玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*二つの純愛映画

2024年01月29日 | 捨て猫の独り言

 大学生河野實(マコ)と軟骨肉腫に冒された大島みち子(ミコ)との3年間におよぶ文通を書籍化した「愛と死をみつめて」がベストセラーになり、翌年の1964年には吉永小百合と浜田光夫が共演した映画も大ヒットした。この年私は大学受験に失敗して浪人の身だった。あまりにも全国的な話題になりすぎたせいか、私がこの映画を観たのか、観てないのかはっきりしない。

 なにしろレコード、映画、テレビドラマその他で「愛と死をみつめて」が繰り返し再生され、稀に見る社会現象となっていた。この年の11月にはケネディ大統領が暗殺されるという衝撃的な事件も起きている。あれからもう60年が経過している。

 なぜこのようなことを思い出したのかといえば、昨年のプレミアムシネマでアメリカ映画「ある愛の詩(うた)」を観たことによる。この映画は何度か放映されたと記憶するが、私が最初に観た時はあまりにも寂しげな雪景色の始まりにおもわず観ることを止めたのだった。今回本腰を入れて観て、純愛映画の金字塔という評価に納得することになった。

 二つとも難病で死に別れる恋人をテーマにした映画で、「愛と死をみつめて」の6年後に「ある愛の詩」は作られている。軍配を上げるとすれば後者の方にあげたい。なぜなら後者には名家の4世とイタリア移民の娘という家柄の違い、送金が中止されて貧しいながらも幸せな日々、最後は父親との和解など劇的な要素が多く仕込まれている。なにより私が感動したのは、降り積もった雪の中を、くみつほぐれつしながらひたすら二人だけの世界に没入しているシーンだ。これはおそらく人生に一度だけしか訪れることのない瞬間で、それを描き切った稀な映画だと思う。

 

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*プレミアムシネマ

2024年01月25日 | 捨て猫の独り言

 私が好むテレビ番組の一つにプレミアムシネマがある。新聞のテレビ週間番組表で注目するのは、日曜囲碁トーナメントの対局者は誰か、月~金曜日の13時からのプレミアムシネマに観るべき映画はあるかの2つだ。コマーシャルに中断される民放の映画は敬遠だ。

 昨年の12月1日にBS放送波の再編が行われた。BS1とBSP(プレミアム)の番組は「NHKBS」に凝縮された。高精細の映像を届けるBS4Kは「BSプレミアム4K(BSP4K)」に名称が変更になった。3波から2波への再編だ。凝縮による影響はNHKBSの再放送率の減少だ。

 我が家の現在の環境(光回線テレビ)でBSP4Kを受信する方法は2つある。4K専用のテレビに新しく買い替える。あるいは4Kレコーダーまたは4Kチューナーを備えるかのどちらかだろう。面倒なので当面はBSP4Kを視聴することを諦めることにした。

  奇数の月毎に年6回開催される大相撲は私の楽しみの一つだ。ところが大相撲の開催期間中は、プレミアムシネマの時間帯に大相撲中継を放送するためプレミアムシネマは、そのあおりで2週間以上のお休みとなる。放送波の再編が及ぼす痛い痛い影響に今になって気付いた。

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*養老孟子入門②

2024年01月22日 | 捨て猫の独り言

 「脳が作る意識の世界を、身体と対比させるという意味で身体は脳の外にあると考えよう」

 【脳・意識・人工】×【身体・無意識・自然】

 

 「脳の中は同じの世界だ。しかし身体は差異の世界だ」

 「同じの世界」とは何か。リンゴ2個と車2台は同じ「2」だ。私はAさんと「同じ(立場)」になれる(感情移入)。言語もお金も脳の産物で脳が違うものを「交換する」あるいは「結びつける」という働きをする。

 「数学が最も普遍的な意識的な追及つまり「同じ」の追求だとすれば、アートはその対極を占める。いわば「違い」の追求なのである」

 「動物の意識には「同じ」という働きがほとんどない。だから動物には言葉がない」  

 「都市に残された最後の自然である身体、さらにその身体の生々しさを象徴するような死体、脳と正反対のものが死体である」 

         

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*体の不調

2024年01月18日 | 捨て猫の独り言

 元旦に能登半島で大きな地震が発生した。被災した人たちが「もうここには住めないと思う」と話すほどの惨状だ。テレビは平坦であった土地が液状化や隆起で波打っている映像を流している。志賀原発は本当に大丈夫なのか?

