玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*豪華昼食

2016年01月29日 | 捨て猫の独り言

 年会費を払っている会がある。その会が企画した「日帰り旅行」に参加した。立川から首都高を貸切バスで移動する。まず港区の増上寺で参詣し、中央区の「つきじ治作」で昼食、そして台東区の谷中銀座を散策するという日程である。どの場所も私が初めて訪ねる場所である。この地球上の生きものについて、知らないものが数かぎりなくあるように、東京についても私が知らないことは多い。

 芝の増上寺は上野の寛永寺と並んで徳川家の菩提寺である。境内から眺めると東京タワーが背後にそびえ、プリンスホテルや慈恵医科大学病院が望める。秘仏「黒本尊阿弥陀如来」の安置された安国殿に上がり、正月初祈願貸切法要を受ける。堂内の徳川家康肖像と皇女和宮の立像が目に止まった。将軍家墓所には入場せず低い塀の外から爪先立って中を覗き込む。恵まれ過ぎた寺である。全国に寺の数は多いが、その格差は拡大するばかりだろうと考えた。

  

 隅田川の下流右岸一帯は大川端と呼ばれ江戸時代の行楽地である。そんな場所にあった三菱の岩崎弥太郎の旧別邸にて、日本の割烹王と呼ばれた本多次作が昭和6年に創業したのが「つきじ治作」という。玄関を入ると左右に並んだ巨大な信楽焼の「びっくりどびん」や、巨大な石灯籠が迎えてくれる。後で知った会席料理の代金は12000円だった。ひととき大名気分を味わう。

 

 「入り日入り日まっかな入り日 何か言え 一言言うて落ちて行けかし」と海辺で夕日に向って叫ぶシーンで始まる「永六輔のにっぽん夕焼け紀行」という番組を見たことがある。その中の一場面に「夕焼けだんだん」と呼ばれる石段が登場する。色紙に書いた種田山頭火の夕日の句を永六輔がいくつか紹介しながら日暮里駅の方から谷中銀座の方へ歩くと、そこに石段がある。思いがけずこの日の夕暮れ時に、私はその石段の上に立っていた。

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*二つの新年会

2016年01月25日 | 捨て猫の独り言

 オープンギャラリーでは、つぎの節気の前日の午後に展示の入れ替えを行う。鈴木さんから「小寒」の展示終了後すなわち5日に「新年会」をやろうと誘いを受けた。場所は鈴木さん宅の離れで、ここはギャラリーの展示物の作業場になっていて「花のアトリエ」の看板が掲げられている。鈴木さんは手打ちうどんの講師を務めたこともある。鈴木さんが打ったうどんを食べながら玉川上水の歴史や当時の測量技術などについてあれこれ語ろうという。

 ところが、ご夫婦とも風邪をひかれてこの計画は延期になり、結果的に10日の小寒の観察会の直後になった。数人には事前にそのことを知らされていたが他の参加者は当日に知る。正午ちかくに観察会が終了すると女性参加者たちは、うどんのお土産を頂いて解散となり、男性陣はアトリエに上がり込んで飲めない人もふくめた酒盛りが始まった。

 

 庭先では鈴木夫人が卓上カセットコンロでナズナのテンプラを揚げる。鈴木さんは、うどんをゆで上げて母屋から運び込むのにいそがしい。「こんなに大勢になるとは思いませんでした」と私が言うと、「俺もそうなんだよ」と鈴木さんは涼しい顔だ。仕込んであったものを4時半に起きて捏ねあげたという。鈴木さんが席に戻って、まもなくして少人数になったころに夫人もアトリエに姿を見せた。今回は玉川上水の歴史ではなく、自然環境保護が話題の中心だった。

 

 

 翌日は秩父市にあるKさん宅を夫婦で訪ねた。私にとっては連日の新年会となった。私の前の前の職場での同僚である。私の弟と同じ年のKさんは埼玉県の公立高校の校長を6年勤めあげて退職した。子供たちが幼いころにKさん宅に家族で泊り、荒川の河原でキャンプをしたこともある。私は彼の結婚式に初めて秩父を訪れて以来この土地が大好きである。秩父は毎日のように花火があがりどこかでお祭りをやっているというような印象がある。Kさん夫婦には吉田椋神社の龍勢まつり以来5年ぶりの再会だ。昼前に西武秩父駅まで迎えに来てもらい、四人で「秩父錦」をいただきながら時は過ぎた。埼玉の三大偉人は塙保己一、渋沢栄一、荻野吟子だということを知る。日も暮れかかる頃に遠回りをして小鹿野町に立ち寄り、持ち帰り用の「わらじかつ丼」がお土産として追加された。長い行列ができて、食べるのを諦めて帰ったこともある店だという。

