玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*ホテルオークラ

2013年10月24日 | 捨て猫の独り言

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 鹿児島在住の叔父が第65回保健文化賞に選ばれた。第一生命が剰余金の一部を割いて厚生省、朝日新聞、NHKの支援を得て、保健衛生施策向上のために設定した賞だという。今回は全国から9団体、個人5人が選ばれた。叔父は「鹿児島県の離島・へき地における精神医療に従事するとともに、無料健康相談の提供など精神科医療福祉の発展に貢献している」として個人の受賞である。鹿児島県ではこれまでに7団体、3個人が受賞しているという。

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 贈呈式はホテルオークラ東京で行われるという。東京在住で自由な身の私は贈呈式に出ようと考えた。まず主催者側事務局に受賞者の親戚のものだが参加は可能か尋ねてみた。午後5時からの贈呈式の30分前に集ると受賞者に会えるという。若い担当者は贈呈式後の祝賀会に受付は設けないとつけ加えた。当日はだれでも自由に参加できるような気分になっていた。そこで鹿児島の叔父の家に贈呈式に参加予定であることを連絡した。

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 私が都心に出かけることはめずらしい。いい機会なので早めに家を出てホテルの界隈を散策することにした。初めての駅である地下鉄南北線の六本木一丁目駅で降りた。ほかにも銀座線の虎ノ門駅と日比谷線の神谷町駅からいずれも徒歩10分以内とある。地下鉄と言えば、私は東京の地下鉄の全体像を思いえがくことはあきらめてしまっている。この日はホテルが丘の斜面に建てられていることを新たに認識することになった。フロントは5階にあったのである。ホテル界隈はここから江戸の町が見渡せたということで「江戸見坂」など坂道が多い。

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 ホテルは霊南坂を挟んで西隣りはアメリカ大使館である。また汐見坂を挟んで北隣りの大蔵省印刷局は、かつて入試問題印刷依頼のため訪れたことがある。そこから見えていたのはホテル1階で駐車場部分だったのである。そこから対角に霊南坂の方向に大倉集古館や5階のフロントがあることを知った。時間どおりにホテルに入ると大方の参加者はすでに着席していた。受付で自分の氏名が墨で書かれて朱も鮮やかな名札を胸につけてもらった。予想と違って厳粛な雰囲気にたじろいだ。叔父が事前に同伴者として私を登録してくれたのだと悟った。受賞者は翌日の午後から皇居に出向き拝喝と皇居内参観が予定されているという。名誉なことである。

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柳田孝子ソプラノコンサート

2013年10月23日 | ねったぼのつぶやき

  一年がかりで準備された「柳田孝子ソプラノコンサート」が、27日鹿児島の枕崎市で開催される。このコンサートはトロント在住の私の旧友が、同じくトロント在住で日本人ソプラノ歌手の歌を日本でも聞いてほしいと発案し、たまたま同期である枕崎市長が市の文化事業として取り組んでくれ実現した。郷里を後にして50年経ち、枕崎・鹿児島界隈にチケットを確実にさばける知人も・・少い。何の手伝いもできない私はせめてと思い、8月アトランタ滞在中に、飛行機の往復キップをツレアイを通して発注してもらっていた。

026 折も折、台風26号は伊豆大島に大きな爪痕を残して去ったばかりなのに、新たに27号が発生し28号さえ芽生えてダブルで襲来の恐れもあるという。一週間前には土石流に飲み込まれた人の多さに心を痛めていたが、今度は我身が不運に見舞われそう。不運といってもその度合いは非較にならない位・・軽微であるが。予約便をキャンセルして早めに出立するか。いっそ新幹線に切り替えてみるか。そんな訳で、朝に夕にTVの気象情報を固唾をのんで見つめ思案を巡らせている。

 さて当の「柳田孝子ソプラノコンサート」にいつも世話になっている兄嫁のみを誘ったが、兄貴も行くという。彼は商売人で善良なお人好し。友達に売れない流行歌手がいて、チケットの売りさばきに苦労していたから同等に考えたのだろうか。兎も角枕崎までソプラノを聴きに行くというのだから、彼にとっては画期的なことである。発起人である旧友が言うには、とても素敵な地で素適なコンサートホールらしい。コンサート後には懇親会が催され参加予定だ。「日本を代表するソプラノ歌手佐藤しのぶさんと共に留学した」という柳田さんに接するだけでなく、この種の経験のない私には、相互にどんな会話が交わされるのか楽しみだ。

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久しぶりに芝を刈る

2013年10月18日 | ねったぼのつぶやき

 時間に追われるような用事はさほどないのに、最近少々家事がおろそかになっている。いつもなら鍋一杯煮物など作り、近所の若い子持ちの奥さん2人に差し入れしているのだが、それもこの所滞っている。低木の枝が不揃いになって目立っていたのでハサミを入れたものの、芝の中に自生する雑草は、伸びた芝に隠れて目立たないのをいい事に放置していた。