 年末の新聞チラシに「のと里山空港開港20周年特別企画」という2泊3日の旅行案内があった。それを見て出発を2月25日に決めて、申し込みのためチラシを大切にしまい込んでいた矢先のことだった。金沢や富山は幾度か訪れている。半島にも一度は行きたいと思っていた。

 元旦に私の体に異変が起きた。右足に痛みを感じた。前かがみなら何とか歩ける。痛みは体のどこか損傷が起こったことのサインだが、そのうち自然に治るだろうと我慢して、痛み止めや湿布で過ごしていたが、半月経っても改善の兆しはない。

 とうとう16日に近くの整形外科を受診した。腰や膝のレントゲンを見ながら「薬を出します、2週間様子を見ましょう」というのが担当医の言葉だった。先は見通せないが、この2週間で、こわばった体を積極的にほぐさねばならないと思う。通院の翌日の17日は阪神・淡路大震災から29年だった。 

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*養老孟子入門①

2024年01月15日 | 捨て猫の独り言

 「もし養老先生が生涯で一冊の本を書いただけなら、どのような本になるか」という作業に取り組んでできた興味深い本が、2021年に出版(筑摩新書)されていた。著者は東大医学部解剖学教室で養老の助手として勤務した布施英利だ。

 布施は養老を「最後の解剖学者」と呼ぶ。「ここにある死体とは何か?」そして「ヒトとは何か?」ふつう自然科学ではそういうことは問わない。それは邪念だと切り捨てられてきた。最後の解剖学者とは、それまでの歴史を背負って総括し、それを別の分野にもつなげる。そのような態度を指している。

  

 つぎの7冊をとりあげて読み解いている。「形を読む(49歳)」「唯脳論(52)」「解剖学教室へようこそ(56)」「考えるヒト(59)」「バカの壁(66)」「無思想の発見(68)」「遺言(80)」布施の本から得た、私の養老ワールド探究の成果?を箇条書きしてみた。

 「脳は信号を交換する器官である」「始めは電磁波(視覚)と音波(聴覚)というおよそ無関係なものが脳内の信号系でなぜか等価交換され言語が生じる」「意識(=心)は脳の機能(はたらき)である。心臓と循環、腎臓と排泄、肺と呼吸などの関係と似たようなものだ」

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*反知性主義

2024年01月11日 | 捨て猫の独り言

 2016年の6月、イギリスは国民投票において51.9%の賛成でEUからの離脱を決めた。11月にはトランプがアメリカ大統領になった。この注目すべき二つの歴史的出来事を念頭に、その翌年の5月に橋本治の「知性の転覆」が出版されていた。最近この本を手にして、その最終章だけを読んだ。そこにあるトランプ現象についての言及は興味深いものがあった。

  

 いまは下火になったが、その頃にしきりに話題になった「反知性主義」というのはアメリカの学者だか評論家が言い出した「アメリカの心的土壌の分析」で「アメリカには建国以来、知性に対する憎悪や反感がある」としたことが始まりらしい。うかつにも私は我が国の、時の首相を揶揄した言葉かと曲解していたことを思い出す。

 建国当時のアメリカ人は故郷を離れて未開の地にやって来た「移民」なのだ。先住民との争いをくり返して不安になる。「銃規制反対」の裾野を支えるのは「不穏なものがどこに隠れているか分からない。銃がないと危険だ」とする孤立したアメリカ人の原初的な不安感だろう。「知性」というものは様々に存在する複数の問題の整合性を考えて、そこから解決策を導き出そうとするとても面倒な作業だ。

 1950年代の初頭アメリカでは上院議員ジョセフ・マッカーシーの主導で「赤狩り」の暴風が吹き荒れた。ある時パタッと収束する。議会の聴聞会でのマッカーシーの様子がテレビ中継され「品性下劣」である彼の正体が明らかになってしまった結果、アメリカ人はマッカーシーを見捨てたからだ。それから60年以上たった21世紀のアメリカ人の40%以上は大統領が品性下劣であるかどうか問題にしない。没落というのは悲しいことだ。

 

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*映画・トランボ

2024年01月08日 | 捨て猫の独り言

 暮れに、2016年日本公開の映画「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」をテレビで観た。これは第2次大戦後の冷戦を背景にアメリカで猛威をふるった赤狩りによって映画界から追われながらも偽名で活動を続け「ローマの休日」などの数々の名作を残した不屈の脚本家ダルトン・トランボの伝記ドラマだ。

 印象的な場面がある。トランボが家族と一緒に劇場から出てきたとき、反共主義者の暴漢にコーラを浴びせられる。その翌日トランボが馬の手綱をひき、馬上の娘との会話のシーンだ。「パパは共産主義者なの?」「そうだよ」「違法なの?」「いいや」「パパは危険な過激派だって?ホント」「過激派であるかもな。だが危険なのはコーラをかけるやつだけだ。パパは国を愛している。いい政府だ、だがどんなものでも改善できる」

