の原案を見せられ意見を聞かれたのは、元沖縄放送協会会長の川平朝清だ。米国人の来賓もいるので戦争に触れるのは穏当でないとの高名な学者の進言があって期待通りの修正はしないと、後日宮内庁から連絡があった。しかし実際に述べられた談話は「これこそ県民が聞きたかった言葉」と川平さんが感動するほどの内容だった。

 

 歴代天皇として初めて沖縄を訪問したのは、即位4年後の1993年全国植樹祭だ。革新系知事の大田さんは、賛否の割れた天皇の初訪問を「平和の象徴として来られるのだから」と迎えた。大田さんは来訪へのお礼の意を示す記帳のため上京する。それを聞いた陛下はお会いしたいと応接室に招いた。両陛下と大田さんの3人だけだった。「沖縄の人々の皇室への思いについて、僕が安心させるようなことを話しても信じておられないような気がした。沖縄のことをずっと考えていらっしゃるんだなと受け止めた」

 陛下は、皇太子のころから沖縄の伝統文化や歴史を学んだ。琉歌も琉球王国の王たちが詠んだ歌を手本に研鑽を積んだ。浦添市の「国立劇場おきなわ」の前に歌碑が立つ。「国立劇場沖縄に開き執心鐘入見ちゃるうれしや」とある。2004年に開場を記念して上演された「執心鐘入」を鑑賞された時に詠んだ。訪問前の記者会見で「復帰を願ったことが、沖縄の人々にとって良かったと思えるような県になっていくよう、日本人全体が心を尽くすことを、切に願っています」と国民に語りかけた。

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*野川公園の柳橋①

2017年09月04日 | 捨て猫の独り言

 多摩川が武蔵野台地を削って出来た河岸段丘を国分寺崖線(通称ハケ)と呼ぶ。この崖線に沿って湧水を集めて流れるのが野川である。その源は国分寺の恋ヶ窪にある日立中央研究所内にあり、その敷地内の湧水池は春と秋の年二回は一般公開されている。その下流には自然と水に恵まれた野趣あふれる都立野川公園がある。ときおり薄日の射す土曜日に初めて野川公園に出かけることにした。

 きっかけは毎日新聞に8月から連載が始まった髙村薫の「我らが少女A」である。これまでに政治状況に関するインタビュー記事で辛口のコメントを出す髙村のことは存じ上げていた。しかし93年に直木賞を受賞したという髙村の小説をこれまでに読んだことはなかった。今回新聞連載を読み始めたのは、私の住む地域が小説の舞台になっていたからだ。そして作者の髙村はこの地域内にある国際基督教大学を卒業していた。

 西武多摩川線、調布飛行場、小金井東町四丁目、小金井市立東中学校、小平西高校、警察大学、榊原記念病院、府中市多磨町二丁目などが登場する。とりわけ小平西高校は我が家のすぐ近くにある。小説は実在する土地空間がそのまま登場し、そこで架空の人物たちが生活を続ける。そして思いがけない関係性の中で生きかつ死ぬ。

 池袋で28歳の無職の男が、同棲していた27歳の風俗店アルバイトの女を撲殺した。その被害者が「少女A」で実名は上田朱美だ。朱美は12年前の未解決事件に関わっていた。野川公園で殺害された元美術教師の絵の具を現場から持ち去ったというのだ。虚実の見分けがつかなくなった私は、事件現場である野川公園の柳橋をこの目で確かめたくてわざわざ出かけたのだった。

 

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