玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

100)皆み~んな有難う

2006年12月27日 | ピースボート世界一周

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 12月13日。昼はブルーデッキで「洋上の主張-想い!伝えたい!聞きたい!」が催された。発表者の多くは若者達で洋上での体験や学び将来の夢などだったが、中には同性愛の告白であろうかと思えるような「~さ~ん、あなたが好きで~す。いいですか~」の絶叫に、同性の女性がどこからか「いいで~す」と応えていた。先程学んだことがそこに出現していた。(104日一緒だった海と空)

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 発表者の最高齢は80過ぎと思しき老婦人で老人ホームから2人参加されていた。司会者の若者に演台のヤグラに引っ張り上げてもらい、正座して長~いメモを読み出した。主張は「チリで、船医に離脱を勧められ相方は降りたけれど私は頑張り通しました」だった。Peace_boat_1414 確かに周りがヤキモキした事もあったけれど、この年齢での参加には感服する。中年のGETクラス「パンダック」は全員で演台に上がり、「私達の英語より先生の日本語が上達しました」と皆を笑わせた。(立っていた司会者も御婦人を真似て正座。聞き入る聴衆)

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 夜には船会社主催の最後のフェアウェルディナーとパーティ、ライブがあった。正装した乗客と正装したウェイター、ウェイトレス、初めてお会いしたコックさん達。彼らの手に持つ小さな灯りが彼らの移動に従って列を成し、合唱の際は歌声と共に揺れて美しい光景を醸し出していた。「快適な時間を過ごさせてくれたあなた方こそありがとう」と私は呟いた。

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 改めて船内新聞を繰り出してみると、PeaceBoatの船旅のコンセプトは「人と出会う旅」「持続可能な社会へ向けて」となっていた。乗客、職員、講師、寄港先でどれだけ多くの人々出合った事だろう。講師の話を聞きながら、今日的なテーマの前では佇むことも多かったけれど、何がしかのサジェッションを得られたことも確かであった。多数派が必ずしも正義でないことも知ったし、少数派になってしまった先住民の意見や立場にも思いが向くようにもなった。私の出来る事はささやかだけどやれることからやろうという気にもなった。

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 昨年は旅自体を大いに楽しんだ。今年は1年かけて記録しながら記憶の整理と少しばかりの自省を試みた。この作業を通してヤット私の旅が終わったと実感している。こんな個人的な作業に断りもなく写真を多用させてもらった事を、多くの方に先ずお詫びしなければならない。幸運にも丁度時を同じくしてこの年末に個人で作製された3本目のDVD「洋上のファンタジー」がお仲間から届いた。その美しい映像とその映像に被せた歌唱(サラ・ブライトマン)を感激しながら拝見した。それに比べて私の紀行文のなんと饒舌であることかと恥じ入るばかりだ。そんな紀行文に長らくお付き合い下さいました皆様には心から感謝申し上げます。本当に有難うございました。 (完)

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99)最終舞台全員集合

2006年12月26日 | ピースボート世界一周

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 下船4日前は昼の部、夜の部に分けて芸祭と称し「自主企画発表会」が行われた。昼の部は20グループ、夜の部は12グループあった。この手の企画はいつもそうだが、開演15分前までは列を成して順番を待つ。私はいつも列に加わったが、中には冷ややかな眼差しの御仁も見かけた。(スエズ運河の夕陽)

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 昼の部は大太鼓叩き、ジャズ体操、サンシン、ジャンベでジンベ、チアーリーディング、東日本ローカル線の旅、ストリートダンス、海音の楽器、姿勢健康法、ジャニーズ5076、ナンチャッテ空手、お琴入門、スイングダンス、NANAMIバンド、手話やってみる?、よっしゃこい、ハーモニカ演奏、バンド部解散ライブ、60才からの舞同好会など。(ジャンベでジンベ)

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 夜の部はスタッフバンド、エイサー、カポエラ、座敷舞、I loveウクレレ、武富士ダンサーズ、津軽三味線、ストリートダンス、クレイアニメ、よさこい鳴子、ソーラン踊らん?、天使にラブソングと実に盛りだくさんだった。自分で苦労してあるいは楽しんで習得したことは回りにも同じ気持ちが伝わる。(再度ジャニーズ5076登場)

