玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

62)船上生活は太る?

2006年08月31日 | ピースボート世界一周

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 真偽の程は知らないが、5kgは太ると噂されていた。事実それ以上の人もいて、同じクラスメートの女性は「困ったよ~。帰ったら先ずはダイエットだよ~」と言っていた。私も運動量の目安を知りたくて、万歩計を購入していた。3x6cmサイズのそれは小型ながら時間、歩数、消費カロリー、前日のデーターなど追跡できた。(ラジオ体操企画者とタヒチ島下船直前)

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 乗船後の揺れが収まるとすぐ、ウォーキング○○協会のT氏が自主企画としてウォーキングを立ち上げ、程なく別の同室者3人によるラジオ体操、続いて太極拳と早朝の3大メニューが揃った。いずれも甲板、デッキを使って行ったが、当初の頃は参加者が多く早足で歩くウォーキングでは、横並びに歩かれると追い越せない事もあった。その内途中参加や、棄権もあってメンバーはほぼ固定化し、動きやすくなった。(船内新聞とボトル持参で早足)

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 5時30分から始まるウォーキングに参加するためには、遅くとも5時20分には起き出さなければならない。先ずはストレッチ、デッキでの小回り、甲板での回周ヘと移る。額には汗が滲み出し、首に巻いたタオル、給水用のボトルの出番だ。ラジオ体操はテープを使用。参加者が一番多かったので隣り合わせのデッキも使った。太極拳はスローモーションの動作。揺れに慣れて来つつあったとはいえ、1本足でスローに体重移動させるのは結構難しい。いずれも中高年の参加者が多かったが、若者もいたのは嬉しかった。結局この70分で8000歩位になった。(サアーッ・皆でラジオ体操ーッ)

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 12時30~13時まで「Let’s ボクササイズ」もあった。このコースはいつ始まったか不明だが、気づいて以降連日参加した。ビデオ画面を見ながらボクサータイプのアメリカの黒人男性がやっている動きを真似て、体、筋肉全体を力強く動かす。早朝のメニューに比べるとこちらは運動量も多く汗だくだった。圧倒的に若い女性が多かったが、今は亡きkumarさんも時間の許す限り参加していた。シャワーを浴びて摂る昼食はいつも爽快だった。1日に時間にして100分。歩数は10000歩は優に超えたので万歩計は早々に外した。

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 そんな訳で結果的には3kg減となってしまった。普段から運動は好んでいるほうなので、運動量の割には食欲の方が進まなかったといったほうが正確かと思う。Peace_boat_1236 日課として朝70分も屋外にいると日の出は拝めるけれど、日焼けはモロなのだ。5時20分ヤットコ起き出す身には日焼け対策の余裕など全くなかった。ボクササイズのほうは室内。椅子を寄せ、戻す面倒はあったが日焼けの心配は皆無で・ホッ。(正面が画像。企画者の掛け声でもっとスピーディにーッ、力を入れてーッ、蹴り上げてーッ)

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白河院の自転車

2006年08月30日 | 捨て猫の独り言

_043  岐阜駅でお勧めの店を発見した。一階の美濃味匠である。好きなものを皿にとって重さで値段がつく。従業員は全て女性だ。さて岐阜からは在来線で京都に出た。そこから5番の岩倉行きのバスに乗る。烏丸、四条、河原町、三条通りと折れて、平安神宮の大鳥居をくぐり動物園の壁に沿って二条通りの法勝寺町で降りると目の前は白河院の玄関だ。私学共済の直営の宿泊施設である。京都市名勝指定の白河院の庭園は宿泊客の目を楽しませてくれる。私はこのような施設利用は那須、葉山についでこれで三度目である。

 食事の申し込み方が失敗だったことを知る。どうしますと聞かれて高価なものを予約した。値段の違いは品数の違いだった。食べ過ぎて苦しくなるほどだった。見栄を張ってはいけない。大いに反省である。夕食時に英国人の夫婦が私達と同じようにゆかた姿で食事をしている。途中から座椅子を注文し畳に足を投げ出していた。なす田楽、もずくなどを残していた。彼らの質問はこれが日本人の日常の献立なのかということだった。

