玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

②お土産は気持ちだけ

2005年12月31日 | ピースボート世界一周
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 整理することは難しい。事が終わった直後であればなおさらのこと。撮りためた写真、タイムテーブルが掲載され毎日発行された船上新聞や記録物など。いずれは更なる整理の必要性を知りつつひとまず片付けなければ先へ進めない。

 日常の整理も然りである。衣替えをしつつ、たいして着もしない服を思い切ってこの際捨てようかと分けながら、空きスペースがあると戻してしまう。台所の大して使わない茶碗、皿も捨てられない。

 そんなわけで、捨てられない私としは買わないことに限る。旅行中もそうであった。ドルやユーロが使えず現地通貨に換金する場合も最小単位とし、しかもそれすら使い切ることに苦労した。私が求めたお土産は実にささやかで、孫の服各1枚ずつと玩具少々、チョコレ-ト3包,、有機コ-ヒ-3ビン、気候寒冷地で自分用のチョッキ1枚、あとは現地通貨を使い切るために絵葉書やCDなど。長い留守をあずかってくれた捨て猫さんへの土産も貝殻1個のみ。残ってしまった紙幣や硬貨は下船の数日前船内に設置された寄贈箱に入れた。

 買い物風景も様々だった。中には寄港地ごとにドッサドッサと買い込む人もいた.これは誰に、あれは誰にと言いながら。買い物好きな人にとっては絶好の機会だったのだろう。今回の寄港地は先進国より発達途上国が多く、物価の安いところが多かったから。それにしても貰った人は本当に喜ぶのだろうか。たとえ自分用でも帰国後ほんとうに身にまとうのだろうか。

 おかげさまで、下船の荷作りも簡単至極。使い古した運動靴やタオルを捨て、船内でレクチャーを受けた各講師の著書などをいれても、帰省用の冬服を出したら持参してきたスーツケース2個にピッタリ納まった。あたりを見渡したところ皆さんの荷物の多いのにタマガッタ(驚いた)。スーツケースの上に段ボールを山高く積んでカートで運んでいた。

 税関でCHECKありと聞いていたけれど、これでは時間がかかったはずだ。ご丁寧にも荷物、乗客の送りだしなどいずれもman to manの対応だった。時間を区切っての下船だったので時間が来るまで自分用の個室のベッドでヘッドホンを聞いていたのだが、それでもヤ・レ・ヤ・レであった。私は官吏に 「酒、タバコありますか?」と聞かれ「ありません」 と答えて素通りだった。写真はパルテノン神殿。 エーゲ海は碧く、空は澄みわたり、建物は白く海辺からなだらかに丘へつらなっていた。


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集会のご報告

2005年12月28日 | 捨て猫の独り言
 師走の24日は風が少し強かった。西武新宿線のある駅で待ち合わせて2人でM先生のお宅を捜した。12月はじめにM先生を偲ぶ会を開いた。年内にM先生の奥様にその報告をすべきである。偲ぶ会の強力な推進者である先輩A氏の提案に私も賛成した。段取りはすべてA氏におまかせである。奥様とA氏との打ち合わせでこの日の私たち2人の訪問が決まった。

 花束はA氏が用意した。手ぶらの私が駅から花束を持つことにした。彼はカバンからお茶を一袋取り出した。奥様は 「何も持たずにお越しください」 と言っていたがこれぐらい常識の範囲内だろうと言った。Mさんが 「病院のお茶はまずい」 と生前言われたことがあったという。A氏はなにごとにも意味づけしたがるくせがある。メリハリつけるくせといってもいい。さほど迷わず30分ほどで目指すお宅を探し当てた。

 玄関からすぐのせまい応接間の本棚の前に何種類かの花に囲まれて骨壷と顔写真があった。その他は何もない。こうべを垂れるしかない。偲ぶ会にはもう一人の推進者がいる。私が彼からもらったメッセージ付きの一枚の写真を奥様にお見せした。 「先日は久しぶりで皆さんとお会いし、Mさんの人となりを偲びつつ、歓談できました。ありがとうございました。写真の出来はよくありませんが記念にお贈りします」 とある。 奥様はその12名の集合写真を 「しばらくお借りします」 と顔写真の前に置かれた。写真と写真が対面した。

