玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*短歌のある選手宣誓

2015年03月30日 | 捨て猫の独り言

 暖かくなる前の散歩では、ハクモクレンとミツバツツジが目を楽しませてくれていた。暖かさが続いて、庭ではフキの若葉が徐々に地表を覆い始めている。畑のシュンギクの隣りでは小松菜がひよろひよろと伸びてスイセンよりも濃い黄色の花をつけている。とっくに梅は散ってしまい、ウメモドキとカイドウが小さなつぼみを開いている。カキの木の枝先に、ぽつぽつと緑が見え始めた。

 ガラス戸越しに小鳥たちが見える。その姿を碁石を並べていた手を止めて眺めることがある。ごくまれに現れるのは尾の長い体形、頭上の黒、青い翼と尾のオナガだ。図鑑にオナガは九州では見られないとある。庭の主の顔をしている一羽のヒヨドリがいる。庭の隅に米ぬかを撒いてみた。そこへ、それぞれ二羽のスズメとムクドリが米ぬかを訪れた。その米ぬかをめぐる三者の攻防を飽かず見ていた。(22日の観察会にて・アマナとニリンソウ)

 

 春夏の甲子園がなぜもこのように多くの人々の関心をよぶのだろう。花見などと同じように日本文化の一つと言っても良いのではないか。彼岸の中日の21日のセンバツの開会式では敦賀気比の篠原涼主将が短歌を交えた選手宣誓で話題になった。「グランドにチームメイトの笑顔あり夢を追いかけ命輝く」がそれである。敦賀気比の教室に短歌を愛でる国語教師の存在を想像したりした。

 敦賀気比は地元以外から有力選手をスカウトしている。篠原君もその一人で、母と兄の三人家族で富士宮市に住んでいた。宣誓の中で「多くの皆さんに支えられ大好きな野球ができることに感謝します」とあった。また「生まれ育ったふるさとで、移り住んだところで、それぞれの思いを抱きながら」とある。篠原君のありのままを綴った宣誓の言葉であることが分る。気比とは敦賀市にある「気比神宮」の気比である。

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*大一番

2015年03月23日 | 捨て猫の独り言

 加地伸行著の「すらすら読める論語」という図書館の本を二日間ほど熱心に読んだ。著者は君子を教養人、小人を知識人と訳している。その本の中に私の囲碁の勝負に活かせる言葉と思ったものを二つ見つけた。「君子は器(うつわ)ならず」は「教養人は一技・一芸の人ではない。大局を見ることのできる者である」と訳している。

 「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」は「及ばず」ということばが、不足という事実を指すのではなくて、劣っているという価値を示す意味と思う人が多いので誤用が通用しているとして「ころあい(中庸)ではないという点では、多いも少ないも同じことだ」と訳している。「碁の神様」といわれて昨年百歳で亡くなった呉清源の言葉「碁は調和」と同じと私は考えている。

  

 今年度のNHK囲碁トーナメントの決勝戦は驚きの顔合わせになった。準決勝で20歳の伊田篤史八段が実力者羽根直樹九段を、17歳の一力遼七段が第一人者の井山祐太棋聖を撃破して決勝に勝ち進んだ。どちらも初出場初優勝ということだったが伊田八段の優勝で幕を閉じた。優勝賞金は500万である。そして次年度出場者に16歳で女流タイトル2冠の藤沢里菜二段が選ばれるかどうか注目だ。

 27日(金)は棋聖戦七番勝負の最終局が打たれた。井山棋聖が3連勝してこのまま押し切ると思われたが、挑戦者の山下敬吾九段が巻き返して3連勝したのである。囲碁七番勝負で3連勝から3連敗したケースは意外に多くてこれで10回目という。井山棋聖が3連勝3連敗1勝で棋聖3連覇を達成した。6局とも大接戦だったが挑戦者は最終局に悔いを残したようだ。優勝賞金は4500万である。

