玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

20数年振りの来訪者

2008年08月28日 | ねったぼのつぶやき

 ハーモニカ教室を終えて帰宅すると玄関に来訪者の靴があり、聞きなれない声が聞こえた。ハテ?来訪者の予定はなかったはず?と思いつつ部屋に入った。なんと我が家のPCから振り返り「お母さん お久しぶりです」と言ったのは帰国後初来日したJackだった。

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 あれから20数年。彼は18才で国費(日本)の留学生としてフィリッピンからやって来た。府中にある日本語学校で日本語を学んでいた時から、私は「来日留学生の日本での母親」役をしていた。府中時代には何度か来宅し、小学生と中学生だった子供達は何度も親しんだ。翌年京都大学から大学院に進み10年滞日後に帰国した。帰国当初に電話は時々あったがその後音信不通になっていた。

 日比に関わるマネージメント業を起こし、今回通訳として再来日した彼は45才になっていた。かっての青年は壮年になっており、子供(かってのわが子)の事を目を細めて消息を尋ねた。そして格差が激しく、インフラ整備が遅れている母国を憂えたりした。そしていずれ”フィリッピンに畳のある家を建て、子供達は日本に留学させたい。少しずつ日本語教育も始めている”と言った。赤ワインをよく飲んでの帰り際に”ここは日本の私の家”と宣言していた。本当に彼の子供が我家を訪れる日も遠い先の事ではないかも知れない。

 

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*プロ野球離れ

2008年08月26日 | 捨て猫の独り言

 よく新緑の西武球場に出かけていました。プロ野球に興味が無くなり、2年前から出かけることを止めました。今では春夏の高校野球とMLBのテレビ観戦だけで十分な身体になりました。今回の夏の大会で沖縄の浦添商が決勝進出したら甲子園のネット裏席に駆けつける予定でした。残念ながらそれは実現しませんでした。

 北京五輪の野球は日本は4位に終わりました。出発前に監督がコーチ陣を引き連れて会見している場面がありました。その画面を見て違和感がありました。なんとまあ仰々しい親分一人が目立ちその取り巻きに精気が見えません。ところで星野監督は修辞がとてもうまい方だと私は思います。

 7月に監督が24選手全員に送った手書きの手紙には 「北京の夏に、季節はずれの桜を咲かそう」 とあったそうです。直前合宿で村田が体調を崩し、川崎が左足の痛み、西岡も首のはりを訴えた。入れ替えは可能だったが 「いけると言ってくれた。その気持ちがうれしいやないか」 と北京へ連れて行きました。韓国に敗れ金の望みが絶たれた後の発言は 「何かが足りなかったからこういう結果になったんだろうが、ひとつひとつ分析してもせん無いこと。選手は本当に頑張った。明日は何とか勝ってメダルを取って帰る」

 北京五輪視察を終えたロッテのバレンタイン監督の発言があります。『エネルギュシュさが感じられず、過去の米国代表のように大会を楽しめていない唯一のチームと感じた』 困ったことにそのような状態に陥った原因が私には見えてこないのです。監督がいとも簡単に金の約束をしてチームはその重圧に押し潰されたのであろうかぐらいしか思いつきません。帰国当日の記者会見での監督の言葉はつぎの通りです。「強いものが勝つのではなく、勝ったものが強いということを実感した」 来年3月のワールド・ベースボール・クラシックで誰が指揮を取るのか興味深いところとなりました。

  

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田園を背にCyclingす

2008年08月22日 | ねったぼのつぶやき

 同じく長野で真夏の早朝、私以外の6人はアスリート用の競技用自転車を連ね、鮮やかなキャップ、スーツ、グローブで装備して田園風景の中を颯爽とスピィディーに走り抜けた。道路沿いの水路はサラサラと音を立て、水は拓かれた田園に導かれ、小高い山並から途切れることのない連山は朝もやの中に見え隠れした。

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 今回の主目的は、「ギャザリング」と命名されたグループのサイクリングらしかった。各メンバーは夫々自分で自転車を車で持ち込み、あるいは宅配されていた。つゆ知らなかった私はママチャリ(借り物でこれも初ギア付き)でもOKと許された。往復の道のりは約30Kmで2時間。平坦に近い道でも緩やかながら多少の起伏は当然ある。身構えて参加したのだった。

 彼らにとっては何度めかのツーリング。サンダル履きで来た私は運動靴や日焼け予防の手袋迄借用し、走行中の注意やVitaminCを頂いて、リーダーの次の2番手を走った。普段から多少の運動はしているが「お荷物になってはいけない意識」は大だった。緩やかでも坂が続くとかなり応えたが何とかセーフ。航海中運動を共にしたツーリングリーダーの夫人が、用意のない私の参加を懇願して下さった様で、田園風景を堪能しつつ完走出来た私を祝福して下さり感謝至極だった。

 

 