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 前回も触れたがこういったエンターテイメントではなく、パッチワーク、刺繍、俳句、短歌、絵手紙、絵画、写真展など展示できる物はすべて中央のロビーに展示され数日間は自由に見学できた。先生級の人もかなり居て見事な作品を充分に楽しめた。たとえ初心者でも連日少人数でレッスン料もいらず習えるのだから、こんないい機会を逃す手はない。(いつも人と掲示物、案内板がひしめいていた事務局)

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 その最たる物が社交ダンスだったのでは。どのグループも女性の方が圧倒的に多かったのだが、ことダンスにおいては女性不足、男性余りだったと聞いた。朝に夕に練習あり。何度か発表会も催された。当初テレ気味であった面々も段々真剣な表情になり、ジルバ、ワルツ、タンゴと難易度も高くもなっていった。しかもバンド付きだったので一段と晴れやかな舞台となった。(ベイブリッジが見えた!真っ黒に日焼けしたこの体は寒くなんかナイッ!とブルブル)

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98)太平洋上荒波高し

2006年12月24日 | ピースボート世界一周

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 チリ沖沿いの数日は寒流の影響をモロに受け、曇天といきなりの寒さに震えていたが、南洋諸島では日焼け予防の手当てが必要だった。イースター島、タヒチ、フジィー、ラバウルで16箇所の寄港地訪問を全て終えた。その後7日かけて日本へ向かう。日毎に寒さと波のうねりに襲われた。太陽の望めない日の冬空は暗く、手すりを伝って歩いて下さいとアナウンスもあり、危険防止のためデッキが封鎖される日すらあった。(チリ沖の冷たい海面でイルカの乱舞)

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 船内では帰国に備え若者達に就職活動の手引き様の働きかけがなされた。乗客がその役を買って出て、予約制だったから、個別的な話だったのでは。数日間行われたから有益な相談活動だったのだろう。

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 集団的には「就職予備校」と銘打ってオリエンテーションもなされた。船旅の運営母体がNPOだったのだが、NGO、NPO全般についての説明やスタッフの募集もなされた。この母体の職員の殆んどは乗客出身で、Peace_boat_751_1 今回初めてスタッフとして関ったメンバーを中心に「僕らが船を出す理由」と題したプログラムも組まれていた。詳細は不明だが若者の興味を引いただろう。下船後責任者らを含めて食事をしたことがあるが、10人余が職員になったと聞いた。(カナリア島でトレキング。1日かけたパナマ運河通過)

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 11日以降は下船説明会以外はレクチャーはなかったが、芸祭に向けた練習と展示物の仕上げ、各種対抗戦が行われた。私の主張、ありがとうのメッセージ、船会社主催のウェアウェルパーティ、色んなグループの送別会や県人会の結成など全て終盤に向けて進行していた。当然集ったり、飲んだりする機会も多く居酒屋は予約制へ移行したのだが、大波があると船体も揺れて、椅子に腰掛けたまま倒れたり、テーブルが傾ぐ、火が使えない等営業切り上げや閉店もあった。航海のおわり、時に海は波高く時に穏やかになる。そんな人生行路にも似た海との別れも近づいていた。

 

 

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97)104日でおいくら?

2006年12月22日 | ピースボート世界一周

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 長々と書き綴って来ました。サテは「いくらかかった?」が気になる所でしょう。今回は数字で報告します。基本料金いわゆるホテル・コストが3食込みで220万円だったが、早期申し込みに付き23万円割引付で197万円。(個室なれど窓がない最低ランク。シャワー、トイレ、洗面台のユニット付)。ビザ取得代金42450円、空港使用税28500円、チップ預かり49920円、オプショナルツアー29、3万円、GET12万円、保険2、7万円で計253万円事前納入した。(ナイロビの夜明け)

