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玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

35)命を引出す人の営み

2006年05月31日 | ピースボート世界一周

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 ケニアから初乗船してきた一人に、農業ジャーナリストの大野和興氏がいた。農業、食料問題を専門とし、日本やアジアの村々を歩き現場から発信する事を信条としていると。市民運動にも深くコミットし、経済のグローバリゼーションに対抗する「脱WTO草の根キャンペーン」や、[アジア農民交流センター」の世話人もしているという。

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 「農業は命を引き出す人営み」と考えるようになったのは、韓国で自然農法を取材している時、「作物や家畜を育てる主体は自然であって人は手伝いをしているに過ぎない」と教わったのがキッカケだったという。

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 戦後史の中で、大量生産、大量消費の時代を迎え、より効率化を優先した農業は食の不安と環境問題を引き起こし、農業の企業化と農村国や村を衰退の方へと向かわせた。「命を引き出す営み」どころか、更には食物の種子、医薬品など「命そのものを商品化」する迄になってしまった。又病虫害を殺す遺伝子組み換え食物は農薬を使わなくてすむ環境保全型と主張する科学技術者達。命は人間が都合よく操作できるほど簡単なものか?と警告を発していた。

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 私達の回りには輸入食物が氾濫し、国産物を選んで求めているのが実情だ。3回に亘る講義を聴くほどに暗澹たる気分になった。最後の4回目は「もう一つの農業は可能だ」だった。企業化した農業では見栄え、生産性重視の為、品種の改良や、農薬の多投が増え消費者の健康、環境の破壊に繋がった。Peace_boat_660 「人と自然との共生」を求め生産者、消費者、環境が一体となって農を育むことが必要ではないかと主張し、現に取り組んでいる幾多の事例報告があった。選挙民が政治家を育てる様に、消費者が生産者を育てるのと同じだろう。遠~い道のりではあるけれど。写真2以下は全てキューバの有機農場での作業を含む農業体験。

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都電荒川線

2006年05月30日 | 捨て猫の独り言

 のどがイガラッポイ、かぜをひいたと自覚した。悪いことに歯にも影響が出て食事をすると痛む。もとに戻るのに2週間を覚悟した。この28日の日曜日に高校男子バスケット部の試合の付き添いで出かけた。私は初戦は見ていない。付き添った都立荒川工高会場の2戦目に我がチームは敗れた。

 1試合は2時間かかる。勝ち負けに関らずつぎの試合の進行の補助的な仕事を担当せねばならない。私はその時間を利用して初めて訪れたこの地域を見物することにした。隅田川沿いにアクロシティがある。大規模工務店が開発した居住のための近代的都市空間だ。そこの超高層建築を見上げると、垂直性の感覚が麻痺していることに気づく。そこから古い町並みを荒川公園にたどり着く。昼下がりの木陰で大勢の老人達が将棋の真剣勝負をしている。将棋はだめな私だが何やら懐かしい気持ちで一杯になる。

 いつも通り解散前のミーティングが始まる。最初に私が発語する。夏合宿でチームを見るぐらいで、普段の練習の様子はまるで知らない。そんな私が何を語ることがあろう。おしつけがましいことなど不要だ。何もたさない、何もひかない。そんな言葉を捜す。「精一杯のプレーを見せてもらった。最後まで緊迫感のあるいいゲームだった。3年生はこれが最後のゲームとなったね。ご苦労様でした。」

 この日は行き帰りともパソコンの路線案内通りでなかった。見物の途中で見つけた都電荒川線に飛び乗った。始発の三ノ輪橋駅から2つ目の荒川区役所前駅から終点の早稲田まで51分もかかるという。料金は一律160円で、利用者は多い。鉄路沿いには色とりどりのバラの花で埋まっている。沿線住民の路面電車に対する愛着が感じられる。私は後方の無人の運転席のてすりにもたれて、咳き込みながらも去り行く沿線の風景を飽くことなく眺めていた。京都の京福電鉄のようなものだ。残せるものは積極的に残して欲しい。雑司が谷をすぎて終点の早稲田あたりが殺風景なのは残念である。思いがけなく楽しい一日となった。