 そもそもどんな契機でご夫婦になられたのかという不躾な質問をしてしまった。隣のA氏はさぞはらはらしたことだろう。奥様に軽やかにお答えいただいてほっとした。30分ほどお話して辞去した。寒い中を私たちが角を曲がるまでお見送りいただいた。この世はいつ何が起きるかわからない。集会のご報告ができて満足であった。帰宅すると遠い故郷の親父が20日ぶりに退院すると聞いた。

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①英語特訓から見えた

2005年12月25日 | ピースボート世界一周
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 帰宅してそろそろ10日あまり、衣替えから荷解き、獲りためたフイルムのパソコンへの入力と削減など済ませヤット一息つきました。

 そこへ昨夜たまたま外国からの来客を我が家に迎えました。来客は訪日2度目で全く日本語は話せません。chance到来、洋上での語学学習を試してみようと思ったのですが、4時間弱の時間の中で思っていることの2割程度しか口から出てきません。もっとも同伴して来たあちらの息子(どうやら私の航海中に我が家の婿殿に決まったらしい)や、英語を縦横に操る我が家の娘がいなければ、苦労しつつももっと話せたのにと思うことしきりでした。洋上ではコミニュケーションが成立するまで時間をかけたり、言い直したり出来たのですが、昨夜は彼らが手短にしかも正確に話し直してくれるので、わかりあえた喜びには程遠いものでした。洋上では語学学習以外にもhearingの機会は多く、「聞き取れる度合いは良くなったかな~」と喜んでいたのですが。

 peace boat上では英語教師約20人、ボランティアの通訳約15~6人、スタッフ(外国人も含め)約10人でいずれも3ヶ国語出来る人はザラでした。 クルー(部屋の掃除、食事の世話、船の手入れなどする人)は約300~400人で、彼らすらも自国語以外に英会話が出来ることが条件のようでした。

 10年近くあるいはそれ以上学んでなお手をこまねいている私達の世代。やっぱりそこから脱却しなくっちゃ・・・というより語学学習をとおして如何に自分が日本のことを知らないかが見えてきた事でした。

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山からの電話

2005年12月22日 | 捨て猫の独り言
 お便りありがとうございます。どのようにお暮らしかと気になっておりました。あれから6年も経過しましたか。私は目と歯の衰えで不自由しております。現在高2の担任です。生徒の卒業と同時に私は停年です。かみさんは9/23~12/15までピースボートというクルージングの長旅に出ています。3ヵ月半の独居中です。山を下りられたらいかがですか。お会いしたいものです。

 北茨城の山中から11月のはじめに消息が届いた。私は東京の留守宅に電話した。奥様は6年前の私宛の手紙につぎのように書かれている。 「さらりと流してゆかん川のごとく さらりと忘れてゆかん風のごとく さらりと生きてゆかん雲のごとく」 「これは私の賛美歌です」 そして今のお気持ちをお聞かせくださいと奥様におたずねした。彼が山を下りさえすれば私に問題はありません。そのあと私は上記の葉書きを出した。

 その彼から12/13の夜に電話があった。標高600mの山はすでに雪の中だ。ハクビシンを見かけることがある。野菜を貯えて越冬の準備はできた。山に来て肺の中まできれいになった気がする。娑婆の空気には耐えられそうもないよ。大人が子供を殺しているようだね。陶器造りは現在不可能になった。4月の梅の咲くまで冬眠だ。寒さにはウールが一番だ。綿は全くだめだね。ジンロ(韓国焼酎)を飲んでいる。NHKラジオでハングル講座を聞いているがなかなかうまくならない。正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)の道元はいい。その弟子による随聞記は以前に読んだ。山は自分を鍛えてくれる。

 つい長電話になった。山を下りるかどうかはお互いに話さない。私から連絡するつもりはないので電話番号は聞かない。もし彼が山から私の家を訪ねることがあれば黙って碁を打とう。私は4目お置かねばならない。そして薩摩焼酎を飲んでいただこう。

 

 

