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玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*待望の再開

2015年02月26日 | 玉川上水の四季

 わが町のギャラリーは、新たな内容で5カ月ぶりに再開された。立春を待ちきれないのか、その前の節気の大寒から、写真の展示は始まっていた。そして傷んだギャラリー囲んでいる横置き丸太はセメントで補強され、また蝶の食草を育てるために花壇には土が盛られた。来年の1月で75歳を迎える主宰者の鈴木さんは、2月になるとすぐ友の会のメンバーの一軒一軒につぎのような文書を自転車で配って回った。

 「ギャラリーの開設記念日は2月4日の春分です。今年で7年目を迎えます。この日を目標にして、再開の準備を進めてまいりました。お陰さまで、体調も回復し、ギャラリーの一部の補修もでき、東展示は<生きもの暦>に、西展示は<花さんぽ>でスタートいたします。友の会による観察会も従来通り実施します。ただ、今年は範囲を広げて武蔵野台地の自然に挑戦したいと計画しております」(写真はある日の散歩にて)

 

 生きものとは野鳥と昆虫(主に蝶)で、花とは樹木と野草のこと。「雨水」の展示を紹介しよう。野鳥はエナガの巣作りとモズのカップル、昆虫はキタキチョウやアカタテハなどの蝶だった。その東展示の中央には「私は毎日の仕事としているのは’季節の狩人’です」との宣言文が掲げられている。樹木は梅、サンシュユ、マンサク、ネコヤナギ、野草はナズナ、カンスゲ、ヒメオドリコソウ、ハコベの写真が並んでいる。

 8日の立春の観察会は後半に小雨に見舞われたものの、大ケヤキで福寿草、神明宮近くでソシンロウバイを見て、小川寺で常緑高木のカゴノキを知った。22日の雨水の観察会は弁当持参で小金井公園まで遠出の予定だった。この日は‘梅まつり‘の最終日で梅を愛でながら車座になり男衆を中心に焼酎をいただく予定だった。あいにく午前中は小雨が降り続き、鈴木さんから中止の電話連絡が入った。

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*公開講演会

2015年02月23日 | 捨て猫の独り言

 かつて津田塾大学と一橋大学小平分校とはどちらも玉川上水沿いにあって、二つの大学の間の緑道は「恋人たちの道(ラバーズレーン)」と呼ばれていた。歩いて10分もかからない。その後、小平分校は国立(くにたち)の地に移転した。跡地には放送大学多摩学習センターと一橋大学小平国際キャンパスが同居することになった。2月15日に「徒然草と現代」と題した講演会に出かけた。講師は放送大学教授の島内裕子氏である。私は講演を聞くために初めて学習センターを訪れた。

 入口に満員御礼の掲示があったから、参加をあきらめた人たちもいたのだろう。話の中で新鮮に感じたことなどを列挙してみる。8世紀の古事記や万葉集から20世紀の夏目漱石などの近代文学まで、約1200年間の中央に位置して、日本文学の分水嶺になっているのが14世紀の徒然草である。徒然草は思索の深化を簡潔、明晰に提示する批評文学である。17世紀の江戸時代にはレイアウトを工夫、読みやすさ、わかりやすさ、面白さに配慮した注釈書が数多く出版された。

 「テーマなし」というのが徒然草のテーマである。序段の「心にうつりゆく由(よし)無し事」の実体は「連続読み」で浮かびあがる。章段の区切り方など、室町時代の写本以来、現代までこぼれ落ちた章段もなく、多彩な内容が、しっかりと手を携えて、そのまま現代まで読み継がれてきた。元禄元年の「徒然草絵抄」の冒頭図版には「世の中をわたりくらべて今ぞしる 阿波のなるとは浪風もなし」という兼好作と伝えられている教訓歌が書き込まれている。江戸時代の人々は「人生訓」として理解していたのだろう。