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34)エジプトでラマダン

2006年05月26日 | ピースボート世界一周

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 時あたかもラマダンの時期にエジプト入りとなった。約一ケ月の間太陽が空にある間は飲食は禁じられていた。ただし旅行、病気、妊娠、生理中は免除されているという。

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 ポートサイト入港は夜となった。夜。見知らぬ国。馴染みのない人々。ラマダンといった特殊な状況の中を歩くのは男性と一緒でも、怖気づいたが、実際はなんら問題はなかった。街には日没後多くの人が繰り出し、食事をし水タバコをふかし談笑していた。露天の店や青果屋、玩具、衣類、電気機器等少々乱雑に並んでいた。

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 翌日はいよいよエジプト観光のメッカ、ピラミッドとスフィンクスの見学をした。船から3時間ぐらい走ったろうか。ナイル川を越えてピラミッドが見え隠れした。王・王妃の墳墓として紀元前2700~2500年に作られ現存は81基。最大はクフ王建造のもので、高さ146メートル基辺230メートルで4稜は東西南北を向いていた。

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 数年前観光客が殺害されたnewsを耳にした事があったけれど、各バスには警官が一人づつ同乗した。観光バスに同乗できる警官はエリートらしく、試験も難しいとガイドさんが案内していた。しかも皆ハンサムな青年で、暑い最中汗をかきながら、背広でビシッと決め込んでいた。

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 ラマダンの真っ只中、「体中で汗をかき一日中観光案内をしてくれる彼等の飲食は?」驚いた事に禁飲食だという。子供を一人で育てているというガイドさんに仕事柄厳しくはないかとソッと問うてみたが「楽しんでいるぐらいです。大丈夫」との返事が返ってきた。そして私達の食事時間は外で過ごしているのだった。写真はボデイガード役の私服警官とガイドさん。

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33)イスラム船員の日常

2006年05月23日 | ピースボート世界一周

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 トパーズ号ではブルガリアやアジア周辺国などの従業員が多く、イスラム教徒も多数いた。我々がイスラム圏に属するエジプト入りする頃は丁度ラマダンの時期にあったっていた。そこで世界3大宗教であるイスラム教について、ダイニングルームで働いているインドネシア出身の男女2人に生の声を聞かせてもらうプログラムが出来ており参加した。

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 その場に参加した男女はいつもにこやかに私たちにサーブをしてくれている2人だった。船内の仕事をしながら、イスラム教徒として1日5回(10、昼過ぎ、15、日没、20時頃)のお祈りをしている。先ず手を洗い、敷物を敷き、イスラム教徒の被り付きの服で体と髪を覆い、メッカの方向へ向いてコーランを唱えながら額づく。イスラム教徒の最終的な夢はメッカ巡礼だと言った。仕事と5回に及ぶ祈り。賃金が気になるところだが、その分は差し引かれると笑顔で答えていた。

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 イスラム教徒と聞くと私の中で緊張感に似たものが走るのだが、それは何故だろう?マスコミでマイナスイメージとして発信され過ぎてはいまいか?彼らの仕事や話しぶりを見れば直ぐ解る事だが、とても温和であり、相手に親愛の情すら感じさせる。イスラム教の説明や応答も礼儀正しく論理的であった。

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 温和な彼らが何らかの抑圧〈政治的、経済的、社会的、文化的)を受けた際、教義に立ち返って反逆する事がある。その際たるものが日本の「特攻隊」とも類似する「自爆」だが、政治や宗教の混沌、そして極端な「自爆」をnewsとして聞かされている私達は、暗黙のうちにイスラム全体をコ・ワ・イものとして捉えていたのではないか?と思える。次回はいよいよラマダンの報告。夕刻ポートサイト入港。夜の街を散策。果物屋の店先で少年と。

