玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*人の寿命

2018年01月29日 | 捨て猫の独り言

 日本の100歳以上の人口は、1963年では153人で、54年後の2017年は6万7824人だった。驚くべきことに2050年には50万人と予測されているという。1963年生まれで東京大学・分子細胞学研究所教授の小林武彦氏へのインタビュー記事の見出し「ヒトの寿命は本来55歳?」は新鮮だった。そしてなぜか安堵した。

 「私は遺伝的に定められた人間の寿命は55歳程度ではないかと考えています。この年齢あたりから、癌で死ぬ人の数が急増するからです。55歳以降の人生は、公衆衛生や栄養状態の劇的改善、医学の発展という文明がもたらした生と言えます」とある。先ごろ私の友人は電話口で「71まで生きたからマァ、イイカ」と言い残して死んだ。(日枝神社にて)

  

 名のある人が何歳で逝去したか少し調べてみた。森鴎外は「鴎外としてではなく林太郎として死にたい」と遺言して60歳、夏目漱石は「明暗」を執筆中に胃潰瘍で49歳、長く病に伏した正岡子規は34歳、幸薄い人生を送った石川啄木は26歳、芥川龍之介は35歳で「ぼんやりとした不安」と睡眠薬で自殺した。

 生存中は無名の作家だった宮沢賢治は37歳、プロレタリア作家小林多喜二は特高警察により29歳で拷問死、太宰治は38歳の時に妻とは違う女性、山崎富栄と玉川上水で入水自殺を遂げる。1970年に自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した三島由紀夫は45歳だった。

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*カズオ・イシグロ

2018年01月25日 | 捨て猫の独り言

 ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏が「ノーベル賞」と「文学」について語るのを見たり聞いたりした。これほど自分の受賞について明解に語るケースを私は他に知らない。そもそものノーベル賞について、つぎのように語る。

 「ノーベル賞は真に国際的な賞で文明や知識を進化させるために、人類が協力してなすべきことは何かを表しています。象徴しているのは良いことをするために努力するという考えだと思います」(写真左は満月ロウバイ)

  

 「科学技術は世の中を進化させるが、文学には常識や偏見の壁を乗り越える力がある。私たちは自らの国や集団の中では、自分たちのやり方は正しいと信じてしまいがちです。それが本当に正しいのか、立ち止まって考えることはありません」

 「私たちが自分自身を見つめ、壁を越えて理解するためのものです。文学は人間の活動にとって非常に重要なものです」私はまだイシグロ作品を読んではいないが「記憶」ということが大きなテーマだと聞いた。これは「歴史」と言い換えてもよいのだろう。

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*季刊誌

2018年01月22日 | 捨て猫の独り言

 元旦の正午ごろは近くの小川寺に行く。その前に、青梅街道をはさんで真向いにある小平神明宮の初詣の善男善女の長蛇の列を見物に行く。お参りはせずに神社の裏口から境内に入り、拝殿前の行列を眺めながら甘酒をいただき、焚火にあたる。それでもまだ、この不届き者への天罰はくだっていない。

 小川寺に行くのはその後である。こちらは殆ど人影がない。除夜の鐘をつくために並ぶ人は大勢いるのだろう。だが、それをこの目で確認したことはない。小平の開拓者である小川九郎兵衛が勧請して開いたのが小川寺で、本人も境内の墓地に眠る。(国分寺の殿ヶ谷戸庭園入り口にて)

 

 臨済宗円覚寺派の寺院である。季刊誌「円覚」の正月号が置かれているので、毎年持ち帰る。それを開くと今年は釈宗演老師の百年忌とあった。老師の「菜根譚講話」にまつわることが書かれていた。菜根譚は中国の古典。記事の主旨は大自然と人の心は一体ということだった。私が菜根譚で教わるのは「小過を責めず、陰私をあばかず、旧悪を思わず」である。