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無事帰宅しました

2005年12月18日 | ピースボート世界一周
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 12月15日夜10時やっとわが家にたどり着きました。玄関前で最後の写真をハイ・パチリ。さすがに冬の海、日本近海といえども波が高く、着岸の予定が7時間遅れて午後3時になりました。横浜では500人余の乗客が順次に下船し、税chekを含め5~6時間は要したろうと思われます。そのため神戸の下船は翌日となりました。
 
 3日前までは5時起きして半袖のTシャツに着がえ、首には汗拭きのタオルを巻いて甲板上でウオーキング、ラジオ体操、太極拳と小一時間外に居りましたので、急な冬支度に慌てふためいています。日本での秋をぶっとばし、暑い夏を2回過ごした名残がしっかり私の体(特に顔、手)に残っており、女性の3大敵である色黒、シミ、シワと朝夕鏡の中で対面しては、「そのまま此処に居座る気?」となでたり、ひっぱってみたりしています。勿論日焼け対策はしたのですが、強い照り返しや、塗り直しなどやってられない。

 「ところでどうだった?」が一番知りたいことでしょう。私はとても楽しめた。船上でも色んな意見、苦情、非難はては職員に対して吊るしあげまであったやに聞きました。確かにNGOが主体になって運営している性格上職員も若く、至らない点も散見されたが、社会経験が豊富だからといって、クレームばかりつけていたのでは自分ばかりでなく周りにも不快感をもたらします。
   
 これからの日本を背負ってたつ若者と、仕事を終えて一段落し第二の人生を始めた者を同じ船に乗せての旅です。それでも双方の満足度を高めるために、運営者や若い乗客が如何に力を尽くしているかが見えて、若者の持つ限りないエネルギーに感じ入るばかりでした。本文中の写真はクリックで拡大します。



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初冬の庭

2005年12月14日 | 捨て猫の独り言
 おふくろが東京の畑に種をまいて鹿児島に帰ったのが9月の末である。種は仕掛け人が買い置いた2袋である。玄関の目立つところにそれとなく置かれていたようだ。間引きしながら今でも収穫している。お浸しなどにして食している。ひとつは 「小松菜」 である。もう一つはなんだかわからない。残された種袋をみると 「白菜」 であることが判明した。球状に巻いてないからそれだとわからなかった。葉が横に大きく広がらないとよい球になりませんと袋に書かれている。これから鍋物の季節である。白菜は買い物リストからはずしてよさそうだ。変な白菜だが白菜は白菜だ。庭の畑で野菜の収穫がこれほど多いのは初めてだ。一から自分でやるとこんなにうまくはいかない。

 おふくろお手植えの 「わけぎ」 も育っている。これは遠路はるばる持参いただきしもの。初冬の庭で目立っているのは畑の野菜だ。ハナミズキ、さるすべり、イチジク、柿はすっかり落葉している。柿の収穫も終わり、小鳥たちのために残した4個ばかりの柿の実もまもなくすっかり無くなるだろう。梅はくたびれた葉だが何枚か残っている。落葉が始まって気がついた。柿の木の枝におとなの手のひらぐらいの小鳥の巣がぽつんと見える。なかなか形のいい巣である。もちろん空っぽである。何という鳥の巣か知りえないのが残念だ。まえに梅の木に鳩が巣を作ったときはその鳴き声で気づいた。玉川上水の林から50mも離れていない。そのせいでいろいろな小鳥がわが家のせまい庭を訪れる。ありがたくない客もいる。つげの生垣にスズメバチの巣を発見して市役所に連絡して駆除してもらったことがあった。

 おふくろと親父が帰ったのが2ヵ月半前である。娘が新しい命を宿したことを知ったのもその頃だった。また最近になって88歳の親父が入院したとの知らせがあった。季節は巡りそしていろいろなことに出会う。

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負けるが勝ち

2005年12月09日 | 捨て猫の独り言
 絶大な支持を得たカレーに再度挑戦した。しかし娘は言った。プロジェクトX調だ。これはルーカレーだ。チョコレートカレーではない。2度目のカレー作りは失敗であった。ニンジンとしょうがのすりおろしはよかった。最初の水少なめが多めであった。そして辛口ルー2箱は多かった。ブラックチョコが生かされていなかった。辛さはルーで調整とのレシピの注意書きがよみがえった。あっせた。なんとか修正しようとしたが駄目だった。味はまずくなるばかりであった。分量も多すぎた。彼は途方にくれた。さじ加減は難しい。批評して食べるだけの娘がうらやましかった。