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出産前後

2006年05月22日 | 捨て猫の独り言

 独居の折はレシピ片手に料理に励んだ。台所で調理していると楽しかった。何とも濃厚な時間であった。生活はもとに戻り、今はあの頃のことを懐かしく思い出すだけである。なぜ料理にのめりこんだのだろう。独居が短期間限定であったことや、娘が大きなお腹を抱えて転がり込んできたことなどがその理由として思い浮かぶ。

 娘から5月11日に診察を受けたらそのまま入院となり促進治療を受けているとの連絡が入る。2週間早い。夕方に様子を見に行く。エキサイティングだと青年は病院の廊下を弾む足取りで私達を手術室に案内した。その日の日付けが変わった午前2時に 「産まれました」 とほっとした様子の声に起こされた。手術を受けて2時間後の本人からの直接の電話だった。事も無げに何でもやってのける印象のある彼女らしい電話だった。

 翌日の夕方病室へ行くと娘の友人、友人夫婦の3人が来ていた。彼はベイビーに帽子をかぶせてほっぺをつついていた。出産に立ち会った彼は自分の妻に 「頭が出てきた」 などと逐一報告したらしい。人が死ぬ思いをしているのにコン畜生と蹴飛ばしたかったなどと娘が冗談めかして見舞い客に話す。女性達は生まれたての赤ん坊を交互に抱きかかえた。私はそれを遠まきに見ている。青年はさりげなく私に赤ん坊を手渡してくる。

 誕生直後の日は2人とも寝かせてもらえなくて疲労困憊だったらしい。青年はオムツの取替えなど手際がいい。娘よりも上手である。彼は一週間の休暇をとることができてまめに赤ん坊の世話をした。娘は今更のように彼に感謝している様子である。私も一区切りがついて安堵した。

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32)スエズ運河と紅海祭

2006年05月20日 | ピースボート世界一周

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 クルージングによる世界一周となれば、次の寄港地まで長い洋上航海となる。ケニアからエジプト迄9日間を要した。レクチャーの他にも色んな催し物があるのだが今回はバスケットボール・囲碁・将棋大会、パニックアート公演三連夜、スターへの道競演、寄席、スエズ運河通過と紅海祭だった。

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 今回はスエズ運河通過の様子と紅海祭にふれてみよう。パナマ運河の時もそうだったが、運河通過に要する丸一日はデッキでビアーガデンが開かれフリーに過ごす事になる。終日海上や移り行く沿岸を見ながら船首に出たり船尾に回ったり、あまり会話した事もない方々と話したり。そんな折乗客の中には2つの運河通過が目的とか、自分の会社が納入した車が未だ使われているか確認したいとかの話も聞かされた。

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 運河はレセップスにより10年の歳月をかけて1869年に開通した。2001年にはアジアとアフリカを結ぶスエズ運河架橋が日本の援助で完成した。運河の入り口では船が集まって来たが、川幅も狭くなかったので突き進むと言った感じはない。地中海に向かって左岸は緑が多く、右岸は砂漠様の風景であった。遠くにかすんで見えていた架橋がいよいよ目前に見え遂には通り越した。運河の両陸地を繋ぎ中央には日本と現地の旗が掲示されていた。

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 夜には紅海祭と称してGETの先生方らの呼びかけで、紅海にちなんで「紅い服か紅い飾り物や紅いペインテング」をしてをスポーツバーに集まった。そこで若者達が踊る今風のダンスやゲームをした。この場に限らず先生方は語学教授の他にも、いろいろなパフォーマンスを要求されていたおりノリのいい先生や今いちの先生もいた。Peace_boat057 しかし大方は自ら楽まなければ損とばかりに楽しみ、それを眺めているだけでも楽しかったが、皆をも楽しませてくれていた。そうやって世界を回り多くの経験を積みつつ語学や文化を獲得し、世界は繋がっているといった概念を身体を通して持つに至る彼らの姿を見る思いがした。写真の上でクリックすると拡大します。

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31)マイノリティーて何?