 島内氏は徒然草は多彩な内容が次から次へと登場するので、テーマ別に分類して(=抽出読み)内容を把握しようとすると、しんと静まりかえった標本室のようになってしまい、徒然草の生気や香気が伝わってこないという。ところで中野孝次には徒然草を12のテーマに分けて、全部で59の段を解説した「すらすら読める徒然草」という講談社の単行本がある。これは中野孝次の最晩年の作品である。そして2013年には文庫本が出版されたのだが、おもしろいことに解説を島内氏が書いている。興味深くてその文庫本を買い、まず島内氏の解説を読んだ。

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*沖縄の手記から(二)

2015年02月16日 | 捨て猫の独り言

 小説には、ガジュマル、フクギ、仏桑華(赤花=ハイビスカス)、ユーナ(オオハマボウ)、マクマオー、デイゴ、沖縄松、ソテツ、アダン、龍舌蘭、クバ(ビロウ)の草木が登場している。これらの植物のほとんどが焼き尽くされ島は無残な姿に変わり果てた。南に下がったところで同じく死を免れないのであれば自分たちの壕で死にたかった。そこは自分たちの手で堀り、長く馴染んできた古い我家のような壕であった。

 他の章と異なり第四章だけは転調して、会話が多くなっている。読んでいくうちに私は第四章が昨年暮れのNHKラジオの高校講座国語総合で5回にわたって取り上げられていたことに気付いた。そのうちの何回かを私は寝床で聞いている。軍医である「私」は突然現れたある娘に頼まれて、軍に見捨てられた重傷者の手当てをする。娘は軍に所属する者ではないことがわかり、民間の看護婦がこの危険な場所に残る必要はないと考える「私」は、娘にもっと安全な南へ行くことを勧めるが娘は受け入れない。(写真は白梅、福寿草)

  

 当間キヨは家族が皆、慶良間で死に、自分だけ生き残っても仕方がないと思っていたのだった。「私」が説得を繰り返すうち、ようやくそれに応じてくれたキヨだが、いざ出発というとき、娘はやはりここに残ると言って別れる。その後、再びその陣地に戻ってきた「私」は敵の攻撃によって姿を変えてしまった壕を発見し、壕の中の白骨化したキヨの前にひざまずく。人間としての優しさを持った娘が戦場という地獄の中で、取らざるをえなかった行動、そのことのむごさ、悲しさに打ちのめされたのだ。

 作者はあとがきに、「作品の中に書いた人物のうち、K氏の手記に書かれた実名をそのまま記したのは当間キヨさんだけである。沖縄戦争のために命を失った多くの沖縄の人々に特に哀悼の意を表したいためである」と書いている。さらに追記もあり、作品の中に嘉手納海岸への上陸が開始された翌日の夜、鹿屋にいた軍医長が小禄飛行場に強行着陸して帰任するところがある。作品発表後に、かつて軍医長を乗せた飛行機の乗員から作者に連絡があった。その乗員から鹿屋基地を発進することに決定した状況を直接聞かされ、作者である田宮虎彦はいたく心を動かされたという。事実は小説より感動的だ。 (完)

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*沖縄の手記から(一)

2015年02月12日 | 捨て猫の独り言

 田宮虎彦の「沖縄の手記から」は地区館にはなく、中央館で借りることができた。この作品は沖縄戦に従軍した海軍軍医K氏の手記によって書かれたとある。作者の創作がどの程度のものか知りたくなり、実物の手記を見たいという思いにかられる。軍医の「私」が鹿屋飛行場から現在は那覇空港である小禄(おろく)飛行場に昭和19年8月3日に着任し、翌年の9月10日に投降するまでの記録である。

 指令(部隊長)の考えが地下壕構築以外にアメリカ軍を迎え撃つ方法はないということだった。ツルハシやスコップで赤土を掘り崩し、もっこで壕の外に運び出す。壕を掘ることで始まった軍医の「私」たちの沖縄戦争は壕を出ることで終えることになる。奥深く掘り進められた壕に守られた命があった。別の場所だが旧海軍司令部壕は当時のままの残っていて戦跡地「海軍壕公園」として今では多くの観光客が訪れる。

