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玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

暮はヤッパリ大掃除だ

2012年12月26日 | ねったぼのつぶやき

 普段比較的まめに掃除をする方なので、今年は止そうと思っていたのにヤッパリ落ち着かない。そしてやりだすと・・・例によって戦線は拡大してゆく。台所では鍋・釜磨きを始めたらキリがないので、セイゼイ戸棚を拭いて古くなりそうな食材は使い切る算段をする。半端に残った使い残しは思い切って廃棄する。非常用の食料は備蓄せずとも、2人分となれば優に一週間程度は賄える。換気扇の網は例年手こずるが、今年は食洗機で2度洗いし綺麗になった。

009 トイレ・洗面所は私の領分だが、風呂場はツレアイの仕事にした。これだけでも大分違う。次いで玄関。ここは結構大変だ。靴を全部出しタナを拭く。草臥れた靴は処分し、使用中のものは磨いてから納う。おしゃれ用の靴が多いと手入れが大変だが、我家の靴数は限らていて簡素そのもの。未だ履けると靴を貯め込むとこの作業は大ごとになる。

 暮の布団の手入れは勤務と天候と家事全般の段取りによって決まる。今朝は寒かったけれど陽射しも強く急遽布団の手入れをすることにした。そうと決まれば急げ!!シーツ、包布をはがし洗濯機を回す。糊づけの糊が少なくなっている。スーパーは未だ開いていない・・と近所のコンビニに向う。ナイ。ない。それもそうだ。コンビニに来る若者達は洗濯糊等求めないのだ。以前にも同じ失敗をしたのを思い出した。元来私は糊は粉派なのだが、手に入り難く多くは液体でボトル数本を用意しておくのに・・。玄関を水洗いする頃には日はトップリと暮れていた。もうすぐ正月。良く働いた手は、入浴後ハンドクリームをタップリ擦り込んで労わって上げなくっちゃ!。

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珍味は体に良くない?

2012年12月16日 | ねったぼのつぶやき

 インフルエンザ予防注射の日に検診のデータが示された。LDLコレステロールの数値がラインを越えているという。タマタマ検診時の血圧が140だったので、一月測定した結果も提出した。高血圧ではなかったが、加齢と冠動脈の家族歴(父)にもう一つ加わればリスク群に入ると脅される。医者の一言「魚卵・イカ・卵は良くない」は大きな意味をもつが、要は加減の問題で全面禁ではない。

016 この一週間の内に2度、知人宅で泊がけの御馳走会と、我家でかっての仕事仲間達と3年振りのランチ会をした。いずれもアレやコレやと、ワイワイ・ガヤガヤ賑やかに準備したのは言うまでもない。仕事仲間達とは持ち寄りパーティにする積りだったが、「あんこう鍋」にし皆で寺泊直送の魚スーパーに走った。用意した珍味はいずれも過ぎたら体に悪そうな物のオンパレード。イカ・イカわた・アンコウの肝・・・。エーイッ ままよ!。かって美味しく頂いた「アン肝」レシピは意外と簡単で、実演しながらお持ち帰り分まで出来た。知人宅で教えを請うたイカのわた使用の”かにみそ風味” も作っちゃえ!と。後は美味しくワインを飲みながら話に花を咲かせた。(今はもう落葉した上水路)

 女性達は料理談義が多い。コレステロールを押し上げるメニューを詫びたら「神経質にならない事にしてるノ。薬を飲めばいいんだしその方が楽チン」と一人が言った。そういう考えもあるが、病院通いをしたくない私は薬の要らない生活がヤッパリ第一だ。開頭術を受け、抗ケイレン剤から離脱するのに10年を要したせいもあるけれど、病院の待合室はどうも好きになれないからだ。

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*沖縄への旅(最終回)

2012年12月06日 | 沖縄のこと

030

 5日目は那覇市街を抜けて本島南部に向かった。空は晴れ渡り半そで姿の人を多く見かける。平和記念公園は「沖縄戦終焉の地」糸満市摩文仁の丘陵を南に望み、南東側には険しく美しい海岸線を眺望できる台地にある。公園内には「平和祈念資料館」、沖縄戦で亡くなられたすべての人の名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」、「平和祈念像」、「式典広場」などがある。最初に見学する資料館は修学旅行のシーズンとあって高校生の団体で混雑していた。じっくり見学するには2時間ぐらい欲しいのですが40分ほどの見学時間しかとれませんと付き添いの旅行社の方が説明してくれた。