012 伊豆大島に甚大な被害をもたらした台風。連日TV・紙上で現地の様子が報道されている。土石流と化した山肌はえぐられ、山林は物みななぎ倒して下流を襲った。土石流に埋まった肉親の救出を待つ親族の心労はいかばかりか。多摩地区では眠っている内に通過したというのに。台風一過の庭に降り立ち、良くよく見ると芝表面に浮き立つ雑草がやけに目立つ。ハンディタイプの小型の芝刈り機を出して芝を刈った。

 庭作業をする時はいつもそうだが、脈絡もなくアレコレと思いは錯綜する。今米国の「債務不履行」の懸念が世界中の耳目を集め、先延ばしながら一応の決着を見た。過日娘の交際相手氏が、オバマ政権の方針に異を唱えていたな~。「小さな政府でいいのだと」。例えば移民に寛大でそこからの税収は少なく、出費の増大を強いられるばかりだと。(教育分野に於ける出費だけでも膨大らしい)。銃を法的に撤廃したら違法者の前では丸裸ではないかと。国民皆保険・銃規制など、日本では当然の事だが、娘の通訳で聞く彼の反論も成程と頷けるのだった。遠来の私に娘以上の気遣いをしてくれた彼が、娘達を変わらず守ってくれるよう願っている。

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*徒然草の碁

2013年10月17日 | 捨て猫の独り言

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 「世はさだめなきこそいみじけれ」この世は死があるからこそすばらしいのではないか。これが徒然草の到達した自然観・人間観である。兼好法師の生きたのは南北朝時代と呼ばれる未曾有の変革期である。30歳前後に出家生活に入るが俗世間と縁を切った一途な修行僧どころか、現実社会に深く関り68歳まで生きた。徒然草のどこかの段には40歳ぐらいで死にたいとあった。半僧半俗の立場からの恋愛、酒、勝負事など幅ひろい分野にわたる評論は現在の私にも興味深い。

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 小林秀雄は徒然草40段の「栗だけ食べて米を食べようとしない娘」を引用して、作者はどんなに沢山なことを言わずに我慢したかと書いた。兼好は取り上げた話についてあれこれ論評しないで読者に考えさせている。小林の「我慢したか」と言うのは兼好のこのスタイルのことだろうか。どの話を採り上げるかについては作者の意図が働く。この40段については私が考えたことはつぎの通りだ。栗は当時は高価なものだったろう。こんな娘を許さない親の行動は当然のことだ。

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 兼好はなかなかの碁打ちだったのではないか。何度も碁に関連した話題が書かれている。「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり」手元が留守になればそこから総崩れになる。相手よりもまず自分を正し守れ。つぎの段では一転して「囲碁・双六好みて明かし暮らす人は、四重(淫戒、盗戒、殺人戒、妄語戒)五逆にもまされる悪事」と勝負事にふける人に手きびしい。徒然草の魅力の一つだが、問題はいつも多元的にとらえられている。

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 何ごとかを成就しようと思えばその外のことは断念してその一つのことだけに精励すべきである。たとえば「碁を打つ人、一手もいたずらにせず、人に先立ちて、小を捨て大に就くが如し。三つの石を捨てて十の石に就くは易し。十の石を捨てて十一の石に就くは難し」とある。また「つたなき人の碁打つことばかりにさとく、賢き人のこの芸に愚かなるを見て」バカにしたりしてはいかんよというくだりがある。自分の専門のことを、人が知らないのを見て、自分がまさっていると思うようなのは、大きなまちがいであろう。(写真は国営昭和記念公園にて)

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*10月2日と3日

2013年10月08日 | 捨て猫の独り言

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 式年遷宮の年である。2日の午後には安倍首相をはじめとして閣僚が「遷御の儀」に参列した。打ち揃って参道を神妙な面持ちで歩く写真を見て、なにやらおかしく、なにやら情けない気分になった。政治と宗教の分離という原則に抵触しないのか。最近では首相の正月の伊勢参りは定着して年中行事の初詣なのだと違和感もない。しかし今回の「遷御の儀」の参拝を私的というのは無理があるのではないか。

 靖国神社問題は気分の重くなる話題だ。中国や韓国などがA級戦犯が合祀されて「侵略戦争を正当化する」として首相の公式参拝に反発している。一方で私人には信教の自由があるのだから「私的参拝」なら問題ないという逃げ道が考えられた。首相の公式参拝が内外から問題視されないようにする手だてはないのか。