 翌朝5時半に目がさめた。散歩に出ようとして片隅の自転車に気づいた。さっそく借用することにした。まず南禅寺である。巨大な山門の下では犬を連れた人たちが談笑している。早朝ならではの風景である。境内の端をレンガ作りの琵琶湖疏水が横切っている。アーチの上まで登って速い流れにしばらく見入っていた。つぎは地下鉄蹴上駅だ。旧東海道を山科からの旅人は蹴上を通る。蹴上から京都の屋根並みが見えはじめると心躍らせながら粟田神社へと駆け下り三条大橋へと急ぐのだ。蹴上では琵琶湖疏水を利用した日本最初の発電所や船を台車に乗せ電力で傾斜を上り下りする水運ルートのインクラインが見られる。最後は神宮道を三条から少し南に行くと青蓮院だ。親鸞聖人が得度したときに植えたと伝えられる樹齢八百年のくすのきの大木が外の通路まで枝を広げていた。

 10時前に手荷物を宿舎に預けて出かけた。哲学の道の起点である若王子までは近い。そこから銀閣寺までの1.8キロメートルを歩いた。汗がすぐ噴出し行き交う人もまばらだ。途中立ち寄った法然院でほっと一息し清浄な気持ちになる。初めてこの寺を訪れることを悔やんだ。京都駅ビルで昼食の後に南へ向かう新幹線に乗ることにした。驚いたことに巨大な駅ビル空間をエスカレーターが斜めにぐいぐいと最上階に延びている。駅ビルは外枠を保ちながら斜めに切り裂かれて空洞ができている。外気に開かれた斜めの層にもエスカレーターや階段があり暑さの中を人々が行き交っている。ここは一年を通して連日にぎわっているのだろう。写真は南禅寺にて。

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長良川の岸辺で

2006年08月29日 | 捨て猫の独り言

_001_2  そこは岐阜駅から車で10分である。長良川にかかる金華橋の近くにある14階建てのマンションのことだ。この辺りでその高さは際立っている。8月下旬のある日、高校の同窓生が示し合わせてこのマンションの最上階の部屋に続々と集まった。三重と大阪から各1人、東京からは女性1人を含む3人で総勢5名である。大勢の宿泊を受け入れたご夫妻の寛大なお心に感謝した。

 これまで高層階で暮らした経験のない私にとってまる一日ここで過ごした時間は新鮮だった。部屋は最上階の端にあり3方向の壁面にはそれぞれ窓がある。だからここからは殆んどの方角を見渡すことができる。すこし身を乗り出すと金華山の山頂に1956年に復興された岐阜城を小さく見ることができる。翌朝私はその岐阜城の天守からの眺望を楽しんでいる。その時このマンションをすぐ見つけることができた。

 高いところから夜景を眺めていると、無数の灯りの下でそれぞれの生活が営まれているのだという感慨が湧く。外向きでのびやかな気分になることができる。ここでは毎夜それが可能なのだ。この日は絶えず強い流れの風が吹き込んできていた。鈴虫を飼っているという。虫の音の風流なもてなしが嬉しい。鈴虫は毎年のことなのか聞くのを忘れた。

 陽が落ちて全員で鵜飼の見学に出かけた。鵜飼は5月11日から10月15日まで毎晩のように開催されている。宮内庁式部職である長良川の鵜匠は6人で代々世襲だそうだ。拡声器からは雅楽が流れ、燃えさかるかがり火に鵜匠の手縄さばきや鵜が鮎を捕らえる様子を見る。クライマックスは鵜船6隻が一斉に鮎を浅瀬に追い込む 「総がらみ」 である。終わると鵜船は観覧船と異なり私達が見学していた方の岸に着けた。仕事を終えた鵜匠たちに話しかけることができた。鵜の活動について半信半疑であった私達も捕獲された鮎を確認して改めて伝統の芸に脱帽した。暑い暑いと言われる岐阜で涼しくゆったり過ごした。今回参加できなかった同窓の皆さんに対して多少のうしろめたさを感じつつご報告申し上げる。写真は14階から金華山を望む。

 

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61)船内医療アラカルト

2006年08月28日 | ピースボート世界一周

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 診療室は5階にあって、自室へ往来するさい日に何度となく傍らを通り抜けた。営業時間は9・30~11・30と14~16時になっていて、ドアーは開かれていたが中は覗けない。待合室はドアの前にあってたまに1~2人は見かけたが閑散としていて、それはそれで良い事であった。(珍しいものや安いものが多かった青空市場)