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*100m背泳の宮下

2008年08月19日 | 捨て猫の独り言

 オリンピック代表選考会を兼ねた競泳の日本選手権が4月に開かれた。男子100m背泳ぎで宮下純一(24)が54秒37で2位に入り、夢の舞台の切符を手にした。1位は前回のアテネ五輪の銅メダリスト森田智己(23)であった。宮下は4年前の筑波大生の時は3位で代表を逃している。森田は宮下の長い間の目標だった。

 宮下は大学卒業後に大手芸能事務所ホリプロの契約社員となった。タレントではなくスポーツ文化部所属だ。もっとも泳ぎに専念できる契約になっており出社に及ばずである。1回につき8000mを1日に2回ひたすら泳ぐ日々である。ホリプロは元アスリートのタレントとは異なる現役選手を取り込むという初の戦略に出たのだった。

 今回の北京の予選のタイムは宮下が54秒12で、森田が54秒21であった。続いて準決勝では53秒69の日本新記録をマークし7位で決勝進出を果たす。森田は53秒95の10位だった。宮下の決勝は53秒99の8位に終わる。しかし運の強い男だ。ライバル森田に勝った宮下は400mメドレーリレーの一員となったのである。競泳の最終種目で宮下、北島、藤井、佐藤の日本チームはアテネに続いて銅メダルを獲得した。第一泳者宮下は53秒87の4番手で戻ってきた。主将の北島から53秒で戻らなければ短髪にすると言われていたという。

 幼稚園では水が嫌いで水遊びができない子だった。むりやり泳がされ水泳は好きになったが水泳以外のスポーツは苦手だという。宮下は高校3年の体育祭の各部対抗リレーでどうしても赤ふんで走りたいと思った。粘りの交渉が功を奏して 「そんなに赤ふんで走りたいのならやってみろ」 という許可らしいものが出た。それは今でも後輩に引き継がれているという。また彼にはつぎのような側面もある。高校1年の時に詠んだつぎの作品が南の街の句会で特別賞を受けた。「声援が しぶきにぬれて 泳ぎ切る」 これから銅メダリストと呼ばれる。好漢自重せよ。

 

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白馬Jump競技場から

2008年08月16日 | ねったぼのつぶやき

 この所オリンピックと高校野球の放送で世の中は一入熱く忙しない。そんな折かってJump競技が繰り広げられた白馬の競技場に立つ機会を得た。長野で行われた冬季オリンピック競技をTVで見入り、原田選手らの涙のコメントから10年が過ぎていた。

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 一人ずつリフトに乗り緑濃い山の斜面を望みながら展望台へ。そこからの眺望は丸で”スイスはこうか?”と思わせる程美しい風景が広がっていた。スタート地点迄は徒歩だった。除雪対策の為階段は全て網仕様になっており眼下が丸見え。高所恐怖症の一人を残しはしたものの、余りの高さに足元が震え手すりを持つ両手に力がこもり、皆寡黙になっていた。

 目も眩む様な高さ。スタート地点ではJump台から先は全く見えない。高い斜面を助走をつけ乍ら滑走し、ジャンプ台から力強く空中に飛び出し、前傾姿勢と飛形を整えながら飛距離を競う競技で、金賞を得た彼らの涙を深く理解した。下に降りて再度見上げると、オールシーズン化した競技場で女性を含む学生数人が滑走を繰り返しており、彼らは楽しんでいる風にさえ見えた。

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*夏の甲子園

2008年08月12日 | 捨て猫の独り言

  百日紅が今を盛りと咲き誇っている。夏の暑さにはその名の通りの紅い百日紅の花がいい。偶然手にすることになった山崎豊子の 「不毛地帯」 を3週間かけて読み終えた。視力の衰えに抗いながら分厚い文庫本4冊に取り組んだ。いくぶんか暑さを忘れることができた。夏の高校野球を愛する同級生のことをお知らせしたい。私も高校野球を好むが彼は私と異なり屋外派だ。

  彼の住居は甲子園から歩いて10分ほどのところにある。プロ野球にはあまり興味はない。春夏の高校野球には郷土鹿児島の応援に甲子園に駆けつける。乗り込むときはその日の全試合を見届けるのが常だ。以前は準々決勝4試合がまとめて一日で行われていた。その日の8チームの中から必ず優勝校が出ることで人気の一日であった。郷土校の有無にかかわらず準々にはよく出かけたものだ。現在は準々4試合が2日に分散されているので残念だという。

 この夏テレビの映像を見て気になることが起きた。バックネット裏の最前列にいつも同じ顔の男性の一群がいるのだ。あの男がいつもの席に陣取りいつものように延べ時間にして膨大な時間全国にその姿が放映されている。若くはない。日に日に日焼けしていく様子がわかる。もっともそんなことに注目しているのは私ばかりかもしれない。今回は郷土校の初戦の時に彼はたまたま我が家を訪れていた。そこで初戦は共にテレビ観戦になった。郷土校の第2戦はもちろん甲子園に出かける。最前列のあの男たちを調べて報告してもらうことにした。