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*多福寺と小川寺

2016年01月18日 | 捨て猫の独り言

 元旦の初詣は埼玉県入間郡の三芳町にある多福寺だった。40年前に一年だけ住んだ家の近くにあり、当時はその歴史などを知ることなく、ときたま境内を散歩していた。川越藩主の松平信綱による玉川上水と野火止用水の開削で農政の振興があった。その後の川越藩主は柳沢吉保である。吉保は五代将軍綱吉の側近として「生類憐みの令」などの悪政に関ったとする世評もある。

 玉川上水完成からは約40年後に、吉保は荻生徂徠の建議を入れ、三富(さんとめ)新田の開発に着手した。野火止用水の例にならい箱根ヶ崎の池から水を引こうとしたが実現できず、11か所の深井戸を掘って共同使用したという。一軒の農家ごとに畑、雑木林の面積が均等になるように並んだ短冊形の地割である。三富新田の農民の精神的な支えとなったのが多福寺である。三富は現在の三芳町上富と所沢市中富・下富の総称である。

  

 

 当時の農民にとって新田開発を行い自らの土地を所有するにはまたとないチャンスであり、入植者は川越、名栗、膝折、高麗、箱根ヶ崎、入間川などからやって来たほか群馬や山梨からもやって来たという。多福寺には、重臣であった曽根権太夫が寄進した銅鐘(県指定文化財)や、吉保直筆の「参禅録」などがある。近くの住宅街を歩いて昔のわが家を捜したが今回は見つけることができない。おそらく取り壊されて建て替えられたものと思われる。

 玉川上水が完成してまもなく1656年に現在の武蔵村山市出身の小川九郎兵衛は石灰運搬の馬継場新設を条件に小川分水の開削を許可された。しかし熱心に呼びかけても原野開拓を希望する人は少なく自費で農民を住みつかせて開発を進めた。開拓と同時に九郎兵衛が開いたのが小川(しょうせん)寺で、本人も境内の墓地に眠っている。その後1724年に小川新田など開発許可がおりて小平の新田開発が本格的に始まった。これは玉川上水完成から70年後である。自宅から歩いて行けるこの小川寺が私のいつもの初詣の場所だ。

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*繋がった

2016年01月14日 | 捨て猫の独り言

 東京にいて故郷の新聞のウエブサイトにある「桜島ライブカメラ」を見る。瞬時に鹿児島の空模様がわかる。また過去の桜島の噴煙を再現することもできる。あるとき「ナギ60本を植樹」という小さな記事に目が止まった。いちき串木野市の一之宮神社のヒトツバの木が落雷で折れ、代わりの木を探していた。松崎孝(88)さんが神社周辺にナギの木が自生しているのを発見、種を集めて2年半前から鉢で栽培し高さ40cm程になるまで成長させた。大里の住民は11月末に35mの参道の両側に2mの間隔で植え、玉垣となるように社殿のまわりにも配置した。

 ごく最近の紀伊半島の旅で、熊野速玉大社で樹齢約1000年のナギの木を見た体験がなければおそらく見逃していた記事だ。平安末期に熊野三山造営奉行を勤めた平重盛(清盛の嫡男)の手植えとされ、梛としては日本最大で天然記念物に指定されている。那覇の那が入った漢字は覚えやすい。バスガイドさんから旅の別れに「なぎの葉」をプレゼントされた。宝くじが当たるなどの御利益があるということだったが、いまだにそれらしきことは身の回りに起きていない。

  

 玉川上水開削の総奉行である松平伊豆守信綱に関する本を読んだ。そこから発展して徳川将軍家についていくらか知識が増えた。二代将軍秀忠は律儀な恐妻家だった。秀忠の正室は、秀吉が藤吉郎のころから懸想していた信長の妹お市の方の三女のお江与である。秀吉が実力者の家康と縁故を結ぶためにめとらせた。姉さん女房のお江与は二男五女を産んだ。三代将軍となる家光(竹千代)と忠長(国松)のお世継ぎ騒動はよく知られている。お江与は愚鈍な竹千代を嫌い利発な国松を愛した。兄をさしおいて弟を後継者にするのは将来の災いの種である。秀忠は憂慮したが、お江与に逆らうほうが怖いので、それもよかろうとうなずいた。

 

 家光は、正室の産んだ子で将軍となった稀なケースである。15代にわたる将軍たちの生母のほとんどは、侍、農民、商人、僧侶の娘すなわち側室である。紀伊半島の旅では高野山の奥の院を訪れた。奥の院の霊域は広く、二十万ともいわれる墓石群には圧倒される。その中で一大きい石塔であることから「一番石塔」の名で有名な崇源夫人(江姫)・五輪石塔がある。旅で見た時には一番大きい石塔というだけで、私の中で忠長の悲劇とは繋がってはいなかった。目にあまる行動に平素から心を痛めていた母のために、忠長が母のあの世でのしあわせを願った石塔だという。大御所秀忠が病没すると、かばうものは誰もいない。忠長は上州高崎城に幽閉され、切腹を命ぜられて28年の短い生涯を終えた。弟を死に追いやった家光は30代のはじめから、きうつの病いに悩まされた。