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*三月の椿

2015年03月16日 | 捨て猫の独り言

 ツバキの花には香りがないと思っていた。知人がツバキと称して持参した、とても小さなつぼみのついた枝を一輪ざしに活けた。二三日して開いた小さな花はいい香りがした。梅の花のような、あるいはバラの香りを柔らかくしたような香りである。よく見かけるヤブツバキよりかなり小さい。ほんとうにこれをツバキと呼んでいいのだろうかと疑う。町田市にある武相荘(白洲邸)で出会った琉球カラスウリを思い出した。それはふつうのノカラスウリより小さい。

 この二月から第一月曜の夕刻に私は防衛省前に出かけている。参加者は年輩者が多く、参加人数もそれほど多くはない。参加者の中に知人ができた。ビラ配りもなさる80歳の婦人Fさんと、その友人Mさんである。Fさんはこの年だから辺野古には行けないので東京で頑張ると言っていた。正門をはさんで向こう側から聞こえるマイクの大音量に妨害されながら、辺野古のゲート前に座り込んできたという若い人の体験報告などもある。(写真は梅屋敷、隣家の沈丁花、庭のツバキ)

  

 いまのところ睡眠に関する悩みはない。だいたい目覚めは6時前後だが、特に日曜の「ラジオあさいちばん」を聞くのは楽しみだ。しかしそのために目覚まし時計をセットすることはない。たまたま日曜に早めの5時などに目覚めた時は幸せな気分になる。5時33分から日本野鳥の会の安西英明さんの「季節のいのち」が聞けるからだ。しかし残念なことに20年続いたこのコーナーも今月で終わりだという。

 そのあとの「おいしい日曜日」に登場する、食文化と暮らしをテーマに執筆活動を行っている平松洋子さんの聖母のような声に聞き惚れていた。残念ながら平松さんの声を聞けるのも今月で終わりだという。パソコンでならしばらくは聞くことができるようだ。三月は番組再編の季節だ。この番組の渡辺ひとみキャスターがすばらしい。彼女がリードする安西さんや平松さんとの軽妙なかけあいは、なめらかに進行してしかも彼女はポイントをしっかり押さえていた。

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*琉球いろは歌

2015年03月12日 | 捨て猫の独り言

 琉球朝日放送は平成24年4月から1年にわたり毎週水曜日に「いっこく堂と名護親方の琉球いろは歌」を放送した。放送終了後まもなくして『こころに留めたい「琉球いろは歌」47の言葉』が出版された。放送局のスタッフが、番組製作と勝手が違う本の出版に取り組んだのは「琉球いろは歌」を継続して伝えようという情熱だった。

 贈られたこの本を手にして新鮮な驚きを感じた。まず先に述べたの出版のいきさつである。そして琉球王国の過去の在り様を改めて認識したことである。程順則は66歳で名護間切りの総地頭(市長)となり名護親方と称するようになるが中国名は順則といい、琉球名は寵文である。五回中国へ渡り中国の文化や学問を学び、四度めの訪中で「六諭衍義(りくゆえんぎ)」を印刷して持ち帰る。(写真は鷹の台駅付近)

  

 六諭衍義は薩摩藩より徳川吉宗に献上され、幕府の命により室鳩巣が和訳して後に道徳の教科書として寺小屋で使われた。六諭の教えとは、孝順父母、尊敬長上、和睦郷里、教訓子孫などである。普遍的、抽象的愛でなく、あくまで個別的、具体的愛である。名護親方は六諭の教えを多くの人に広めようと「八・八・八・六」の琉歌に詠み、いろは順に並べて出来上ったのが「琉球いろは歌」である。