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 船会社の幹部(殆んどがヨーロッパ系)と共に船医として紹介されたのは、日本人でイギリス在住のDrであった。ナースは2人(キャップなしの白衣)見かけたようだったが自分がお世話にならなかったから不明。船内ではDrならではの講座も催されていたが、私は他のメニューの方に興味を持つ事が多かったので、内容については之もまた不明。(老紳士)

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 船会社の職員は別に(時間をずらし)食事を摂るルールがあったが、Drは毎度乗客である皆と歓談しながら食事する事を好んでいた。ダンスもまた然りであった。ダンス場は愛好家達の独占場様を呈するようになって程なく私の足も遠のいてしまったのだが、それでも私が顔を出した限りにおいては見えていた。さすがに外国仕込みと思えるマナーで相手を誘い、教えて下さっていた。(寄港地で、対岸に緩やかに沈んだ夕陽)

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 私の見聞した医療問題では、いずれも日本から一番遠いペルー・チリ界隈で、体調を崩した老婦人を下船させ家族へ引取りを依頼した例と、同室者も同様に勧告されたが「頑張りとおしました」と本人自身が表明した老婦人。腕の骨折を現地の病院でギブス固定した御婦人。歯痛をこらえ通し寄港先で抜歯した紳士。チリを真夜中に出航したものの、病人発生で乗客が就寝中にチリまで引き返した旨のアナウンスが朝食のお知らせと共にあった。(早朝の太極拳、時差調整で暗い時もあった)

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 後日談になるがギブス固定された御婦人は帰国後X線の結果、手術下での固定を奨められ手術をしたと試写会の席で本人から伺った。その他気になる事例もあるにはあったが知りようもない。(自主企画によるバイオリン独奏会 全くの独学だという)

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 時は自己管理、自己責任の時代に入った。金融機関にいれば金が貯まる訳ではない。金融の知識が付くだけだ。病院の職員であっても病院が健康を守ってくれる訳ではない。検査の機会が多いだけだ。長い船旅では初歩的な診療以外は、どう判断すべきかDrはジャッジを必要とされる程度なのだろう。現地では時間、言葉、医療環境の問題などあるので、帰国後の対応が大事。気になることがあったら何はさておき先ずは病院に行く事だろうか。ー線はクリックで関連記事へ飛ぶ。

 

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本屋さん

2006年08月27日 | 捨て猫の独り言

 JR中央線の国分寺から西武国分寺線に乗り換えて恋ヶ窪の次が鷹の台である。鷹の台駅は車一台やっと通ることができる狭い道路に囲れ、ロータリーがなくバスの発着はない。発展性の乏しい小じんまりとした駅だ。武蔵野美術大、津田塾大、白梅女子短大、朝鮮大そして白梅女子中高、創価小中高とかなりの数の学生がこの駅を利用する。駅名は鷹の台で住居表示はたかの台であり混乱することがある。駅のすぐ近くの玉川上水緑道は学生の通学路であり、また多くの市民に人気の遊歩道である。緑道に向かう途中に松明堂書店がある。間口が狭いのでうっかりすると見落としてしまう。

 昔からある本屋さんだ。私より年輩の店主を一度だけ居酒屋でお見かけした。本屋を閉めてよくこの店に来て飲むんだろうなという印象だった。真偽のほどは分からない。店主は松本清張の息子さんである。店名に松の一文字を入れたのだ。本揃えが機を見るに敏である。見透かされたかと思いつつ買って帰ることもあった。地上2階建ての鉄筋コンクリートでその地下にはギャラリーがある。

 松明堂ギャラリーは5または12日間単位の展覧会や、1日単位のイベント(音楽会、講演会、映画会、朗読会)に使用される。最近のスケジュール案内を見ると、武蔵野美術大卒業生の個展などで年末までの予定はびっしり埋まっている。一例をあげてみる。9・16~9・27は友川カズキ新作展。1950年秋田県生まれ。フォーク歌手にして画家。昨年松明堂での個展好評につき今年も開催とある。使用料は12日間は24万円である。入場は無料だ。

