玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

どうにも止まらない!

2014年02月05日 | ねったぼのつぶやき

 多くの人がそうである様に、私の一日も朝食後の朝刊読みから始まる。余裕のある日は、引き続き読書をせんと常に図書館本を数冊用意してある。いずれも読みやすい本が殆どなのだが、期限内に返却を心しなければならない。最近加齢による白内障の気が出て、夕刻になると細かい活字は追いたくない。夜の読書は億劫で、夕刊も文芸欄の他はざっと見で終わる。

003 そんな風であったのに最近再度「ナンプレ」に凝りだした。それにばかりか「漢字ナンクロ」まで手を出してしまった。困ったことにこの漢字ナンクロは更に曲者で、双方ともやり出したら最後完成する迄止まらなくなってしまう。(経験者なら御理解頂けると思う) これら2つの闖入者は常に朝食を終えた時から私を誘惑してくる。日々私は戦いに負けそうになる。イヤ時に負けてしまっている。悔しいことに、ナンクロの活字は大きくて白内障ごときに負けてナンテいない。夜だってなんだってビクともしないのだ。という訳で私は全てを終えた夕食後もしばし取り組んでしまう。丸で格闘技よろしく全力投入してしまうといえば大仰だが、全くその通りのテイタラクなのだ。

 普段から寝付きのよくない身に、就寝直前までやったら・・結果は目に見えて明らかだ。どうにも困り果てたある夜、滞米中に娘のボーイフレンドから貰いおいた眠剤(体格差が大きいから1錠を 1/3~1/2分割)を1カケラ服用した。12時過に飲んでグッスリ眠りこけ、なんと9時過ぎに目覚めた。トイレに行きたくて我慢がならず起き出したのだ。他用のあった夫はそっと出て既におらず、急いで朝食をとって・・・10時半出勤の職場には間にあってホッ。図書館員さん曰く「期限内に返してくださいね」。けれども私はチットモ懲りてなんかイヤシナイ。夜はもう少し早めに切り上げればイイシ、図書本は数を減らせばイインダ!。

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たまの展覧会・芝居見物

2014年01月22日 | ねったぼのつぶやき

 寒い冬は旅行は当然として遠出の(最近の私には都内でも)外出さえはばかられる。 が、過日旧友を誘って三越劇場に「明治一代女」公演を見に行った。この芝居は、川口松太郎が実話を基に新派の山田五十鈴に書き下ろしたとされている。芸妓・波野久里子と水谷八重子の 「恋のさや当て」 と恋人の襲名披露のための 「資金作りに結婚を約束し・ついには殺人」 を犯し、「襲名を見届けて後の自刀」 の物語である。期せずして八列目のいい席。セット内の作りは「かっての時代」を思わせ懐かしい。山場である積雪の中、人力車で仕事に向う波野に結婚を迫る男との格闘は、臨場感にあふれかつ美しく胸打つものがあった。

010 この手の公演はいつもそうだが、ほぼ同年代前後と思しき観客が(今回は結構な老紳士も)多い。年に2回程度は芝居見に行くが、チケットが結構高価なので、都民半額鑑賞券に応募し当った時位しか行かない。お知らせは年に数回発行される「都民だより」に載るが、勤務外の曜日でかつ昼間の公演と限定するのでそうそう選んでもおれない。2枚申し込めるので、当たれば誰彼を誘いギフトするのも又心楽しい。昨秋はたまたま大地真央の現代劇の喜劇仕立てで、芸術劇場の観客は若い女性が多数を占めていた。

 三越劇場の日は昼飯からご一緒し神田でにぎり鮨を戴いた。当方は回転寿司か盛り合せの常連だから、値段表も知らない初めての店で落ち着かなかったが、彼女は時に利用しているようで御厚意に甘えた。その数日前、ラジオの深夜放送で、在日25年のピーター・マクミラン氏が日本の「百人一首と伊勢物語の翻訳」を語り、相田みつお館で「新・富獄三十六景」と題した版画展をしていると紹介していた。丁度いい機会なので「西斎」と称した版画展と「みつお展」双方を見ることも出来、なんとも弾んだ一日であった。

