玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*暮に思う

2014年12月29日 | 捨て猫の独り言

 調べてみると29日の東京の日の出は6:50で、日の入りは16:36である。22日の冬至よりそれぞれ3分と4分ずつ、ともに遅くなっている。つまり1分だけ昼が長くなった。日の入りが遅くなるのはなにか得した気分になる。季節はゆっくりと転回している。ちなみに元旦の日の出は29日と同じ6:50で、日の入りは16:38である。

 家を建て替えた時から20年も使い続けている湯沸かし器がある。冬になると途中で水になったり、最初からお湯が出なかったりと具合が悪くなることがある。風呂の時にいつもハラハラしなければならない。それだけにお湯が出ている時の幸福感は大きい。買い替えの時期なのだが決定的な事態にならずにここ何年かやり過ごしてきている。

 1月の中旬に2泊3日のパック旅行に出る予定だ。私にとって初めての沖縄の離島への旅だ。八重山諸島の石垣島に2泊して西表(いりおもて)島と竹富島に船で渡る。羽田から石垣島へ直行便も飛んでいるが、今回は那覇で乗り換える便だ。八重山諸島は無人島もふくめて大小19の島群で、沖縄本島からさらに約430㎞南西にある。

 11月の沖縄県の知事選挙の結果に私は勇気づけられた。「私たちウチナーンチュはもうこれ以上基地を挟んで左右に分かれる必要はない」と訴えた翁長氏の勝利は沖縄の新しい時代の幕開けだ。その後の日本政府の対応は予想通りで危機感に乏しい。「本土から上から目線でいろいろ言われようとめげずに《私たちが正しいんだ》と主張していきたい」と話す翁長氏である。私はそこに理想のリーダーの姿を見る思いだ。

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*手帳

2014年12月25日 | 捨て猫の独り言

 黒い表紙の能率手帳を捨てきれずにいる。95年から愛用してきたものが20冊にもなった。市販のものではなく近畿ツーリストが営業で配布しているものだ。完全退職して5年が経つが年末には立川にある営業所で分けてもらう。あらかじめ電話をすると手帳の在庫管理を始めたが、これまでお使いでしたのならどうぞと言われた。受付の女性が笑顔で渡してくれるのだがちょっぴり気がひける。20年も使わせてもらっていると申し訳する。

 これまでに何年か日記をつけたことがあったが、それらはだいぶ前にすべて処分した。手のひらサイズの手帳だけは残った。現役時代の月間予定表には例年通りの仕事上の予定が埋まる。主要なページである日々の欄は空白が多い。メモ欄は読書のあとの抜き書きが多い。手帳には自分の想いなどを書き記す訳でなく、事実の記録だけだから残せるのだろう。別冊の住所録を自分史年表に作り変えて毎年差し替える。0歳から100歳までの年齢早見表には家族が生まれたそれぞれの年にマークを入れる。(写真は日展会場にて)

 

 残っている中で最も古い95年の手帳を開いてみた。月間予定表の3月17日の欄には「阪神大震災」の記入がある。地下鉄サリン事件が起きた3月20日の欄には「引っ越し」とあるだけだ。この年の前年に連れ合いが病に倒れたにもかかわらず、前々からの計画通りに自宅の建て替えを進めることになった。取り壊しのために仮住まいに引っ越す日だった。レンタカーのことなどが断片的な記憶としてよみがえる。ある日の欄に広島市長の平岡敬氏の名とその言葉が記されていた。「平岡敬」の記憶は全くないのでこれを機会に調べてみたい。

 今年の手帳を開いてみる。月間予定表に耳、眼、内を丸印で囲っている記号は通院予定だ。71歳で8月に他界した闘病中の元同僚に月に一度の割合で電話をした日の記録がある。今年の始めの私の愛読書は「耳鳴り・難聴を治す本」だった。その本にあった「酢タマネギ」「黒ゴマ酒」のレシピ、「片鼻呼吸」「耳もみ」「爪もみ」の体操について記されているが、いつの間にかそれらとは縁遠くなっている。市の健康センターで覚えた具だくさんのみそ汁で「朝は和食」をめざしたが、早々とパン食に戻った。夕食時の飲酒は続く。身体に良いことは習慣になりにくい。

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*12・19のこと

2014年12月22日 | 捨て猫の独り言

 アトランタの二人の孫娘のもとに小包が届いた。そのことを瞬時に届くスカイプの映像で見とどけた。600グラム未満の小包料金は配達保証付きで1680円だった。贈ったのは「観覧車」という名の木製のミユージックボックス(オルゴール)で小さな小さな観覧車がメロディに合わせて回転する仕掛けだ。曲は「虹の彼方へ」である。かつて江利チエミも歌っていたという記憶がある。それに本ツゲの「ヘアブラシ」と「櫛」を包んで送った。

 デパートの売り場でクルクル回る観覧車が目にとまり決めた。曲については、あとで調べて映画「オズの魔法使い」の主題歌であることなどを知った。「虹の向こう側のどこか高い空の上に いつか子守唄で聞いた国がある」で始まり「私にだってできないことはない!」で終わる。結果的にまあまあの選曲になったようだ。そして櫛はともかく、タッチのやわらかいヘアブラシだから長い髪の二人は愛用してくれるだろう。(写真は日展会場にて)

 

 さて19日(金)は囲碁の天元戦の最終戦だった。挑戦者の高尾九段が勝って井山九段からタイトルを奪取した。おなじ週の16日(火)は王座戦の最終戦だった。平成元年生まれの井山九段は平成2年生まれの村川七段に敗れて王座のタイトルを失った。井山九段が王座と天元を失い四冠に後退したのは予想外だった。二冠の高尾九段のブログ「たかお日記」のカテゴリーには「馬」「習字」「野球(ロッテ)」がある。