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 その他個人的に済ますことはマラリアの予防注射とユーロ、米ドルの交換。キャッシュカードIDの申し出。薬服用者や高齢者(70歳以上?)は診断書提出。トランクや荷物は宅配業者の集荷有。説明会や船、船室の実地見聞は業者からの指示に従った。私の外貨持ち出しは25万円。当初より買物の予定はなく余ってしまった。(タグボートに曳航される)

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 船での支払いは全てキャッシュカードのIDを刷り込んだ船用のIDカードだった。Barや居酒屋での3食以外の飲食、レストランでのBeer、売店、各講師の出版物など。船で現金を要したのは寄港先で寄付するための催しに協力する際、例えば絵本、ハロウィンパーティ券の購入時等数回だった。寄港地で現地通貨しか使えない所は手持ちの外貨(ドル、ユーロ)から到着時か直前に両替がなされた。(パルテノン神殿から望めるギリシアの街)

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 船内でカードを使ったのは、明細書によると約10万円位。という訳でトータルで288万円也と出た。事前の出費や準備を含めてオヨソ300万円とすると1日相当3万円弱。これを高いと見るか、安いと見るかは考え方によろう。(市場の裏でイスラムの祈り)

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 今はやりの言葉で「私的」に言うと、世にいう豪華な雰囲気の旅ではなかったけれど、長~い時間をかけ、思いも及ばなかった体験や見聞ができた。また主婦にまつわる用事と少々小うるさい夫の目からも解放され、多芸多才の方々との交流をまるで独身気分で満喫できた。そういった意味においてはこれ以上ない豪華な旅であったのだが、小うるさいなんてケチをつけたら捨て猫さんに恨まれようか。いえいえマダマダ上も居たのです。終盤で次回以降の説明会があったのですが、次の船にまた乗る、リピーターとして何度も乗る人も・・・。(ベルギーの人情家デリクとイギリスのリィブシィー)

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96)Boat上の日常生活

2006年12月20日 | ピースボート世界一周

Peace_boat_1301  パプニューギニアのラバウル紀行記は既に書いた。この作業もあと4回で100回。年内で終了する。サテ船上で主婦が一番解放されたのは何と言っても家事全般。料理、掃除は不要。自分の洗濯物のみ洗面台の手洗いで済ました。長らくそんな暮らしをすると家事に対して渇望感すら湧いて来る。(海に面した広場に朽ちた戦車、飛行機の残骸を展示ラバウルにて)

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 船には300~400人の外国籍の従業員が居た。食事関係、船室清掃、船内外の塗装、床張替え、水周りの管理など業務は分担されて毎日、あるいは停泊中に絶えず手入れをしていた。道理で横浜に着いて数日をおかず次の航海に出れた筈だ。手入れをしながらの航海はユックリ出来ないとトラブルもあったやにも聞いた。(bedはセミダブル。上に畳んであるbedを開くとシングルbedが増やせる。毎日ベッドメイキングあり、私はカードにNo-ThankyouとPlease-Takecareと明記して用いた)

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 船では診療所以外一通り体験した。美(理)容院は私の部屋へ向かう途中にあるのだが大柄のブルガリア女性2人がいつも腕、足組をして客待ちしていた。私はヘアーマニュキュアをしていたのだがマニュキアは出来ない、髪全体の毛染めならできるというのでやって貰った。女性2人が髪をいじる。アチコチ引きつれて痛い。シャンプーも仰向けになった首が痛い。そんな折も折シャンプーの途中で水詰まりがして中断。Peace_boat_622_1 「料金は要らないから」と帰された。最後のハプニングの所はどうしても通じずフロントを呼んで意味を解したが後日レシート上では引き落とされていた。(ロッカー。も1つのトランクは半開きのままベッドの下。そのまま出し入れして用を足す。金庫はダイアル式。オレンジの救命胴衣は3着)Peace_boat_063

 それに比べると日本のサービスはヤッパリ快適。マッサージも受けてみた。こちらは日本の女性。国と同様のサービスを受け心地よかった。外国旅行を好んだ娘も「兎も角日本のサービス振りは徹底している。外国では不快な思いをすることが多い」と言っていたっけ。しかし私の部屋のハウスキーパーは同じブルガリアの男性だったがにこやかで美容師さんとは似ても似つかなかった。 