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苦瓜の味噌漬け失敗

2014年01月10日 | ねったぼのつぶやき

 昨年夏、収穫した苦瓜と茗荷を日干しした後味噌に漬け込んでみた。途中何度か食べて味・歯応え共いい具合であった。そのまま冷蔵庫の奥に仕舞い、思いだして雑煮のあとのお茶受けにとタッパーの蓋をあけると・・・何やら変!。そのままの形を保ってる物もあったけれど、実がふやけて箸でつつくと型崩れしそうなのもあった。兎も角全体的に柔になってしまい水洗いしたら溶けてしまいそう・・・ということで、味噌をザッと箸でこそぎそのまま食すことにした。確かに大根・人参や昆布の味噌漬は子どもの頃には食べ慣れていたが、他の味噌漬けは食べたことはなかった。苦瓜は果肉は厚いけれど繊維が少なく、短時間の漬けものには向いていても、長らくの漬込みには不向きなのかもしれない。

003 血圧測定を日課にしだした夫を前に、私は更に薄味にして長らくのお茶漬けである。朝から「塩分入りで粗食過ぎるよ」と、気遣ってくれる友人もいるが、起きがけの私の体は、たっぷりのお茶を要求するのだ。お茶漬けの友にも漬物は欠かせない。「茶節」にも加えてみよう。私が小~中学時代往来していた燐居の祖父母宅の味噌汁は、毎朝茶節といい鰹節に味噌を入れお茶を注いだ物だった。祖父は、枕崎の小母さんが売り歩く鰹節を毎度数本買っては、蓋つきの笊籠に入れ天井から吊るしていた。そして毎朝決って、大工さん用の「鰹節専用カンナ箱」を出しては中から鰹節とカンナを取りだし、ザッ・ザッと掻いていた。祖父母を偲ぶ際出てくるのはこシーンと音である。

 一方茗荷の方は無事だった。こちらは繊維だらけの様な物だから大丈夫だったのだろう。最近和食の良さが見直されている。和食には欠かせない漬物。大根や人参など、醤油や味噌に漬け込んで置くだけで自然に旨味が生じてくる。その旨味は発酵食品である床のもつ旨味成分だ。チーズやハムも美味しいけれど、私はやっぱり「お米と漬物」が何と言っても大好きだ。

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突発性難聴に襲われる

2013年12月18日 | ねったぼのつぶやき

  今日ツレアイは偶数月に一度開催される囲碁会に出かけ不在である。明日は69才の誕生日を迎える。概ね健康で、右目が緑内障で視力のバランスが悪い他は特に問題はなかった。がこの1~2ケ月血圧上昇に引き続き右耳が聞こえなくなった。「突発性難聴」でステロイド剤の処方を受けた。救急受診に始まって内科・耳鼻科・通常の眼科と多岐にわたり、ようやく何れも安定化しつつある。最近、お互いの聴力が衰えているのは自覚させられていたので、気付くのに一週間を要した。

001  耳鼻科受診を終えて帰宅した彼に病名を尋ねた。聴力検査の結果片方の聴力が極端に悪く、「ステロイドを使いたいが緑内障を増悪させかねず、眼科医に相談する様」言われたが、病名は告げられなかったと言うのみ。「如何して聞かないの?自分自身のことでしょう?疑われる病名を継げない医師も変だが、問わない患者はもっとおかしい」と私は怒る。経過から判断すると「突発性難聴」と推定され、次回の診察日には必ず診断名を確認するように念を押すと、「そう言われたよ」と返ってきた。誰のものでもない自分の体なのに・・・病気になったら医者に丸ごと体を預ける積りなのカッ!!。