 ここから4つ目の駅に西武新宿線新所沢駅がある。松明堂はその駅の近くのマンションの地階に音楽ホールを新設して事業を拡大した。私はまだ一度も出向いたことはない。ここは入場料4千円ぐらいで著名な演奏家のコンサートなどが開かれるようだ。たかの台地区には本屋さんが松明堂の他に2軒ほどあった。雑誌を中心に一人で切り盛りして細々とやっていた。しかしいずれも廃業した。特色ある松明堂には勝てなかったようだ。不思議なことに最近になって古くからある古本屋のそのすぐ近くに小さな古本屋が出来た。現在この界隈には松明堂書店と2軒の古本屋がある。

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60)世界・天気・災害

2006年08月22日 | ピースボート世界一周

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 9月3日台風の予報が出されている最中横浜港を出航した。乗船早々の不慣れと、台風による横波を受けて船酔い続出で迂回路をとらざるを得ず、ベトナム寄港を逃した事は最初に触れた。航海中や寄港先の天候ばかりではなく、日本での台風や、パキスタンの地震の被害、南米でのハリケーン情報など気を揉むことも多かった。(スポーツデッキは広くはないが、ネットの外から応援できる。「風に吹かれて早朝テニス」に始まって終日使われていた)

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 日本の台風の被害状況は、数日おきに掲示されるニュースで知った。たった3ヶ月前には2000万人もの人命を奪ったスマトラ沖地震を、TVを通して目の当たりにし、その津波がインド洋にまで波及したことも記憶している。当時スリランカに滞在していた英語教師のニックや、滞在経験のある外国人教師2人から経験談をインド洋航行中に聴いた。人為のなせる業の少なさがかくも大きな被害に繋がった無念さを思わずにはおれない。(右・挙手がニック。下船目近、役目を終えてリラックス気分が出ている。男性総勢丸刈りにしたのは記念撮影のため?)

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 10月に入ってパキスタンで地震発生。道路の決壊により現地(山岳部)への救援物資の搬入も困難と知った。boat上でも募金活動が行われ、NPOとして支援に関るとのことであった。他にも寄港地の支援に向けて現地の物産の販売や募金活動が行われた。(ランチに多用したバイキング形式の食堂。デッキに連なり海の風、匂い、眺め、お喋りを楽しむ)

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 またキューバ上陸前は大型ハリケーン「ウイルマ」情報に悩まされた。海図掲示板エリアにハリケーン情報が掲示されたり、上陸説明会でツアー内容に変更が生じるかもしれないと案内された。航行は安定していたけが、着いてみたら「数日前までこの辺まで水浸しだった」と壁面のシミを教えられた。農園の方でも日本から客があるというので復旧作業を急いだという。

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 帰港する12月16日までの104日はやはり長い。帰宅用の冬服以外にも予告されていた情報に基ずいて衣服の支度をしていた。概ね準備に怠りはなかったが、海流の影響で南米の太平洋岸の船上は寒さが続いた。余りの寒さ続きに、寄港先でセーターを求める人も多かった。天気、災害は人や土地を選ばない。ただ開発のやり方、予測情報の精度、人間の知恵によって被害状況には差異が出よう。だが結果に対しては等しく救援されたい。(窓越しに見える海洋は群青色をなし深さを思わせた。寒流の影響で寒かった)

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59)Candleデモに参加す

2006年08月20日 | ピースボート世界一周

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 衆人注目の中でついに小泉さんの靖国参拝は挙行された。私も世の中の動向に何時になく強い関心を持った事もあって、予想はしつつも注視していた。そんな中メル友の中継によりPeace・Boat事務局の要請に応えて、キャンドル・デモに参加した。(パナマ運河沿いに走っている運河鉄道・車窓より)

 キャドル・デモのねらいは、「YASUKUNI NO」の人文字をキャンドルで作り新聞の一面(?)に載せることであった。どうせ参加するなら昼間からと思い、着いたのが14時。日中は強い陽射しの中でかって本で読んでいた戦争当時の残酷な写真の立て看板をまざまざと見せ付けられた。他に歌やダンスの交歓会や、合祀や靖国参拝反対の演説・国際戦犯法廷で述べた原告(ご本人)の主張が主であった。この時間帯は関係者や台湾、韓国を主とするゲストが多く、夜の集まり具合が懸念された。