 釈宗演について調べてみた。日本人の僧として初めて「禅」を「ZEN」として欧米に伝えた禅師として知られている。師に福沢諭吉、弟子に鈴木大拙、夏目漱石などとある。円覚寺派管長や東慶寺の住職を務めて、東慶寺にお墓がある。北鎌倉の東慶寺は昨年の夏に訪れた。そこでは鈴木大拙と小林秀雄の墓所に参った。

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*すこし遠くまで

2018年01月15日 | 捨て猫の独り言

 ある日、すこし遠くまで歩きたいと思った。いつもなら自転車でゆくところを歩くとどのぐらいかかるだろうか。そして、どこかに歩数計もあったはずだ。リチウム電池を入れ替えると歩数計が動いた。この電池が歩数計のためのものだと知った。歩数計だの時計だの、あまりにも計量に気持ちが傾き過ぎている。そこで毎日新聞の近藤勝重のコラムを探して、つぎの達意の文章に再会した。

 「心は内に閉じ込めるものではなく、外に連れ出すものかもしれない。そう気付いて始めたのは、外に出て自然に触れ、くつろぐことであった。事実、心が自然の中で生き生きと動き出すと、心身が前向きになれた。精神の勇躍である。木を眺め、その上の空を見上げ、木の下の大地の感触を得ると、木は木で生きているといったことをはじめ、自然を成す一つ一つがそれぞれに役目を果たしていることも、今さらのように納得できた」

 この日は都立小金井公園を目指して歩いた。玉川上水沿いの緑道だけを歩く絶好のコースだ。歩き方について同輩のアドバイスを受け、そのことに留意して歩く。外に出て自然に触れ、くつろぐというのとは大違いだ。心の解放というよりも、身体に負荷をかけるというのが一番の目的という歩きである。公園にある「さくらの園」のベンチに腰をおろすまでに、ひたすら歩きで1時間だった。(写真左はコゲラが好むマユミの実)

 

 しばしの休憩の後の後半の歩きでは、足が張った感じになり、汗ばんでセーターを脱ぎ、集中力に欠ける状態になった。地図上の計測では片道5㌔である。歩数計は往復で15000を示していた。。この程度のひたすら歩きを週に2回ほど行えれば立派なものだ。この日は公園のベンチの背もたれに付いているプレートに気付いた。2003年から東京都建設局が行っている「思いでベンチ事業」だと知った。15万円または20万円の寄付でプレート入りのベンチが新設されるという。

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*沖縄と核

2018年01月11日 | 捨て猫の独り言

 暮れにNHKスペシャル「沖縄と核」の再放送を録画し、繰り返し二回見た。1962年10月のキューバ危機の際に、沖縄に配備されていた核ミサイル「メースB」の基地の元アメリカ兵の証言は私にとって衝撃的だった。沖縄ではメースBは当初は無人飛行機と発表され、核ミサイルであることは伏せられていた。

 その元アメリカ兵は「私は恐怖で泣いていました。第三次世界大戦がはじまるのです」と当時を振り返り涙を流す。よみがえる恐怖の涙なのである。当時私は高校3年だったが、キューバ危機は報道で知りながら、身近の沖縄で核戦争の瀬戸際の恐怖にさらされていた人々が存在したことは知らないでいた。

 番組ではメースBの配備を巡る日米のやりとりも取り上げていた。外務大臣小坂善太郎、国務長官ラスク、駐日大使ライシャワーの発言が残されている。唖然としてしまう日本政府外交の志の低さである。小坂「沖縄にメースBなどの武器を持ち込まれる際、事前に一々発表されるため論議が起きているが、これを事前には発表しないことはできないか」ラスク「何らかの発表を行うことは必要と思われるし、いずれにせよ隠しおおせることはできないと思う」