 琉球語=ウチナー口(ぐち)は50代以下の世代のほとんどが話せなくなっているという。言葉や歴史を忘れる民は滅びるという危機感がこの本の出版の原動力の一つだ。いろは歌には「肝」と「油断」という言葉が多く出てくる。肝(ちむ)=心であり魂の宿るところだ。私の好きな一首は「井の春になてん 人の花咲め 年ど寄て行る 油断するな」この歌の「訳」は「同じ春になっても、人の心の花は咲かない。年をとるばかり油断しないように」とある。さらに「鑑賞」という詳しい解説で理解が深まる。

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*古希

2015年03月09日 | 捨て猫の独り言

 この冬二度目の風邪をひいた。二度目は進行中だがいずれも大事にいたらずにすみそうだ。それより深刻である眼やら耳やらの障害も自分でも大騒ぎしなくなった。人はなにごとも受容して生きていくようにできているようだ。新築の家に入居したのが阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件の年だった。あれから20年が経過して、このたび新しいガス湯沸かし器に買い替えた。

 湯沸かし器の終焉はまるで人の生死のようだった。完全に働きを停止したのではなく、好不調をくりかえして、辛抱をかさねたあげくとうとう決断した。平均するとこのような機器は10年で交換するものだと業者は言っていた。20年も経つと機器の省エネ化も進んでいるようだ。あとで知らされたが今回取り替えた機器はエコ商品ということでガス料金が多少安くなるという。(写真は廃屋)

 

 敗戦後70年である。偶然私の生まれは1944年だから自分の年齢と敗戦後の年数が一致してとても便利だ。また阪神淡路と地下鉄サリンと自家の新築したのが同じ年だから、これも便利であれから20年である。ささいな私事だが公民館囲碁に参加し始めたのと福島原発事故が同じ年で、あれから4年である。思い出せば日本列島は数多くの災害に見舞われていることに気付く。

 70歳になった大多数の日本国民に対して二通りの通知が届く。一つは運転免許証更新のための「高齢者講習」の通知である。最寄りの教習所で受講するようだ。だいぶ前に運転することを止めた私は、更新を見送りこの1月で免許失効となった。二つは「国民健康保険高齢受給者証」が交付される。先日の通院でこの票を持参しなかったために、10割負担の医療費を支払い3割に後日精算といういう面倒な目にあった。

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*栗しか食わない娘

2015年03月02日 | 捨て猫の独り言

 徒然草40段の「栗しか食わない娘」の話を、小林秀雄が「これは珍談ではない、徒然なる心がどんなに沢山な事を感じ、どんなに沢山のこ事を言わずに我慢したか」と取り上げて以来有名になった。しかし、いまだに小林の真意を計りかねているのが世の実情のようだ。先日の放送大学の島内裕子氏の講演に出かけたのも、40段についてなにか言及があるかもしれないという期待が私にあった。

 連続読みの島内氏は『「書物の世界」から「人の中」へ』という項立てをして、40段を小林が41段を芭蕉が取り上げているという事実を紹介するにとどまっていた。講演後に設けられた質問タイムに、私は手を上げることができなかった。テーマ読みの「すらすら読める徒然草」の中野孝次は、「世俗譚」としての六つの段の一つに40段を取り上げている。

  

 「たしかにこの入道の心を想像していると小林の言葉ももっともだという気がしてくる。しかし本当のところは、わたしにはわからない。ただ話としていかにも面白いと思うだけだ」と述べている。中野は兼好の文章の力を「叙述のリズム、力強さ、印象の深さ、ただもう舌を巻く巧さだ」と高く評価する。六つの段に入れなかった41段「加茂の競べ馬を見侍りしに」ついては「理屈がちでそれほど面白くない。これは若い時に書いたのかもしれない」と付け加えている。

 私はネットで出会ったつぎの見解に心が動いた。「それがどんなに他の人から見たら異様な事であっても、信じるものは信じるという、そのままの生き方やあり方の態度は、それ自体で美しい筈であると小林は言いたいのです」 ところで年譜によると小林が「徒然草」を発表したのは、ハワイ真珠湾奇襲攻撃の翌年の昭和17年である。昭和16年には、この年より古美術に親しむとある。

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