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 ハウスキープといえば若い男性の4人部屋の乱雑さはひどかった。6畳位の部屋に2段ベッドが2つとロッカー。1人当たり荷物が2ケとして荷解きしなくても賑やか。そこえ土産物が増えて物の氾濫は想像もつこう。「笑え!輝け!Starへの道」で優勝して以来ジャニーズ5076のメンバーは人気があったが、クラスメートのクンちゃんもいた。通路に面したその部屋は朝夕よく開放してあり、私も中に入ったり覗いたりしたのだが若者の誰か1人は昼間でも寝ていた。此処まで来るとどうやって片付けるのだろう。どうやって掃除するのだろう。キーパーさんの溜息が聞こえてきそうだった。(フリープラン・ローマのホテル)

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95)リーブシィと一緒に

2006年12月18日 | ピースボート世界一周

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 Wクラス担当のリーブシィは在英中に応募し、合格の報を受けて初来日した。従って日本語は全く話せず授業は必然的に全て英語となり、私達にとっては幸せなことであった。程なく上級クラスの生徒に日本語を習い始めた。29歳の長身の独身青年で自転車の愛好家。国でも自家用車は持たず自転車にリヤカー様の物を連結し、気に入っていると写真を見せた。飛行機(環境汚染の最たる物)には乗らずロシア経由で日本に来たという。

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 彼はビーガン主義者でヴェジタリアンよりモット厳格な菜食主義者だった。つまり動物由来の乳製品、蜂蜜、卵製品も一切採らない。その他衣類や靴カバンに至るまで全て動物性製品は避けていた Peace_boat_1222bokashi そんな生活をするようになって6年になると言い、Veganと明記された自分の靴を見せてくれた。動物は植物と比較すると資源を多く消費し環境に負荷をかける。環境への負担を少なくしたいのが最大の理由と言った。かといって変物でも何でもない。ただ自分の心情に従って生きている好青年だった。(習いたての日本語でスピーチ。右は教材は前日に打ち合わせ1日だけ生徒が順番に教師をした)

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 先ずはクラス分け。事前にペーパーテストが配られ、上船後英語で面接をしてクラスが決められた。腕にヨリをかけたい上級クラスの人もいたけれど、大体ソコソコだったのだろうか。Peace_boat_1042 こんな私でも「中級および中の上クラス」だったようだ。勿論解りやすく話して貰っているからだが、「相手の言っていることはほぼ理解でき答えられる。基本的な英語はマスターしており日常会話に参加できる」クラスだった。(担任の誕生日は2クラス合同でゲーム。ある日は天井に教材を張り浜辺に寝そべっているつもりで授業)

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 授業はとてもよく組み立てられていて、もし同じクラスメイトのようにもっと若かったらウンと力は付いたろう。日常的によく用いられる慣用句を覚えこんで駆使していたらモット自信が付いたかもしれないPeace_boat_1400_2。連日掲示される慣用表現、ことわざ、クラス日記や提出自由の自分の日記と課題も多く楽しんだけれど、ジックリと取り組む程の時間はなかった。(今日の授業は喫茶室。寄港地スゴロクでサイコロが止まった寄港地で指示に従って説明)

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 100日船にいて授業やレクチャー、現地での交流などでヒヤリングについては少し聞けるようになったカナと実感できるのだが、話す方はナカナカ。聞く力が付いた分思うことが伝えられなくて歯痒くすら思う。一方リーブシィは下船後サイクリングで日本を旅行すると言っていた。理数系卒だったけれどスペイン語も流暢だったから日本語の読み書きも上達したろう。しかし外国ほどヴェジタリアンのメニューのない日本で彼の食は大丈夫だろうか?(全部の授業を終え送別会)

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94)語学研修アラカルト

2006年12月16日 | ピースボート世界一周

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 Boat上での語学研修はスペイン語と英語の2種類あり、有料(12万円)と無料の2段階あった。何れもレベル毎にクラス分けされているが、無料の20分は参加自由。有料は40分授業が毎日2コマづつ。週末や寄港日など除外して35日間あった。(GET Street)