2006年05月17日 | ピースボート世界一周

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 「自分の国を離れ他国へ足を踏み入れた時に、言葉、文化、習慣の違いに驚いた事はありませんか?それは少数派=マイノリティーであるから」をヒントにして多数派、少数派の企画が3連夜あった。船の性格もあってマイノリティーに位置する講師陣やレクチャーも多くあった。少数派は社会的文化的に抑圧や差別を受ける対象となりやすい事等も学び直した。

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 第一夜はセクシャル・マイノリティ。自分がゲイであると友人や両親に告白する用語=カムイングアウトにも始めて接した。そこに至る迄の悩みや勇気など3人の外国人が語った。回りの理解を得て気持ちが開放された事や、日本と本国との比較や日本での生活のし難さなどの話がされた。

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 第二夜は被差別出身の職員と在日韓国人の金君を中心に、パネル、グループ両デスカッションが行われたようだ。私自身子供の頃「あの地域の子供達とは遊ぶな」と囁かれた事を思い出す。理由は教えられたかどうか定かではないが、ある時期になって民の事だったと理解できた。金君が頑張ったのも曾祖母の教えがあったればこそ。ドキュメンタリー映画で見た「戦後在日50年史」と、私達が実感している「日本の戦後50年」にも大きな隔たりがあった。

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 第三夜は身近な国際問題として難民やパレスチナ問題など、今抑圧されている人々についての話であった。個人対個人から国家対国家まで関心を広げ、何故この問題が生まれかつ解決する事が困難なのかなど、問題の背景にあるものを多方面からアプローチする必要性が説かれ、今後の講座への参加をもいざなっていた。

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 同性愛。性同一性障害。先住民。被差別。在日韓国人。小国と大国。紛争国と難民の問題等など。どれも私にとって余り身近でなく、無知に近い領域であった。があらためて周りを見回してみる時、それらに起因する出来事の何と多い事かと思い知らされ、知らない事の多さと怖さをしみじみ思わされた。写真1はセイシェルのサッカー少年、3はカメラに群がる子供、4は今は亡きピーター、5は受けたくなかった先住民を使ったこんな歓迎。

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取扱説明書

2006年05月16日 | 捨て猫の独り言

 マイカーには執着がない。免許取得が43歳だった。そういえば長距離ドライブの経験もほとんどない。長きに渡ってマイカー通勤をしたが、最近は快適な自転車による通勤が続いている。路上では安全運転していても激突される確率はかなり高い。この機会に車の放棄を提案したが受け入れられなかった。4月のはじめに新しい車が届いた。今後も走行距離は少ないだろうから割高の自動車税を支払うことになる。古い車は結婚したばかりの娘に譲った。

 新しい車にはカーナビが搭載されている。分厚い取扱説明書で新たに学習しなければならない。このところ運転をしり込みしている私にその役割が与えられたのは自然の成り行きである。しかし説明書を読み通す根気はない。助手席で基本操作を覚えてあとは試行錯誤である。カーナビで大助かりでしたという場面を想像するのは今のところ困難である。また高速道路を利用するでもないのに、車始動の際は毎回 「ETCカードが挿入されていません」 とのアナウンスがある。多くの機能があるのにそれを使いこなせていないという感じを味わう。この欠落感はなんとかならないか。

 おもちゃの電子楽器、電子腕時計、デジカメなども取扱書なしでは先へ進まない。私の身の回りにはそんな道具がやたらと増えている。人間社会の飽くことのない利便性の追求に困惑しそして驚嘆する。私が毎日のように手を触れているパソコンはその最たる物だ。初級者である私のありのままを告白しよう。このブログ画面にバックナンバーがある。マウスポインターをその文字の上に運ぶと人さし指をのばした手の形(指さし状態)になる。ここでクリックするとジャンプして表示されていない古い記事でも見ることができる。そんなことを知ったのが二ヶ月ほど前のことだ。遅々とした歩みなのです。