 「資料館」の展示内容は充実している。展示理念が「住民の視点で捉えた沖縄戦」だという。「沖縄戦の実相を明らかにする」とある文言の中の「実相」という語句が私には新鮮に響く。アメリカ公文書館等から沖縄戦の実写フィリムを購入し、フィリムを通して次の世代に沖縄戦を伝える目的で「1フィート運動」が始まった。フィリムが1フィート=30cmにつき100円というカンパ運動のことだ。「平和の礎」の刻銘碑は海側の広場を中心に半同心円状に配置されていて、中心の通路は6月23日の「慰霊の日」の日の出の方位に合わせて設計されている。波型に配置された多くの刻銘碑の列の間には熱帯から亜熱帯にしか見られない卵型の葉をした木が植えられている。その名を「モモタマナ」といい日射しの強い時期には葉をつけ日陰を作り、冬には落葉する。

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 「ひめゆり平和祈念館」の手前の道を海側に行くと「魂魄の塔」がある。サーフィンを楽しむ若者の車が散見された。観光客はほとんど姿を見せることがない。帰京した翌々日の朝刊に「沖縄の保守が突きつける」という那覇市長の翁長雄志氏への一面ぶち抜きのインタビュー記事があった。「旧真和志村に住んでいた。今の那覇新都心ですね。戦争で村は焼け、住民は糸満市に住むように指定された。あたりは遺骨だらけ。村長とおやじが中心になって4千体くらい集めたらしい。最初は穴に埋葬していたけれど、数が多くて骨が盛り上がり、セメントで覆った。それが魂魄の塔。命名したのはおやじです」この日でレンタカーを返却し、最終日はモノレールを利用して首里城、国際通りの牧志公設市場を見学した。

 はがき大の写真4枚が送られてきた。印刷された文面に「先日はご来店ありがとうございます。早速〇〇さんからご住所お聞きしましたので、写真同封いたします。沖縄にお越しの際は、ぜひうりずんにお越しください」とある。うりずんで飲んで帰る時に店の前で4人並んで撮ってもらった写真である。このようにプリントしたものが届くとは予想してなかった。おもろ語の「うりずん」は、「うり」は潤う、「ずん」は染みとおるの意味だ。冬が終わり大地に潤いが増してくる2月から4月のことで、沖縄では梅雨に入る前の最も爽やかな季節のことである。シリーズの最後に先の翁長氏の記事に戻る。「振興策を利益誘導だというなら、お互い覚悟を決めましょうよ。沖縄に経済援助なんかいらない。税制の優遇措置もなくしてください。そのかわり基地はどかしてください。国土の面積の0.6%の沖縄で在日米軍基地の74%を引き受ける必要はさらさらない。いったい沖縄が日本に甘えているのですか。それとも日本が沖縄に甘えているのですか」

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*沖縄への旅(五)

2012年12月04日 | 沖縄のこと

026

 私たちは月曜と火曜の予定を入れ替えた。糸数アブチラガマに近い平和祈念資料館を明日にまわしガマの見学後は、ただちに北上して那覇を抜けて宜野湾市の普天間基地を目指した。普天間基地に隣接する佐喜眞美術館は今日は休館日でない。美術館の屋上から真下に普天間基地を望む機会を逃したくなかった。美術館に近づくと偶然にも沖縄国際大学の道路表示を発見して急遽立ち寄ることにした。2004年8月13日14時15分ごろ普天間基地所属の大型輸送ヘリが大学1号館に墜落炎上した。その事故の現場を確認すると、そこは大惨事になってもおかしくないほどの住宅密集地だった。

 佐喜眞美術館は「原爆の図」で有名な丸木位里・俊の夫妻による「沖縄戦の図」が常設展示されている。廊下には沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した直後の生々しい白黒写真が並んでいた。なぜか敷地内には立派な亀甲墓が置かれていて人目を引いている。つぎは初日に走った58号線を北上して基地の展望ポイントとして有名な「安保の見える丘」を目指した。現在ではほとんどの人が「安保の見える丘」よりも道路を隔てたすぐ近くの「道の駅かでな」の4階の展望台を利用する。轟音を残して戦闘機が離発着をくりかえす。3階の学習展示室に印象的な展示があった。嘉手納は町の面積の83%を基地が占めるが、「基地がなかった頃の嘉手納」という展示がそれである。

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 那覇の宿は沖縄都市モノレールの「おもろまち」駅の傍にある東横イン「おもろまち駅前」の連泊だった。16世紀に首里王府によって編纂された歌集全22巻が「おもろそうし」である。「おもろ」の語源は「うむい(=思い)」だという。これが1999年に那覇新都心の地名に採用された。この地域では免税店、レンタカー営業所、博物館、美術館、ホテルなどの新しいビルが立ち並び、さらなる変貌を遂げつつある。那覇の第一夜はモノレールでひと駅の安里駅まで四人で歩いた。安里駅に近い「うりずん」で泡盛をいただくことに決めていた。マスターの土屋さんは泡盛居酒屋の草分け的存在で今年で店は40周年を迎えたという。土屋さんのことを知人に聞いていたので、たずねると入り口近くのテーブルでにこやかに客と談笑しているのが土屋さんだという。四人で飲む残波30度のボトルはたちまち空になった。