 ライシャワー「なにも発表しないで後からわかっては一層具合が悪いのではないか」小坂「事後に判明する場合には今さら騒いでも仕方がないということで論議は割合に起きない。事前に発表されるとなぜ止めないのかといって日本政府が責められる結果となる」沖縄返還に当たり、沖縄にも非核三原則を適用するよう求める琉球政府立法議員の陳情に対して、核抑止力の維持に直面していた佐藤総理は「出て行け、出て行け、出て行け、出て行け」と怒り散らしたという。大陸間弾道ミサイルや潜水艦発射弾道ミサイルの開発で、現在は沖縄に核兵器は存在しないという。

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*今年も回顧川柳

2018年01月08日 | 捨て猫の独り言

 軽井沢のBさんから恒例の回顧川柳の賀状が小寒の5日に届いた。Bさんは一昨年の暮れに緊急入院してICUに2ヵ月も隔離されていた。その関係で、昨年は賀状が届いたのは4月末のことだった。

 40の句がハガキの両面にびっしり並んでいる。少ない余白に「まだ、しぶとく生きてます(笑い)ねたきりですが心は明かるいです。あなたも益々お元気でね!」としっかりした筆跡で書かれていた。(写真中央は玄関先で公開されていた折り紙作品)

 ㋄【公表の場】読売は与党の機関紙だったのね。これには(改憲の真意は読売を熟読されたいと首相。なお、拙句発表3週間後毎日に類似の投句掲載あり)と但し書きがある。このことからBさんは地元紙かどこかに熱心に投稿しているのかもしれない。

  ㋀【森友学園】不忠者畏き勅語が飯(めし)の種 ㋇【空騒ぎ】ミサイルはアラームなる頃通り過ぎ ㋈【慣れっこ】ミサイルも飛んで長閑な秋日和 ㋋【危機管理】アラートは鳴らない米軍落下物【酔狂】富岡へ初詣に行くいい度胸(怨霊信仰?)。畏き=かしこき、長閑=のどか などの漢字の読みが学べる。

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*西郷どん

2018年01月01日 | 捨て猫の独り言

 例年通り、暮れに鹿児島銀行の2018年の一枚カレンダーが届いた。空と海にはさまれた桜島の写真だ。寺山地区から撮影とある。維新150年に当たり、NHKの大河ドラマ「西郷どん」が1月7日から放送される。明治10年の2月「政府に尋問の筋あり」として西郷軍の先発隊が鹿児島を出発して、熊本城と田原坂の激闘があり9月に西南戦争が終結した。西郷隆盛51歳だった。

  

 32歳の7月京都にいた西郷のもとに、斉彬急死の報が届く。殉死を思うも、僧月照に止められる。安政の大獄から月照を保護すべく共に京都を脱出。薩摩藩は月照の日向追放を決定。錦江湾で藩船の上から、月照を抱き込むようにして水中に身を投じた。だが体格のよい西郷は蘇生、小柄で痩身、しかも年をとっていた月照は水死。

 藩は西郷の職を解き奄美大島に潜居させる。33歳の11月愛加那を「島妻」とし結婚。菊次郎と菊子が生まれる。彼女は島妻ゆえに、内地の土を踏むことが許されない。36歳鹿児島へ召喚されるが、久光の命を破り、京都から鹿児島に送還され、徳之島さらに沖永良部島に遠島を命じられる。この年の8月に生麦事件が発生。37歳薩英戦争の報が入り島からの脱出を試みる。

 38歳2月21日に西郷従道が島に召喚に出向く。28日に鹿児島に帰還。3月に京都へ。9月に勝海舟と面談。第一次長州征伐に際し、勝の意見に感服。39歳の1月23歳のイト(糸子)と結婚。寅太郎、牛次郎、酉三が生まれる。イトは愛加那の子を引きとり、愛情をもって育て上げた。それは菊次郎が8歳の時で、その菊次郎は後に台湾の宜蘭(ぎらん)庁長や京都市長を務めた。西郷の理想の部分を最もよく受け継いだ人物と言われる。

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