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 日が沈み風を感じる頃になって人出は増えてきた。知人に会えるかと思ったが1000人近い人の中では探せない。それでも中継してくださった知人のグループには会え、ご一緒させてもらった。受付時払った参加費500円の券と引き換えに、紙コップに差し込んだキャンドルを2本ずつ貰い、指定されたテープに従って線上に並ぶ。合図を待って近くの人のライターで点火してもらい、一回練習し本番に備えた。舞台の傍の液晶画面にキャンドルの人文字が映し出された。(キューバの墓地)

 上空にはヘリコプターが取材のため舞っている。公園の余分な明りは消された。マイクの指示に従って再度点火し、両手を高く掲げ「YASUKUNI NO!」のシュプレヒコールを繰り返した。そして翌朝、朝刊を取り目にしたのは実にささやかで、300字にも満たない文字と小さな写真の画面であった。翌日の毎日新聞は以下の通り。http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20060815k0000m040078000c.html

 そして更に驚かされた事は、電話によるアンケートでは参拝賛成が若干が多く、若い年代程高かったことであった。正確な歴史教育の欠如が如実に表われた数字ではなかろうか。ー線はクリックで関連記事へ飛ぶ。

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小石が存在した時間

2006年08月18日 | 捨て猫の独り言

 家の門柱はつぎのようにできている。厚さ2cmの黒っぽい細長い石の組み合わせの層があり、その上にセメントの層という具合に交互に積み上げられている。高さは大人の胸ぐらいだ。30段ほどの横縞模様の門柱である。門柱のデザインについて私は関知していない。いつの頃からか門柱の上には、砂浜や渓谷の小石やシーサー(沖縄の焼き物の唐獅子像)が無造作に置かれ、門柱の根元の草陰には帆立やサザエなどの貝殻が雨ざらしになって置かれている。私には岩石や鉱物に執着する癖がある。旅先の砂浜や渓谷から常に小石を拾って持ち帰る。食べ物と違って小石のおみやげはいつまでも残る。

 高知県の桂浜には五色砂と呼ばれるつやつやとして色鮮やかな小石がころがっている。形はいろいろ、大きいもので親指ほどである。持ち帰った70個ほどの小石が透明なプラスチックの小箱に入って私の机の上にある。その傍には中国の桂林あたりで買った直径5cmほどの大理石の球が紙の小箱に2個納まっている。手のひらで転がす健康増進器具である。奄美の加計呂麻島の入江から持ち帰ったのは赤褐色をした厚さ2cm強の平坦な形の石だ。これは文鎮としても使える。

 動物や植物は養殖したり、栽培したりして新しく作りだせる。しかし鉱物や岩石は人力で作りだせず、一度掘ってしまったらそれっきりである。ソ連邦で買った記念品の一つは素朴な木枠で囲れているたて20cmよこ15cm銅板の浮き彫りだ。室内で絵を描く子供とそれを眺めるもう2人の子供という図柄だ。あと一つは銀白色で高さ15cmぐらいの金属製のドストエフスキーの胸像だ。二つとも原材料は鉱石でしかも安価なものだ。

 岩石は火成岩、堆積岩、変成岩に大別される。小石をこの3つに分類することさえも私たちにとって困難なことだ。しかし当然のことながらすべての小石にはそれぞれに名がある。目に触れるありとあらゆるものに名をつけることを学問というのだろうか。地球が誕生したのは46億年前、化石として残るような生物が発生したのが約6億年前だ。このように言い切るところが凄い。小石が存在した時間にくらべると人の一生なんてまさしく一瞬である。3ケ月の船旅に出た人の、私への土産は南太平洋のイースター島で手に入れたという2つのものだ。一つは濃緑色をした比重の大きい小石。これは拾ったものという。もう一つは堂々とした豹紋があるつややかな子安貝であった。両手でやっと包み込めるほどの立派な大きさだ。これは土産店で貰ったものという。私はそれで十分満足だった。