 軍医の「私」たちの壕は那覇の港から奥深く入りこんだ深い入り江の南西側につらなる小高い台地の影にある小禄にあった。壕のある台地の沖縄松の林に腰をおろすと、西の海に慶良間の島々が美しく浮んでいるのが見える。のどかに静かであった毎日も10月10日突然来襲してきたアメリカ軍の艦載機によって沖縄は戦火の最初の洗礼を受ける。那覇の町は焼き尽くされた。 

 敵が慶良間の島々に上陸したのは3月26日である。島々の守備隊から別れを伝える無電が伝えられてくる。そして4月1日には嘉手納海岸に上陸した。一本の草木も残さず前線の山肌が焼けただれている。そんな中で軍医たちの集まりで誰が言い出すともなく句会を開くようになる。「壕いでて目にしむ草の青さかな」が軍医の「私」がはじめてつくった俳句だった。5月14日ついに那覇の町に敵が突入した。句会はその夜が最後になった。「独逸降り那覇落ちこよい句会かな」が読み上げられた時、なぜということなく低いかわいた笑い声がおきた。                                                                                                   

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*兄 小林秀雄

2015年02月09日 | 捨て猫の独り言

 図書館の大活字本コーナーにある高見澤潤子(本名 富士子)の「兄 小林秀雄」の(上)(下)2冊を借りてきた。2歳違いの兄妹で、兄は昭和58年に81歳で、妹は平成16年に99歳で死去した。この本の発行所は「埼玉福祉会」である。本の最後に、老人や弱視者に少しでも読み易い大活字本を提供することを念願とし、身体障害者の働く工場を母胎として製作し発行することに踏み切りましたという発行の趣意が記されている。

 この兄妹が最後までいい関係を続けたことに感じ入りながら読み進んだ。読後に非常に美しいものを見たという印象が残った。父が早く死んで、病弱な母と兄と妹の3人家族だった。兄は中原中也の愛人長谷川泰子と同棲することになったが、破綻して愛人を家に残したまま行方をくらます。深くて真剣だった恋愛の辛い結末の状況の中で妹だけには手紙で心情を告白している。(写真はロウバイ、紅梅、オープンギャラリー

  

 泰子はその後も出没するが、兄と妹はそれぞれよき伴侶を得て、この事件を乗り切っていく。兄は妹を「お前さん」と呼んだ。「私は月に一遍ぐらいぐらいしか鎌倉へ行かなかったが兄と二人で向いあって晩酌をするのが一番楽しかったし、勉強になった。酒が入ると普段は無口なのに急に雄弁になっていろいろなことを話してくれた。それはみんな真実さがあって私の心にぴんぴんとひびき、深く浸み込んでいく教えであった」

 さらに引用を続けよう。「兄は愛の人であった。自分の仕事に対しても随分苦しみもしたが、非常に大事にし、愛していたことは確かであった。そして、チェホフのように人間を愛し生活を愛していたのである」と書き、「友だちはだいじにしなければいけないよ。自分が選び自分が創るものだからね。同時代に育って、理解しあうもんだろう。子供は偶然の出あいだし、違う時代に生きていくからね。気があわないのも無理はないんだ」と兄の言葉を伝えている。

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*防衛省

2015年02月05日 | 捨て猫の独り言

 今年の2月のカレンダーはめずらしい。1日の日曜に始まり28日の土曜で終わっている。7×4だからみごとに矩形に納まっている。第一月曜日の2日に「辺野古への基地建設を許さない実行委員会」が呼びかける「防衛省正門前抗議行動」に参加した。昨年来の国会包囲デモに出かけることはなかったが、この日私は実際に出かけたのである。