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 有料コース受講者(約150人)は授業の他にも色々参加出来たのだが、ちなみに私が参加したのは有・無料の全コマ、専用のツアー4回、課外ではChat Withで先生との1対1の会話(15分)4回Peace_boat_1248 、GET運動会、エコフェスタのワークショップ、ミュージカル(サウンドオブミュージック)、スピーチコンテスト等の準備、練習、発表とかなりの場面で担任以外の教師との接触も持てた方だった。勿論どのコースも大いなる勇を奮って参加したのは言うまでもない。(四苦八苦ながら会話。一緒にSound of Musicの準備)

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 教師は英語14名、スペイン語2名、コーディネーター2名の陣容だった。半分が初来日で半分はJET出身者だった。Boatに教師として乗船するのはハードルが高いと聞いたけれど、紹介記事をみる限り何れ劣らぬ才能の持主のようであった。多能多芸しかも若く元気なのだ。彼らとて初クルージング。ノルマ以外は自由で楽しんでいる風が見て取れた。(感極まっていたコーディネーターの2人)

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 スピーチコンテスト参加は自由だったが、本年は多く71名(受講者の半分)の希望者がおり、3部に分け2日がかり行われた。由美さんとKumarはこの日が一番嬉しく感激する日だと言い、各部の開会式と授賞式では感慨深げで感無量の表情をみせていた。Peace_boat004 フーッ、フームと感激とも溜息ともつかぬ吐息を発し、深く息を吸い込みながら、順位は付け難いと言った彼の表情を思い出す。各部とも先生方の日本語のスピーチも多々あって倍楽しめたのだった。(PUNDUCKクラスの担当教師がスライドで生徒の紹介)

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 卒業式もコンテスト同様乗客も一体となって行われたのだが、担任が自分の生徒1人1人に卒業証書を渡すだけだが、教師としての思い入れがあるのだろう。Peace_boat_1319 ダンスの舞台のある日は人一倍踊り狂っていたベルギー出身のデリックは、涙を拭こうともせず1人1人を抱きしめた。最もこの船旅を楽しんでいるように見えたデリックならばこそであった。教師の胸から離れない生徒もいて思いのこもった風景が展開された。

 

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93)Boat初洋上結婚式

2006年12月14日 | ピースボート世界一周

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 2005年11月27日Peace Boat史上初の洋上結婚式があった。60代カップルの誕生である。2人は乗船早々のビンゴゲームで、彼女がゲットしたインドネシアツアーに彼が同行したのがお付き合いのキッカケだったという。パナマ運河通過を記念して婚約発表をし、洋上で結婚式を挙げると宣言していた。(手前にモット広いこの場に式場が設えられた)

Peace_boat_082  若者達や同年代の仲間が2つとない式をと計画を練ったらしい。私自身はいつものスケジュールをこなすのに忙しくて、沢山の乗客が参加したその夜のパーティ以外は一切参加していないが、着々と準備が進行しているには見て取れた。(乗船2週後に夏祭り。彼女はプールの上に設営されたヤグラ太鼓を叩きハッピが似合った)

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 夜のパーティには事前のお知らせに従い何方もお洒落をして集まった。こちらの会場も又キレイに飾り付けられていた。先ず日中に挙行された結婚式の報告があった。青い空、青い海、大自然による絶好のシチュエーションの中で盛大に行われた。会場の飾りつけ、純白のドレス、司会進行、背丈ほどもあるウエディングケーキ(これは船会社からのプレゼント)と全て手作りで見事だったという。(パーティの出口で1人1人に挨拶するご両人)

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 パーティは会費制(と言っても自分の飲み物は自分で注文する程度)で、映像班が作ったであろう2人の出会いの再現VTRをみた。当初はご両人を中心にした宴から、一般のダンス、寄席、歌、演奏と続きパーティ特有の賑わいを見せて華やかな雰囲気の夜を皆さんと共に過ごしたのだった。(別の日パーティだが、ドリンクはこんな風な飾りつき)