  定期検診など私はまめに受ける方でたまに抜けると気になる。検診事態の有効性に関しては議論のある所だが、それでも安心の相対的な目安にはなるだろう。彼は自発的には受ける方ではなく、私がうるさいから受けとくかといった程度である。万事なるようにしかならないという主義だ。確かに彼が病身になると私が困る。回復可能な病ならまだしも、回復不能の病だけは得たくない。私が気付かなかったばかりに・・・と後悔したくないから私は口うるさくなる。・・とはいえ今や2人に1人が癌になる時代。1人が罹患しても平均的な訳だが、自衛・予防策で防げるものは防ぎたい。

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家庭新聞を発行していた

2013年12月09日 | ねったぼのつぶやき

 今年も師走を迎え残された日も少なくなった。今は暮も正月も変わらない日々だが、子育てや仕事の現役中はいつも慌ただしく、とりわけ年末は大掃除と重なって大忙しだった。4人家族の動きを一覧するには、既成のカレンダーでは間にあわず、画用紙を12枚購入して例年一年分のカレンダーも作っていた。その頃家庭新聞を発行していたので、暮には我家の10大トピックスを選び出した年末号も恒例の作業になっていた。

001  その家庭新聞は私の思いつきで始めた。心身に健康上の問題を抱えている方々と接していた私には、日毎に育ちゆく子等の成長は目覚ましく記録を残したいと考えた。B5サイズの用紙一枚を4分割し、各自がその月の行事や出来事をイラストを含めて手書きし、学期末には通知表の「あゆみ」も公表していた。そして毎月5部コピーして、各祖父母に手紙代わりに郵送していたので電話での話題も弾んでいた。残り3部は子供らが世帯を分かつ際持たせたいと取り置いていた。本棚の隅にある表紙に和紙を張った手作りの「2分冊の本」は我家用の一組だ。引き出して繰ってみると、長男が小4~高3年を迎える迄育ち盛りの8年間続けたことになる。

 今は水が低きに流れるように、音もなく静かに日々は流れてゆく。今回久しぶりに引ぱり出しパラパラとめくったら即あの頃に立帰った。私達も未だ雑用に紛れているが、いずれ足元も覚束無くなり、外に出るのが億劫な年令になったら、整理し直したアルバムや和紙本を、飽きもせず何度も何度も読み返す時が来る事だろう。子供等も当時の私達のように働き盛りで子育てに忙しく、それはどこかに突っ込んでいる事だろう。そしていつかヒョッコリ見つけて懐かしく眼を通してくれる日が来ることを願っている。

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干し野菜とズイキ炒煮

2013年11月22日 | ねったぼのつぶやき

 10日余り留守にして普段の生活に戻った後ハタと気がついた。確かこの時期「芋がら」を入手してズイキを作ってたんだと。早速いつも購入している農協に入荷状況を問い合わせた。「見かけませんね~」と。翌日再度試みると「天候不順もあって~」と入手困難の風。どうしても欲しいと申し出ると、農家に当たった後、折り返しのの電話で「10束取り置くから〇曜日来るように」とあった。霜にやられた農家が多かったらしい。

004 当日売場に5束出ており、買い増した2束と取り置いた10束計12束を車に積んで帰った。皮を剥き6本組にして干す作業に3時間は要したろうか。1~2日干すと茎は細くシンナリとなるが剥きたての茎はズングリして逞しく、一列に並べると壮観だ。ズイキ作りは私の恒例の家事作業の一環になっているので、今年はダメかと半分観念していただけに殊のほか嬉しい。「ズイキ」はマーケットでは先ず見かけず、デパートではなくもないが探すのはかなり難しい。同世代以下の人達は恐らく実物を見ても、物事態も料理法も解るまい。乾物にすると保存できて通年使用可能な貴重な食材である。