 翌日の那覇の最後の夜の食事は、泊小学校の近くの郷土料理の店「糸ぐるま」と決めていた。これも知人の紹介の中から選んだ。ホテルのロビーでプリントアウトした地図を片手に捜すことにした。タクシーを頼むほどの距離でもない。暗がりの中を少し道に迷いながらも住宅街の片隅にある目的地にたどり着いた。内装はおかみの作った首里織やご主人の作ったシーサーが飾られている。七品のコース料理を頼んだ。その中の一品の「みみがー和え」とは豚の耳の皮のピーナツ味噌和えである。「らふてー」とは泡盛をたっぷり使って弱火で長時間じっくり煮込んだ豚の角煮のことである。。島ラッキョウのサービスがあった。さすがにこの頃になると飲むことよりも、食べることの方がよくなってくる。2合を飲んで誰も泡盛の追加注文を言いださなかった。

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*沖縄への旅(四)

2012年12月01日 | 沖縄のこと

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 心配された旅行中の天気も終わってみれば2日目の午後に雨に見舞われただけだった。3日目は10時発のフェリーで伊江島を離れた。まず58号線を北上して大宜味村の芭蕉布会館を目指す。この日の気温は25度を超えていたのではないか。会館のある喜如嘉集落にはゆったりした時間が流れ静まり返っている。休館日の下調べをしていなかったことに気付いたが後の祭りである。日曜休館とあって見学はできない。集落にはイトバショウと呼ばれる背丈の低いバショウの林があちこちに見られる。ちょうど正午になってにはスピーカーから懐かしい「芭蕉布」の沖縄メロディが流れた。

 国頭村で昼食をとり、Uターンして沖縄自動車道を許田ICから西原JCTまで一気に南下する。知念半島にある琉球王国最高の聖地である斎御嶽(せーふぁうたき)を訪れた。御嶽とは南西諸島に広く分布している「聖地」の総称だ。この御嶽の中でも三庫理(サングーイ)と呼ばれる二つの巨大な鍾乳石からなる神域は印象深い。巨大な石が寄り添って出来た三角形の空間の突きあたり部分が拝所となっている。拝所から東側の海の約5㎞に平坦な姿の久高島が望める。この久高島で生まれ育った30歳を越える既婚女性はイザイホーの儀式を経て神女になる。イザイホーは12年ごとに行われる。来訪神を迎え、新しい神女をその神々に認証してもらい、島から去る来訪神を送るというものだ。島の過疎化が進み1978年を最後にこの儀式は行われていない。

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 御嶽をゆっくり見学して331号線を引き返して行くと、近くに知念岬公園があった。ハンググライダーが五つ、六つ潮風に乗って岬の上空を気持ちよさそうに旋回している。うまくコントロールできるものだと感心するばかりだ。インストラクターが後についているのだろう2人乗りで飛んでいるのもある。高所恐怖症の私には無縁なスポーツだ。民宿「海野」の夕食には近海で獲れたソデイカの刺身が出た。一階の二間をぶち抜いた大きな仏壇のある部屋に、二つ並べた低い食卓には白いテーブルクロスがかけられている。どの部屋も掃除がゆきとどいて気持ちがいい。年老いた母と女主人である娘が調理している姿が座敷から見える。

 4日目は朝早く8時半に糸数アブチラガマに入る。アブとは深い縦の洞穴、チラとは崖、ガマとは自然洞窟のことである。沖縄戦時、もともとは糸数集落の避難指定場所だったが、日本軍の陣地壕や倉庫として使用され、戦場が南下するにつれて南風原(はえばる)陸軍病院の分室となった。軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配置され、全長270mのガマ内は600人以上の負傷兵で埋め尽くされたという。南部撤退命令により病院が撤退したあとは、糸数の住民と生き残り負傷兵の雑居状態になった。ガマに入るとすぐにそこは漆黒の闇だ。先導するのは女性のガイドさんである。懐中電灯がなければ動けない、ヘルメットがなければ頭をぶつける。腐臭悪臭そして断末魔のうめき声を想像することはつらい。ガマ見学の予約にあたり受付の方が早い時間帯を割り当ててくれた。そのおかげでこの日も時間を有効に使うことができた。

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