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92)フィジー・クーデター

2006年12月12日 | ピースボート世界一周

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 5日夜TVが、フィジーでクーデターのNewsを報じた。エッ!あのフィジーでクーデター?。首都スバで早朝武装した兵士が首相の自宅を包囲し検問所を設けたという。1日目の午後はスバの港街で自由に過ごし、2日目はラウトカ港に回ったばかりだったので「あの街」がすぐ思い浮かんだ。(奥のテント迄スバの市場)

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 フィジーは日付変更線のすぐ西に位置し、世界で最も早く朝を迎える国である。イギリスの植民地時代に、インド系の人々がサトウキビ栽培の労働力として送られて来て先住民のフィジー人と人口で拮抗するようになったが、経済活動においてインド系が優位に立っていた。Peace_boat_1188 フィジー系のガラセ首相が'00年におきた国会占拠事件の首謀者達に恩赦を与えようとしたことで、かねてから政府と対立関係にあった軍が起したらしい。(特別な日に食べるロボ料理と教会内部)

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 ツアーは「フィジアンの村で文化交流」で、公用語である英語研修と文化交流を兼ねたプログラムであった。現地ではフィジー語やヒンディ語も使われるという。サナサナ村は教会を核に形成されている風で、「フィジータイム」とよばれるユックリした時間が流れていた。島々で何度か飲まされた「カバの儀式」を終え、来訪者の頬には仲間になった印のパウダーがつけられ、メケという伝統的な踊りを見せてもらった。Peace_boat_1167_1 男達はメラネシア特有の黒い肌に更に隈どりのメイクをして踊り一段と勇壮であった。歌は何れもきれいにハモッていてかねての教会での修養を思わせた。

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 最後は「お宅訪問」と「皆で踊ろう」であった。こちらは教師1人と生徒4~5人のグループで集会場の周りのお宅を訪問し、生活の様子を見せてもらいながら日々の様子など双方で紹介しあったPeace_boat_1196_1。食堂にはイスやテーブルがあったか?居間には休息用のイスはあったが他には家具らしいものは見当たらない。仕切りの少ない部屋はカーテンで仕切ってあったような。その後再度集合しみーんなで輪になって日本の盆踊りを楽しんだのだが、こんなサナサナ村にもクーデターの影響が及ぶのだろうか? 

 

 

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91)赤道・日付変更線越

2006年12月10日 | ピースボート世界一周

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 今回の旅行に向け一枚の世界地図を求めた。地図にはいつも見るように薄く縦横に経・緯線が引かれている。西回りに出かけた世界一周の旅は4回の赤道横断(セイロン島入国前、ケニア出国後、ペルー入国前、パプアニューギニア出国後)と、時差調整の繰り返しだった。赤道横断が日中だと船は汽笛をボーッと鳴らして通過中であることを乗客に伝えた。(Bed Sideに掲示しておいた地図に、日付変更線と航路を記入)

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 経線は赤道を中心に北と南に90度づつ2分されている。何故「赤道」というのか?英語やスペイン語では春秋、昼夜が平分と言う語源から「イクエイター」というらしい。日本語の語源には赤色を示す言葉はなく中国からの借用で、中国では赤には大陽の意味があり、「太陽の行く道」と言うのが由来のようだ。

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 緯線はグリニッチ天文台を起点に東西180度づつに刻まれており、太平洋上の緯度180度を日付変更線と定めている。今回の旅は3ケ月がかりで1日の清算が必要だった。数日おきに1時間づつの時差調整をし、11月30日の時差発生で12月1日は辛うじて1時間存在できることになった。(My Roomは約4.5畳位か。左ドアを開けると洗面、シャワー、トイレのユニット。中央は一段目を引き出し板を渡すと机に)

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 こんな面白い記念すべき日をBoatの連中が放っておく筈はない。案の定かなり前からプロジェクトが組まれ「失われた1日を求めて!スーパーダッシュ12・1」と題して、1日の流れを1時間に凝縮したプログラムを作り超寸劇にして演じた。観衆にとってこんな時差解消は先ず体験しえず、内容も愉快で好評、好企画だった(いつも生真面目にレジメに沿って上陸説明会をする某女史が、自分の故郷に乗客を上陸させる可笑しいストーリーをニコリともせず遣り通し大受けだった)

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