 かつて主婦達は、味噌・醤油を手始めに色んな行程・工夫を凝らして食に限らず、生活をヤリクリしていた。手間を承知でやっている私すらも、セイゼイ干し野菜や、それらの味噌漬け、酢漬け程度である。私が手伝っているディサービスは、かって主婦業を張っていた方々の集団の様なものだ。私は折々、今何をどうやっているといった話題を出す。そしてそれらを使い、手作りした漬物や差し入れを持参すると、皆さん喜んで召しあがって下さる。利用者様とのこの種の付き合いは、若い職員には真似できまいと少々自負もしている。ズイキが完成したらアク抜きして、千切りした人参・白滝・薄揚・干しシイタケと炒め煮にして皆さんと共に愛でよう。

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密度の高い帰省だった

2013年11月15日 | ねったぼのつぶやき

 在外の日本人柳田孝子さんが、心をこめて歌った「日本の抒情歌コンサート」から3週間が過ぎた。それを発案し、同郷である枕崎市長及び市の文化担当者と共に企画し、成功裡に導いた人も2ケ月ぶりに帰国した。「帰ったら慰労会の計画が用意されてるの」と言っていたけれど、この週末辺りだろうか。その人は大仕事を遂げて一休みしたら、マタマタ次なるプランを打ち出しかねない人なのだが、事実次なる腹案を洩らして帰って行った。

035 今回の帰省は幾多の行事参加を重ねて密度濃い物だった。両親の墓参は当然として、コンサート、関係者様方との懇親会への参加、砂風呂始め枕崎名所巡り、鬱蒼とした樹木に囲まれた城山遊歩道の散策、木造駅舎嘉例川駅~霧島神宮巡り、卒後50周年の同窓(期)会出席、おはら祭前夜祭参画、小雨もよいの本番の見学・・・等々。桜島の噴火は健在で、資料館の板書によると既に800回近かった。風向きの加減で、直接の降灰には合わなかったが地面から舞い上がっていた。

 3大イベントのもう一つはこれで最後(5年毎に挙行)になるという大同期会。500名卒業中158名の参加者は全国から参じた事だろう。事後いくつかのメールによると翌日・翌々日と交歓もあったらしい。私はさる人によりブログのコメンテーター氏と会った。恐縮の方は私なのにその人の方が後じさりされていた。ブログ(要クリック)といえば先の懇親会「五条」の若い女将さんは、枕崎から人や食を連日発信されていて、懇親会当夜の様子も10/28日掲載(下線クリックで表出)されていた。柳田さんは美声もさることながら、笑顔の美しい柔和な人だった。この写真からも見てとれますね。

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柳田孝子ソプラノコンサート

2013年10月23日 | ねったぼのつぶやき

  一年がかりで準備された「柳田孝子ソプラノコンサート」が、27日鹿児島の枕崎市で開催される。このコンサートはトロント在住の私の旧友が、同じくトロント在住で日本人ソプラノ歌手の歌を日本でも聞いてほしいと発案し、たまたま同期である枕崎市長が市の文化事業として取り組んでくれ実現した。郷里を後にして50年経ち、枕崎・鹿児島界隈にチケットを確実にさばける知人も・・少い。何の手伝いもできない私はせめてと思い、8月アトランタ滞在中に、飛行機の往復キップをツレアイを通して発注してもらっていた。

026 折も折、台風26号は伊豆大島に大きな爪痕を残して去ったばかりなのに、新たに27号が発生し28号さえ芽生えてダブルで襲来の恐れもあるという。一週間前には土石流に飲み込まれた人の多さに心を痛めていたが、今度は我身が不運に見舞われそう。不運といってもその度合いは非較にならない位・・軽微であるが。予約便をキャンセルして早めに出立するか。いっそ新幹線に切り替えてみるか。そんな訳で、朝に夕にTVの気象情報を固唾をのんで見つめ思案を巡らせている。