 この夏なくなられたM先生は信州の出である。娘も数学を教えていただいたこともあって親子でお世話になった。古き良き旧制高等学校の雰囲気を体現されていた。手紙に定年後の生活についてつぎのように書かれたことがある。 「主婦業がだんだん減って主夫業が増えてけっこう忙しいです。あなたが独りになっても一人でやっていかれるようにという、名目・口実・美名のもとにいろいろやらされています。結婚したら、男は一生こきつかわれるものです。まじめな人!!ほど」 まじめなM先生が病気がちの奥様を残してこの世を去られた。

 女性の国際結婚志向が高まっている背景には日本人男性の古い家族観への反発もある。フジテレビ系火曜夜10時から 「鬼嫁日記」 が放映されている。一馬(ゴリ)は妻の早苗(観月ありさ)に振り回されっぱなし。徹底した女性主導。男は奴隷。娘の婚約者は言葉がわからないままにそのドラマに見入っているとのことである。彼は自分の分身を見る思いなのだろうか。君に連帯の挨拶をおくる。私は夜が早いのでドラマをともに見ることはないだろうが。

 妹から 「卆寿超えいつ果てるとも悔いはなし食は命と炊事場に立つ」 の作者は女性との指摘があった。この年代の方ならやはりそうなのか思う。私は自分の立場でつい作者は男性と思い込んでいた。

 

 

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Mさんを偲ぶ

2005年12月04日 | 捨て猫の独り言
 今年の8月12日に数学科のM先生がお亡くなりになった。なぜかご遺族は死去の事実を学園に一切連絡せず密葬の後で何名かに奥様から手書きの葉書きで連絡があった。中学高等学校の教頭をやった人物である。彼の死は公式の手続きのないまま時間を置いて皆が知るところとなる。死去後のことに故人の意思が働いているのはもちろんである。私も9月になって2学期の始業式の日に漏れ聞いてその後に奥様からの葉書きをいただいた。前立腺がんで享年79。

 M先生の訃報をあなたのメールで知りました。入院される10日ほど前6月ごろと記憶していますが電話をいたしました。私から出向くからコーヒーでも飲みませんかとお誘いしたのですが腰痛が激しく歩くのが困難ということでした。だが言語は明瞭で病人を感じさせない話しぶりでした。そのときは安堵しました。Mさんは愚者を装う真の賢者でユーモアあふれる包容力のある人柄、好奇心旺盛な観察眼と豊かな教養などで人を常に魅了されてきました。私が深く教えられ敬服してきた数少ない一人です。心から冥福を祈っています。偲ぶ会には是非声をかけてください。

 このメールの送り主がいつしか強力な偲ぶ会の推進者となった。12月3日に12名が参加して午後3時から開かれた。現役は事務方2人に私の3人残りは退役組の理科3人英語2人体育2人社会2人である。推進者からモーツアルトのレクイエムを録音中との電話がその日の正午に入る。私は会計担当である。コンビニで両替できることを知った。会費のおつり用に千円札を20枚ほど用意する。ほんとに便利だコンビニだ。

 M先生からの私信を公表したい。これは在学中親しくしていたある生徒が雑誌の編集長になった。ところが売らんかなの姿勢で少年Aを報道しその踏み外しを批判されたことがあった。そのことについて述べたものだ。またこの日の集まりについては奥様はまだなにもご存知ではない。

 金に困って泥棒し、恋に狂って人を殺しても刑務所でもどこでも俺は行ってやるけれど、天井の節穴から覗くようなことをして握った人の弱みを種に飯を食う人間だけにはなるな。HRのとき将来の職業ということで生徒に2回ほど話したことがあるのです。卑しいことはするなと言ったのです。ですから私はいまとても複雑ななんともいえない当惑した思いにかられているのです。とんでもねえことをと思いまた寂しくなり、教師の思いなどというものは世の流れ動きの中では虫けらのようでもあるかと自嘲してみたり。

  

 

 

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