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30)ビデオ鑑賞会に51名

2006年05月13日 | ピースボート世界一周

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 第51回クルーズのビデオ鑑賞会に丁度51名の参加者。場所は横浜港に面する帆船をデザインしたインターコンチネンタルホテル。久方ぶりの対面を喜び合う時間もそこそこに、昼食、コーヒータイムを挟みながら3時間に及ぶ大作は始まった。

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 船上から見る限りない空。空も海も七変化をとげる日の出や日没。はるか彼方にある地平線は地球が丸いことを時に実感させる。荒波は蹴立て、穏やかな海は滑るように進む巨船。海面上を乱舞するイルカや鳥たち。そこに集い、学び、遊び、食べ、練習に汗し、のんびり寛ぐ運命共同体の乗客達。そんな映像にかぶさるナレーションと美しい音楽。

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 寄港地では「あ~そうだった! そうだったんだ~!」と頷きつつ、参加しなかったツアーも経験できた。船内企画も多く収録されており、「皆が主役であった旅」を皆でなぞり、ヒョッとしたら自分が映し出されるかもしれない淡い期待も抱きながら、再度のクルーズを堪能したのでした。終わると自然発生的に大きな拍手が沸き起こり、製作者の労をねぎらったのでした。

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 企画者とは最初の夕食のテーブルが同じだったご縁で、しばしばご一緒させてもらった。元々ビデオと音楽の愛好家で、双方を合体させたビデオ撮影をすると仰っており、土地土地に相応しいCDを持ち込んで乗船されていた。60本に及ぶフイルムをカットする作業が一番大変だったと話された。

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 関西では26、関東は51名の参加者。一本づ記念としてビデオが配布され、更に注文を願い出る人も多数いた。100本ダビングされた様だが欲しい方には行き渡り、かつ無駄も出ませんようにと願うことでした。集合写真はプライバシーに関りますが満足の表情を出したくて掲載。ご了承下さいませ。

 

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映画リバティーン

2006年05月09日 | 捨て猫の独り言

 はじめてネットで映画館の座席を予約をした。瞬時に予約完了のお知らせの返信が来る。自分もネットで予約ができたという他愛もない事実がなんとなく嬉しい。日曜の午後立川のシネマシティで4人で映画を見て食事しようと考えた。どの映画にするかは終了が夕食時刻であること、出演者は英語を話し日本語字幕であることという2つの条件のもとで 「リバティーン」 と決まる。出演者がどんな俳優でどんな物語かを調査しないままの選択である。

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 ネットで感激していることが2つある。一つはある駅にこの時刻に到着したいときの路線案内である。自宅出発の時刻を教えてくれる。もう一つは映画の内容紹介およびそれを観た多くの人たちの感想をこころゆくまで知ることができる。映画を観た後の方が検索意欲は強まる。

 アメリカ青年のおかげで男優の名を新たに2つ覚えた。今回の映画リバティーンでジョニ―・デップを、青年がお気に入りということでブラッド・ビッドをの2人である。リバティーン(放蕩児)は王政復古期のイギリスの放蕩詩人第2代ロチェスター伯爵の短くも壮絶な生涯を綴った物語である。実在の人でその妻エリザベスは故ダイアナ元妃の直系の先祖である。

 映画の最後でテーマ音楽とテロップが流れる中を娘には聞こえないようにその母親は私にささやいた。「よりによって娘と一緒にこんな映画を見るなんて!」 いつの時代にも破滅的にしか生きられない、それゆえひときわ強い魅力を放つ人間がいる。ある作家はロチェスター伯爵を 「神と悪魔」 という形而上学的な悩みを抱えていたドストエフスキー的近代人として捉えているという。謀らずも興味深い映画を観てしまった。

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