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*回顧川柳

2016年01月11日 | 捨て猫の独り言

 待ち望んでいた年賀状が今年も届いた。ぎっしり印刷された川柳の数は50を超えている。これほど有効利用されたハガキは他にはないだろう。差出人はかつての職場での先輩である。職場旅行の宴席で私と彼はコンビを組んで二度ほど出演したことがある。柔和な彼が豹変して右手をひょいと上げてまくしたてるヒトラーは真に迫っていた。デショーベン、ダスフンデルなどが混ざった怪しげで流暢なドイツ語もどきを、私が支離滅裂にハケニケガアリ、ハゲニケハナシなどと翻訳した。

 最近は国会議事堂前に総理大臣の顔にちょび髭を描いた違法なプラカードが出現する。よくできていると感心すると同時に、私は二人の隠し芸のことを思い出すという次第だ。回顧川柳氏の奥方が経営するハンガリーの民宿を拠点にして、彼自身が企画した少人数の小型貸切バスによるハンガリーの田舎旅行に参加したことがある。中高教諭退職後は地方の大学で憲法を教え、2011年の7月に「ハンガリー手帳・ドナウ川牧歌紀行」を上梓した。(写真はクリックで拡大)

 

 上梓のことは知らずに、その年の12月に、四つん這いで生活している彼を信濃追分に見舞った。まず彼が見守る中を部屋の大掃除をしてそれから男三人で一夜を過ごした。一時帰国していた奥方は数日前にハンガリーに帰られたという。頂いたその本の扉には「私の妻と子供たちへ」と印刷されていた。今年のハガキに戻ると、近況も川柳になっている。▼寝て暮らす夢が適って寝たきりに▼白内障出会う女性はみな美人▼難聴で閑静な暮らしの夢適う。表面のわずかな余白に、難聴がひどくなり「ベートーベン並みだ」とイバッテ(?)いますと手書きしてある。

 

 心配していたが今年の回顧川柳のできは前年よりもよい。頭脳は衰え知らずのようだ。いくつか紹介したい。【定義】アベ政治これぞ存立危機事態 【奇貨】テロのたびタカ派はなにやら嬉しそう 【言い換え】戦争は昔は「事変」いま「事態」 【面妖な】憲法を読みもしないで変えたがり 【十八の自覚】選挙権得たぞ止めたぞ酒タバコ 【無法】辺野古でもマンションでも打つ無茶な杭 【勿体ない】使い捨て昔は消費いま雇用 【行政不服】新手詐欺政府が私人になりすまし 【聖夜】トナカイがドローンに驚く冬の空 【言葉】不都合は昔ご破算いま初期化

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*歴史散歩

2016年01月04日 | 捨て猫の独り言

 めずらしいことに今年の元旦には、玄関にすらりと伸びた水仙の生花が置かれていた。清々しい香りがし、何度も顔を近づけて深呼吸して香りを楽しむ。来年の正月にも水仙の花が手に入るといいなと思う。ラジオでソシンロウバイの便りを聞いた。ロウバイの名は蝋細工のように見える花の姿から来ており、あたり一面に水仙に似た香りを漂わせる。ロウバイを知ったのは近年のことだ。

 今年も故郷の香りをのせて鹿児島銀行の一枚カレンダーが届いた。姶良市蒲生(かもう)町の八幡神社境内にある「蒲生の大クス」の写真で構成されている。国の特別天然記念物で環境庁の巨樹・巨木林調査で日本最大の巨木と認定されている。樹齢は約1500年という。幹はこぶだらけで地にどっしりと根を張っは力強さは神秘的だ。(写真は1・3 小平監視所にて)

 

 玉川上水は1653年開削が決定され翌年には通水に成功している。羽村市にある玉川上水の取り入れ口に庄右衛門・清右衛門の兄弟の像が建ち、都内の小学生たちに玉川兄弟の業績が教えられている。しかし玉川上水を開削したのは玉川兄弟ではないという説がある。兄弟が失敗した後、当時川越藩主で老中の職にあった松平伊豆守信綱の家臣、安松金右衛門がこの大工事を完成させたというのだ。

 オープンギャラリーの鈴木さんも後者の説に賛同している。その言に触発されて、講談社出版の中村彰彦著「知恵伊豆と呼ばれた男・老中松平信綱の生涯」を読んだ。本の帯には、家康のあとの秀忠、家光、家綱の三代にわたる将軍に仕え「徳川の平和」の礎を作った男とある。開削の計画に反対の閣僚もいたが将軍輔弼役である会津藩主・保科正之の意見もあって決定する。総奉行としてこの難工事に挑むことになったのが信綱である。川越藩士で土木工事のプロである金右衛門は測量を初めからやり直し、ついに通水に成功した。

コメント (3)
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