 そしてつぎのメールが届いた。かの面々は1,600円x17日(27,200円)の通し切符を入手している。バックネット裏席を目指す人は早い人で朝4時ごろだと想像していたが違っていた。なんと連日徹夜で並んで席を確保しているのを知って衝撃を受けた。夜10時ごろ甲子園球場で彼らを見かけて解ったことである。一致団結して並び風呂など交代で出かけているものと思われる。それにしてもあの年齢でまるまる一日太陽の下で過ごすことを続けるのだから恐れ入る。絶対にあの席には座れないと全面降伏した。そこで明日13日の第4試合(鹿実ー報徳)の観戦方法を思案中である。

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今も鮮烈・アーミッシュ

2008年08月07日 | ねったぼのつぶやき

 前回の記述にアーミッシュがあるが、私の印象も強い。初(25年前)の海外旅行先がペンシルバニア州で彼らの居住地の近くだった。彼らの家や市場で卵、パン、野菜等を買ったり、キルトの作業を見たりした。

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 ホームスティ先の婦人が「彼らにカメラを向けないで」と言った。成人男性は長い髭を貯え山高帽を被り、女性は化粧は論外、伸ばした髪を後ろに束ね木綿のシンプルな被り物を覆っていた。電気は一切使わず風車の動力を使い、農業を営み農耕具も昔さながらだった。移動は車でなく幌馬車だった。

 その後映画「ウイットネス・目撃者」を見た。彼らの生活を見ていた私は、その映画を身近に感じた。直近では06年に起きた学校での想像しがたい銃撃事件だ。下級生を庇って僅か13才の年長の少女が銃の前に立ち、真っ先に撃たれながら加害者家族を許しさえした平和主義の心・・。その後少なからぬ海外旅行もしたが、信条に基づき生活様式を守るアーミッシュ村の記憶が未だ一番鮮烈だ。彼らの生活様式はオリンピック狂想曲に豹変を遂げた北京と違い、今も当時と変わるまい。

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*まだ見ぬアメリカ

2008年08月05日 | 捨て猫の独り言

 新聞には週に一回短歌と俳句の投稿作品の掲載がある。昨日その作品群の中に京都市の女性の歌があった。〈 「喜びは創り出すもの」言い遺し花の盛りにターシャさん逝く 〉 選評にはターシャ・チューダは米国の絵本作家、自然を愛し、ゆったりと生きた人。これは彼女の素敵な生き方を思う歌とある。時事性により選ばれたものだろう。

 昨日の夕刊にはロシアの作家ソルジェニーツィン氏死去が報じられた。国外追放された彼は76年から約18年間アメリカで暮らした。その場所はターシャも住んだバーモント州なのだそうだ。私はまだ一度もアメリカを訪れていない。MLBのテレビ観戦も増えた。最近では東海岸を中心としてアメリカへの関心が広がりつつある。

 例えばペンシルバニア州にはアーミッシュという独特の文化を形成している共同体が存在する。私がその存在を知ったのはハリソン・フォード演じる映画 「刑事ジョン・ブック/目撃者」 である。映画はあくまでも物語である。実際には共同体外部の異性と恋愛することは現在でも皆無とされるようだ。

 その共同体は東洋の僧を連想させる。僧というのは一人一人のお坊さんではなくそのお坊さん達の集団のことらしい。一人暮らしだと日々の雑事で時間を取られるし、病気や老齢で体が弱れば修行はストップする。しかし集団で暮らしていれば、分担制で仕事量を減らし、若くて健康なメンバーが、弱った人の面倒を見るという形で、皆がそろって修行を続けていける。僧とはこのように合理的な相互扶助システムと見ることができる。アーミッシュも僧も今後とも多くの人々にヒントを与え続けるに違いない。 

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中途半端な身分と気分

2008年08月01日 | ねったぼのつぶやき

 手伝っている職場で月一回夜のミーテングがある。当初は毎度参加していたが、この所参加しいていない。介護に寄り添いたいと思いつつも、寄り添い切れない部分が残る。”全てが愛護的にとなる”会議の間中違和感が拭えないのだ。

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 色々あるが・・例えばストレッチや運動や歩行。元来対象者は高齢で身体上の苦痛(姿勢、マヒ、痛み、運動機能、筋力低下・・)は在る。医療者側から見れば例え機能維持レベルであっても、運動には多少の負荷は不可欠と考える。片や負荷はマイナス要因と受け止める向きもあり”ムリはサセナイ”となる。安全で親切な”手繋ぎ歩行””車椅子散歩”が多くなり、施設(家族も)側の大前提=安全とピッタリ合致もするのだ。

 介護施設の職員はヘルパーさんが主体である。さして若くもない彼女らも利用者さんを中心に明るく元気に立ち働いている。組織としての一要員に過ぎない私がアレコレ口を挟むと職場を混乱させるかホゾヲカムに過ぎない。何も大上段に掲げなくとも職員共々”明るく楽しく過ごせる場所”であればそれで充分・・なのだ。

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