玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

木霊すら打ち返さざり夏山は

2011年08月11日 | ねったぼのつぶやき

 タイトルは、兄が敗戦後30年もの間作戦任務解除の命令を受けることができないまま、自らの救出作戦すらも陥落を図る作戦だとして闘い続けている弟に向け、ジャングルに向かって呼びかけている様を、彼等の老父が詠んだものである。あの救出劇をTVで目の当たりにしてから37年が過ぎた。「わが回想のルバング島」は、救出15年後、残地諜報活動記録と、救出の発端となった鈴木紀夫氏(86年雪男発見のためヒマラヤ行きで雪崩に会い死去)を始めとして、多大な労力を惜しまなかった日・比関係者、ルバング島民に対して改めてお詫びと感謝が綴られている。

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 当時52才だった彼は6ケ月後には、日本の騒ぎをよそに次兄在住のブラジルに移住された。ブラジルでの生活も丁度37年になり、日本での生活より長い事になる。長らく日・ブラジル間を往来し、青・少年達を育む活動をされていたが、最近いかにお暮らしか? かって100余日にわたる船旅の途上、恐らく乗船客達が残していったと思われる小さな図書館で、「わがブラジル人生」だったか開拓にまつわる本と、夫人の著した本を借りた。その時は「この上、何もここまで苦労することもなからろうに」と思ったものだ。

 私達は3・11後余りにも多くを失い、長らく呆然自失の状態を引きずっている。被害は未だ途上にありどこまで、いつまで続くか計り知れない。全てが未だに茫洋としている。そんな折ツラツラ背表紙を見遣りながら手にしたのがこの一冊だった。全ては任務遂行の為神経を研ぎ澄ましていたゲリラ戦の日々から、いきなり遭遇せざるを得なかった帰国と歓呼の渦。自決用の短刀を母親に返し、「花の山 歓呼の木霊帰り来る」と詠んだ老父母を振り切ってのブラジル行きは、困惑の最中になされた熟慮した末の決断だったのではなかろうか。

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