30歳台の頃に日本の現代詩人たちに興味を持ち愛読した時期があった。たとえば黒田三郎、石垣りん、谷川俊太郎、茨木のり子、清岡卓行などである。いつのまにやらそれらの詩人たちの本を手にすることはほとんどなくなっている。いまでは私の関心はむしろ短歌の方に移ったようだ。つい最近のこと、知人からメールで「難解駅名」というリストが届いた。読めるかどうかお楽しみくださいとのことである。
一部だがそのリストのJRの駅を列島の北から南に見ていくことにする。五能線の風合瀬(かそせ)艫作(へなし)、山形県にある左沢線の左沢(あてらざわ)、奥羽本線の及位(のぞき)、飯田線の為栗(してぐり)大嵐(おおぞれ)、北陸本線の石動(いするぎ)動橋(いぶりはし)、片町線の放出(はなてん)、山陰本線の温泉津(ゆのつ)特牛(こっとい)、肥薩線の大畑(おこば)というぐあいである。
これらの駅名はよほどの鉄道ファンか、またはその土地を訪れたことのある者にしか読めないものばかりだと思う。この地名の羅列をながめながら、ある詩の一部を思い起こした。ところが詩の作者が誰であったかを思い出せない。そこで手当たりしだいに本棚を探すと、まもなくその懐かしい詩に再会することができた。その「地名論」という詩の作者は大岡信だった。その詩の中で「名前は土地に 波動をあたえる 土地の名前はたぶん 光でできている」というフレーズに魅せられた記憶がある。めずらしく余裕もユーモアもある馴染みやすい詩だと思う。私たちは各駅停車の旅において、車窓につぎからつぎに見えてくる駅名には感興を覚えるだろう。それに通底している詩ではないだろうか。
「水道管はうたえよ お茶の水は流れて 鵠沼に溜まり 荻窪に落ち 奥入瀬で輝け サッポロ バルパライソ トンブクトゥーは 耳の中で 雨垂れのように延びつづけよ 奇体にも懐かしい名前をもった すべての土地の精霊よ 時間の列柱となって おれを包んでくれ おお見知らぬ土地を限りなく 数えあげることは どうして人をこのように 音楽の房でいっぱいにするのか 燃えあがるカーテンの上で 煙が風に 形をあたえるように 名前は土地に 波動をあたえる 土地の名前はたぶん 光でできている 外国なまりがベニスといえば しらみの混じったベットの下で 暗い水が囁くだけだが おおヴェネーツィア 故郷を離れた赤毛の娘が 叫べばみよ 広場の石に光が溢れ 風は鳩を受胎する おお それみよ 瀬田の唐橋 雪駄のからかさ 東京は いつも 曇り」