 「ママも共産主義者?」「違う」「私は?」「どうかなテストしてみよう。好きな弁当は?」「ハムサンド」「それを学校へ持っていった日に弁当のない子がいたら?」「分ける」「分ける?働きに行けと言わないのか?」「言わない」「金を貸すのか、利息6%で」「ハハ」「知らんぷりするのか?」「違うよ」「おやおや、ちびっ子共産主義者だな」

  

 赤狩り支持派のジョン・ウェインを衆人環視の場でトランボが挑発して、やりこめる場面がある。西部劇は先住のインディアンを追放してできたアメリカ合衆国を讃える愛国的な娯楽映画とも言える。かつてジョン・ウェインの西部劇を手に汗握って観ていた。いまにして思えば一面的な楽しみ方だったと鼻白む思いがする。

 

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*国が初の代執行

2024年01月04日 | 沖縄のこと

 辺野古移設工事は軟弱地盤の対策にコストばかりかかり、完成の目途さえたたない。玉城知事に代わって、国が設計変更を承認するという歴史上初めての「代執行」が12月28日に行われた。地方自治の理念に反しかねず、問題の多い手続きだ。首相がリーダーシップを発揮して問題に対応する気配はなく、国交省の手続きは例の「粛々とやる」以外のものではなかった。

 玉城知事は「沖縄の苦難の歴史に一層の苦難を加える辺野古新基地建設を直ちに断念し、問題解決に向け、沖縄県との真摯な対話を求める」と訴えた。普天間飛行場の返還は橋本首相が1994年4月、モンデール駐日米国大使との間で合意した。当初は5~7年で返還するという合意だった。しかし、これまでもこれからも長きにわたり普天間基地の危険性は放置され続ける。

 いまも続く普天間の危険性に取り組む政治家が見えてこない。つまりアメリカと交渉する気骨のある政治家がどこにもいないと言うことだ。政治の不作為でなくてなんだろう。10年周期で見ると安全保障環境はガラッと変わる可能性がある。普天間飛行場に比べて辺野古は滑走路も短い。前線基地に海兵隊を置いて大丈夫かという議論がアメリカでもあるという。

  

 辺野古はこれまでの米軍基地とは根本的に違う。日本人が初めて、自らの手で沖縄に米軍基地を造ることになる。それで歴代の知事は使用期限や軍民共用などの条件を求めてきた。日本政府はこれらをことごとく葬り去った。元防衛大学校長の五百旗頭(いおきべ)真氏はつぎのように述べる。「日本の首相以下が柔軟に修正を考え、米国に協力を求めれば、米国側が応じる可能性がある」「沖縄に支えられた安全保障ならば、政府は労をとらねばならないのに沖縄を放置している。日本の首相が米国に正面から要求する勇気を持たなければならない」

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*能楽入門書から

2024年01月01日 | 捨て猫の独り言

 金沢で能楽堂を見学して、能についてもう少し知りたいと思った。平安時代、二人の人間が互いにおかしなことや猥褻なことを言い合って見ている人をおもしろがらせた「さるがふこと」から猿楽という。鎌倉時代には田楽(田植えを囃す楽)、傀儡(あやつり人形)などの芸能が出てきて、そういった芸能の中から良いところだけを取って能を大成させたのが猿楽師の観阿弥・世阿弥だった。

  

 明治維新で幕藩体制が崩壊し猿楽は支持者を失うが、その後明治政府の要人は外国人賓客の接待のために能に注目し再興してゆく。「能楽」といって能と狂言を一緒にしたものが現れたのは明治になってから。近年、能の番組編成は時間の関係から三番立ての場合が多い。初番目物(脇能・神能)、二番目物(修羅物)、三番目物(鬘物)、四番目物(現在物)、五番目物(切能)がある。

 「能面は、世阿弥が能を大成するよりはるか以前に、きわめて高い水準において完成されていた」という見解は新鮮だった。つまり能面は世阿弥の要請や指示によって出来たのではない。能では面(おもて)という。面は本来、とても神秘的なもので神の憑坐(よりまし)という意味がある。能においては「初めに能面があった」というわけだ。

 能面をつけると、能楽師の視界は眼前の一点に絞られる。体重のバランスを保つ上に大きな困難をともなう。能楽師は皆「摺り足」の練磨に生涯を賭ける。視界が狭められ、遠近感も失われるとすれば演者の動作は慎重になり、「緩慢」にならざるを得ない。感情表現の最大の要素である顔を能面で遮断した。能の意図は、能面によって人間をいったん「無」の状態に戻すことにあった。能は表現を減らすことに何百年もの努力を傾けてきた。

 

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