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58)星のベレー帽ゲバラ

2006年08月16日 | ピースボート世界一周

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 キューバといえばカストロ議長。カストロと共に連想されるのはかっての同士「チェ・ゲバラ」であろう。「チェ」は相手に呼びかける渾名であるらしく、それ程民衆と共にいた事を示していよう。(目隠しで3回転し一つ星印をつけるゲーム:リーブシーの誕生会で)

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 そう遠くない日「モーターサイクル・ダイアリーズ」の映画を自宅のTVで見た。医学生ゲバラが友人とバイクの2人乗りで南米を放浪する旅だった。裕福な家庭に育ったゲバラは、この放浪生活で見聞を広める内にマルクス主義革命を志すようになっていった。(ゲバラの顔写真のTシャツを着るベルギーの人情家デリクと、私の担任である英国人リーブシー=彼はビーガンで後述予定)

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 1953年、6年を要する学部を3年で卒業したものの、メキシコに渡ったゲバラは亡命中であったカストロと同一行動をとることを決めた。1959年紆余曲折の末、キューバ革命は勝利した。(軍に関する記念日に当たっていて、海岸から海に花束を投入)

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 政治家となったゲバラの活躍は目覚しく工業大臣として訪日もし、日本の労働者の勤勉さに感服したとの記録も残されていた。政権下にあって威力を発揮しつつも、秘かに酸素吸入を続けながら、自らに農作業を課すという姿勢は変わらなかった。(街全体が世界遺産。スペインの植民地時代に造られた建造物や旧式の車を大事に使っていた)

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 政権の座についたカストロは、現実的な路線を踏まざるを得ず、革命家を志すゲバラとは次第に距離ができていった。ゲバラは再び革命の指導者としてコンゴ、南米ボリビアと渡り、1967年遂に米CIAより訓練を受けた兵により狙撃され39歳で没した。Peace_boat_642 「少佐の階級章一つ星をつけたベレー帽を被るゲバラ」は観光産業の目玉として利用されているが、私にはカストロ以上にキューバを象徴していると思える。(ゲバラを偲ぶ石碑と広場前で国旗と共に掲げられている壁像)

 

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57)南米を語る伊高氏

2006年08月14日 | ピースボート世界一周

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 元共同通信社のラテンアメリカ特派員であった伊高浩昭氏が、キューバの歴史、チェ・ゲバラ、チリ出身であるノーベル賞詩人パブロネルーダの愛と詩、ジャーナリスト希望者集まれ等の講座をもった。(伊高氏と右舷側で・テーブルと椅子が常設され、何時でも、誰でも、何でも使えグループの作業所、溜まり場になっていた)

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 少年の頃より文章を書くのが好きで、ジャーナリストを志し大学は新聞学科に進んだ。ラジオやTVでラテンの音楽、文化、歴史、芸術にも打ち込んだ。第2外国語で仕事が決まると思いスペイン語を選択した。以来ラ米やスペインとの付き合いは40年に及ぶと自己紹介した。(港の近くの街並み)

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 さて、キューバの歴史は1492年スペインの植民地になってから始まった?これまでも海賊による略奪や、焼き討ちを受けていた。そこでスペインは要塞化を進めてハバナを要塞都市とした。それらは今も美しさも兼ね備えた建築芸術として、コロニアル様式の建築物と共に保存されており、1982年には世界遺産に登録された。(歴史を偲ばせる要塞)

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 「チリよ。お前が黙っているときが好きだ。お前がいないみたいだからだ。チリよ。お前が眠っているときが好きだ。お前が遠くにいるみたいだからだ。チリよ。お前が遠くにいるときが好きだ。お前が心の中にいるからだ」とネルーダの肉声による録音も紹介された。言葉は解らないがくぐもった声ながら、流れるように静かになだらかに聴衆の耳に迫って来た。(館から海の方向を見下ろす)

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 チリの寄港地では彼が住んでいたその館を訪ねた。海から山あいに向かってかなり急峻な坂をバスで上り詰めると、湾と平行している比較的平坦な丘にたどり着く。丘からは街や湾が眼下に望め、係留してある船舟の先には果てない大平洋が広がっていた。アクロポリスの丘から見渡したギリシアの街並みは白一色に近かったがこちらはカラフルだ。設計を趣味とする私にとってその館全体は大いに見応えがあったが、詳細はイズレ又としよう。(ネルーダ家のリビングから撮影)

 

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