 さて当の「柳田孝子ソプラノコンサート」にいつも世話になっている兄嫁のみを誘ったが、兄貴も行くという。彼は商売人で善良なお人好し。友達に売れない流行歌手がいて、チケットの売りさばきに苦労していたから同等に考えたのだろうか。兎も角枕崎までソプラノを聴きに行くというのだから、彼にとっては画期的なことである。発起人である旧友が言うには、とても素敵な地で素適なコンサートホールらしい。コンサート後には懇親会が催され参加予定だ。「日本を代表するソプラノ歌手佐藤しのぶさんと共に留学した」という柳田さんに接するだけでなく、この種の経験のない私には、相互にどんな会話が交わされるのか楽しみだ。

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久しぶりに芝を刈る

2013年10月18日 | ねったぼのつぶやき

 時間に追われるような用事はさほどないのに、最近少々家事がおろそかになっている。いつもなら鍋一杯煮物など作り、近所の若い子持ちの奥さん2人に差し入れしているのだが、それもこの所滞っている。低木の枝が不揃いになって目立っていたのでハサミを入れたものの、芝の中に自生する雑草は、伸びた芝に隠れて目立たないのをいい事に放置していた。

012 伊豆大島に甚大な被害をもたらした台風。連日TV・紙上で現地の様子が報道されている。土石流と化した山肌はえぐられ、山林は物みななぎ倒して下流を襲った。土石流に埋まった肉親の救出を待つ親族の心労はいかばかりか。多摩地区では眠っている内に通過したというのに。台風一過の庭に降り立ち、良くよく見ると芝表面に浮き立つ雑草がやけに目立つ。ハンディタイプの小型の芝刈り機を出して芝を刈った。

 庭作業をする時はいつもそうだが、脈絡もなくアレコレと思いは錯綜する。今米国の「債務不履行」の懸念が世界中の耳目を集め、先延ばしながら一応の決着を見た。過日娘の交際相手氏が、オバマ政権の方針に異を唱えていたな~。「小さな政府でいいのだと」。例えば移民に寛大でそこからの税収は少なく、出費の増大を強いられるばかりだと。(教育分野に於ける出費だけでも膨大らしい)。銃を法的に撤廃したら違法者の前では丸裸ではないかと。国民皆保険・銃規制など、日本では当然の事だが、娘の通訳で聞く彼の反論も成程と頷けるのだった。遠来の私に娘以上の気遣いをしてくれた彼が、娘達を変わらず守ってくれるよう願っている。

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もうすっかり秋の気配

2013年10月04日 | ねったぼのつぶやき

 今日から2ケ月ぶりに体育館のジムでエアロビクス教室が再開された。8月は自己都合で不参加だったが、9月は国体のバレーボール会場に充てられ、それを機にジム室の機器も最新式に入替の為閉鎖されていたのだ。ジムの外周に設置された新しい機器は、いずれも相当ごつく物々しい様相を呈していた。いずれも重量の負荷が可能な形式になっており、エアロビクスのない日に、一つづつトライする必要がありそうだ。

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  私のエアロビクス歴はかなり長い。それは現役の頃から持続していて、毎年ゴールデンウイークになると我家にやってきていた母に「仕事で忙しくしているのに、その上未だ運動をせんといかんかねぇ」と言われたものだ。それゆえある程度の運動しないと体に不調を来す。自宅で一人で行えるのはストレッチである。米国の娘宅でも、疲れると日夜呼吸法を取り入れたストレッチをやり、心身の緊張をほぐして自分の健康管理をした。それでも体重はかなり減少したのだが、戻しつつあるとはいえマダマダ不足している。

  帰国してそろそろ一月が過ぎた。私の不在中に、近燐ではベビーの誕生と末期がんの入院という変化が起きていた。時に新生児の泣声が柔らかく聞こえる。がんの方はほぼ同年代であるだけに何とも痛ましく思う。義母様を最後まで自宅で介護され、それから解放されて2年もたったろうか。奥様も病院通いでお疲れのご様子である。「トイレの便座を高くして使い易くしたの」と言いつつ、「連れ帰っても辛そうにしているのを看るのも辛くて」・・と。昨日の散歩では、利用者さん達と真夏の日差しを背に受けた。明けて今日はもうすっかり秋の気配である。

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