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 その方策として、これまで検討されてきたのが、A級戦犯の分祀と、無宗教の国立追悼施設の建設だ。政教分離の原則がある以上靖国神社の意向に反して、政府が分祀を強制することは不可能だ。分祀構想は立ち消えになった。ここでは政教分離が都合よく使われている。自民党内には「靖国神社が形骸化する」として新施設の建設に反対論が根強く提言は宙に浮いたままである。

 3日にはアメリカのケリー国務長官とヘーゲル国防長官の二人がアメリカの閣僚として初めて千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れ、献花を行った。このことを私は翌日の夕方に民放のラジオで知った。これを各紙がどのように扱っているか興味をもち、図書館で4日付の新聞を調べてみた。予想に反してS紙が一面の中央に献花の写真を2枚も載せている。しかし「関係強化のために献花」とあるのは、なんだか見当違いの解説と私は感じた。A紙は2面で扱い、写真入りで「同床異夢」の見出しがついていた。大きく取り上げていたのは、この2紙だけだった。(写真は蕎麦に蝶と蜻蛉)

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もうすっかり秋の気配

2013年10月04日 | ねったぼのつぶやき

 今日から2ケ月ぶりに体育館のジムでエアロビクス教室が再開された。8月は自己都合で不参加だったが、9月は国体のバレーボール会場に充てられ、それを機にジム室の機器も最新式に入替の為閉鎖されていたのだ。ジムの外周に設置された新しい機器は、いずれも相当ごつく物々しい様相を呈していた。いずれも重量の負荷が可能な形式になっており、エアロビクスのない日に、一つづつトライする必要がありそうだ。

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  私のエアロビクス歴はかなり長い。それは現役の頃から持続していて、毎年ゴールデンウイークになると我家にやってきていた母に「仕事で忙しくしているのに、その上未だ運動をせんといかんかねぇ」と言われたものだ。それゆえある程度の運動しないと体に不調を来す。自宅で一人で行えるのはストレッチである。米国の娘宅でも、疲れると日夜呼吸法を取り入れたストレッチをやり、心身の緊張をほぐして自分の健康管理をした。それでも体重はかなり減少したのだが、戻しつつあるとはいえマダマダ不足している。

  帰国してそろそろ一月が過ぎた。私の不在中に、近燐ではベビーの誕生と末期がんの入院という変化が起きていた。時に新生児の泣声が柔らかく聞こえる。がんの方はほぼ同年代であるだけに何とも痛ましく思う。義母様を最後まで自宅で介護され、それから解放されて2年もたったろうか。奥様も病院通いでお疲れのご様子である。「トイレの便座を高くして使い易くしたの」と言いつつ、「連れ帰っても辛そうにしているのを看るのも辛くて」・・と。昨日の散歩では、利用者さん達と真夏の日差しを背に受けた。明けて今日はもうすっかり秋の気配である。

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*徒然草に謎

2013年10月03日 | 捨て猫の独り言

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 図書館の新刊コーナーで「徒然草」に出会った。趣のある装丁の本で思わず手がのびた。よく見るとタイトルに「一日で読める」と小さい文字が添えられている。著者は予備校の古文講師である。近頃まるで読書しなくなったという反省もあり、これを読んでみようかと借りてきた。

 第一部(58話)と第二部に分けて全242段の現代語訳である。売れっ子の講師らしく第一部にはチェックやトークショウやコラムなど親しみやすく読めるような工夫がなされている。これまで私は徒然草を読んだことはない。私はこの本の第一部を2日かけて読んだ。この本には小林秀雄の短い評論「徒然草」も紹介されている。本棚から小林の評論を取りだしてきて、2冊ならべて読むことにした。

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 75段の「つれづれわぶる人は いかなる心ならむ。まぎるる方なく、ただひとりあるのみこそよけれ」を引用して小林は書いている。兼好にとって徒然とは「まぎるる方なくひとりある」幸福ならびに不幸を言うのである。「つれづれわぶる人」は徒然を知らない。兼好は徒然なるままに徒然草を書いたのであって、徒然わぶるままに書いたのではないのだから、書いたところで彼の心が紛れたわけではない。紛れるどころか、眼が冴えかえって、いよいよ物が見え過ぎ、物が解りすぎる辛さを「怪しうこそ物狂ほしけれ」と言ったのである。

 40段全文は「因幡の国に、何の入道とかやいふ者の娘容(かたち)美(よ)しと聞きて、人あまた言ひわたりけれども、この娘、唯栗のみ食ひて、更に米の類を食はざりければ、かかる異様な者、人に見ゆべきにあらずとて、親、許さざりけり」である。小林は「この段は珍談ではない。徒然なる心がどんなに沢山の事を感じ、どんなに沢山な事を言わずに我慢したか」と評論を結んでいる。私に残った謎とはこの40段のことである。兼好はこのエピソードで何を言いたかったのであろうか。小林は何を了解したというのだろうか。(写真は国営昭和記念公園にて)

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