 早々に家を出て、西武新宿駅で降り、歌舞伎町から防衛省まで靖国通りを歩いた。殺風景な街道沿いを40分ほど歩くと、高さ220mの電波塔が見えてきた。ここが防衛省だろうと見当がついた。私はこの場所を初めて訪れる。ここにはかつて陸軍士官学校があり、また近年では三島事件が起きた場所として記憶に新しい。

  

 集会までにはたっぷり時間があるので周辺を歩き回ることにした。まずは市ヶ谷駅近くの日本棋院を覗いた。人影まばらな一階ホールでは幽玄の間で進行中のプロの対局がモニターに映し出されていた。再び市ヶ谷橋を渡り防衛省の敷地をぐるり一周することにした。急な左内坂を登りきると日本育英会やJICAがある。そして合羽坂をおりて靖国通りの正門に戻る。つまり防衛省は小高い丘の斜面にある。

 集会の始まる前には森山良子の「さとうきび畑」が流れた。正門前の通路の両脇に並び横断幕など掲げ持つ。時おり警備の警官が通路の中央を行ったり来たりする。私は6枚のビラを受け取った。辺野古では「仮設桟橋」の工事が強引に進められている。延長300m、幅20m、必要とされる石材は大型ダンプ5000台という巨大なものだ。この日の集会の参加者は100人前後だろうか。18:30から50分ほどのメリハリのある集会だった。つぎは3月2日に行われるそうだ。

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*八重山三日間(完)

2015年02月02日 | 沖縄のこと

 最終日は八重山諸島の人口の90%が集中し、宿泊地でもある石垣島巡りである。バスの出発前に、ホテルの近くにある重要文化財の宮良殿内(みやらどうんち)を訪ねることを思いついた。沖縄本島では「鉄の暴風」で古来の建造物は破壊されつくしたが、士族様式の建物で沖縄県でただ一つ残ったのがここ八重山の宮良殿内である。首里王府が禁じていた首里士族の屋敷構えにしたのために、数回にわたって建て替え命令を受ける。それをやり過ごし、しかも戦火をまぬがれて残ったのは歴史の刻む妙を象徴している。

 天皇皇后は8年ぶりの沖縄訪問となった2004年に、宮古島と石垣島を訪れている。そのとき宮古島では、国立ハンセン病療養所の宮古南西園を見舞われている。先の戦争で八重山では日本軍により山間部へ強制避難させられて、マラリアにかかり三千余名の犠牲者がでた。八重山全人口の10%にものぼる。やっと1997年に「八重山戦争マラリア犠牲者慰霊碑」が完成した。天皇皇后は石垣島では、この慰霊碑を参られている。私たちは走るバスの中からほんの一瞬だけ、慰霊碑を確認した。

 

 石垣めぐりはまず西海岸の名蔵湾沿いの石垣焼窯元を見学し、つぎは黒真珠センターのある真っ白な砂浜の川平(かびら)湾だった。川平湾を見下ろ遊歩道を両陛下も歩かれたという。さらに私たちはグラスボートに分乗して湾内のサンゴを見学した。そしてバスは再び名蔵湾沿いの道を戻り、「やいま村」を訪ねた。「やいま」とは八重山のことだ。広々とした敷地に一般の民家、農民の家、漁師の家が移築されて建ち並び、昔の島の人たちのくらしが再現されていた。

 バスが坂道を登り始めると、咲きはじめた緋寒桜の並木が続いていた。市街地を見わたせるバンナ岳展望台でガイドさんの説明を受ける。1771年に大津波が八重山の島々を襲い甚大な被害を与えた。死者行方不明者は九千余にのぼり、これは八重山の総人口の30%に当たる。東の太平洋から押し寄せた津波は、このバンナ岳と北に見える於茂登(おもと)岳(526m)に続く尾根を削り取り、名蔵湾に流れ込んだという。名蔵湾のすぐ向こうに西表(いりおもて)島が見える。西表島とは於茂登岳の西にある島ということらしい。このあとバスは「みんさー工芸館」立ち寄り、パイヌシマ空港に向った。

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