 来年3月の北陸新幹線の金沢延伸により、かせぎ頭の特急「はくたか」を廃止に追い込まれたのは第三セクターの北越急行である。「はくたか」の名は新幹線に引き継がれる。新幹線に対抗して「超快速」を走らせると発表していたが、その具体的ダイヤが19日に発表された。戦いの区間は東京駅と新潟県第3位の人口を持つ上越市にある直江津駅との間である。ネット上で見つけたこの記事には越後湯沢回りの超快速の「スノーラビット」が、みごと長野回りの新幹線「はくたか」に一矢報いることに成功とある。

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*地銀再編

2014年12月18日 | 捨て猫の独り言

 大気が乾燥して手指がかさかさ荒れる季節になった。寝る前に乳液で手の手入れをするようになったのは昨年の冬ぐらいからだ。それまでは乳液の世話になることはなかった。雪深い地方の人たちでも冬になると乾燥肌に悩まされることがあるだろうか。あらためて手の指を眺めると指紋は限りなく薄くなり関節と関節の間には縦皺が目立つ。手の甲をみると指の爪には縦線が走っている。

  都市銀行は1990年代から再編が進行し現在は4グループに集約された。これからは地方銀行の再編が進むだろうと言われている。来年の10月に肥後銀行と鹿児島銀行が経営統合する予定だという。この知らせで私の胸が騒いだ。というのも我家ではだいぶ以前から鹿児島銀行の一枚カレンダーを居間に掲げ続けてきた経緯があるからだ。鹿児島県内の各地の風景が毎年一か所だけ採用されて作成されるカレンダーである。今年は奄美の大島海峡あたりの風景だった。来年のカレンダーではどの場所か採用されるのか楽しみにしていた。(写真は美大生の作品)

 

 統合されるとなると、果して従来通りのカレンダーが発行されるかどうか気がもめる。そこで少し調べてみた。一つの例として2007年に福岡銀行と親和銀行(佐世保市)と熊本銀行が経営統合し「ふくおかフィナンシャルグループ」が結成され熊本銀行はその傘下に入る。看板はこれまで通り熊本銀行であるようだ。ここまで調べて少し安心した。今回の経営統合で社名未定とあるのは○○フィナンシャルグループまたは○○ホールディングスのような名称が未定であり鹿児島銀行の看板はこれまで通りということだろう。

 これまでの統合は経営が悪化した地銀の救済色が多かったのに対し、肥後銀行と鹿銀は隣県の有力行同士の統合といわれている。銀行の本業は貸し出しによって利益を得るのだから、地域の発展に貢献しながら収益を上げる事業モデルを作れるかどうかだという。おそらく鹿銀の一枚カレンダーはこれまで通り発行されるだろうと私は期待している。肥後銀行のカレンダーがどのようなものか知らないが、鹿銀の方から肥後銀行にそちらも熊本県内の各地の風景シリーズではどうかと提案してみてはどうだろう。 

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*良寛禅師奇話

2014年12月15日 | 捨て猫の独り言

 庭にある二本のうちの一本の松の木に異変が起きていた。葉が褐色に変わりその葉がしきりと地表に落ちる。これは初めての現象で今年の夏ごろに始まった。まえまえから予約していた先週の金曜日に植木屋さんに前年の葉全部と今年の葉半分ぐらいを摘み取る作業をしてもらった。すっきりとなった松の木だが、やはり先端が褐色になった葉が残っている。樹勢を強めるしかないというアドバイスだ。さっそく化成肥料を買いに行き根っこの周りに施した。

 「良寛禅師奇話」という本が残されている。その中で私が興味を覚えた「金を拾う話」と「囲碁の話」を取り上げる。「金を拾うことは大変うれしいことです」とある人が師に言った。師は自分で金を捨てて試しに拾ってみた。ところがさっぱりうれしくないので「あの人は私をだましたのではないか」と疑った。何回も繰り返し拾っていたら本当になくなってしまった。師は驚いてあらゆる手段を尽くしてようやく見つけた。

 

 ほっとすると同時にうれしくなった良寛さんの言葉でこの話は終わるのだが、良寛さんの言葉を想像してみて欲しい。教訓でもない風刺でもない何とも言えないとぼけた話だ。本当に見聞したことなのかどうか、作者の創作ではないのか。それに比べて、つぎの囲碁の話は本当のことだろうと私には思える。良寛さんは碁に負けると顔色が変わり、いかにもつまらなそうにブスッとする。

 ある庄屋さんがときどき招いては楽しんでいたが、ある日なぜか良寛さんが勝ちまくる。それだけならよかったが、おまけに天狗の鼻を高くしたからさあ大変。怒った庄屋さんに出入り禁止にされてしまった。間に立ってくれた人がいて数日後には仲直りしたが、それまではひどくふさいで、お経ひとつ上げなかった。聖にもあらず俗にもあらずとの評価がある良寛さん、その正体は私にとってますます謎である。(写真は日展会場にて)

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*良寛

2014年12月11日 | 捨て猫の独り言

 良寛に魅せられた人々という、ある雑誌記事に川端康成が登場していた。ノーベル文学賞受賞記念講演「美しい日本の私」の中で道元や明恵の歌と共に良寛の歌を紹介している。「形見とて何残すらむ春は花 夏ほととぎす秋はもみじ葉」のほか四首である。記念講演といえば大江健三郎の「あいまいな日本の私」がある。大江はなぜ川畑を否定せねばならなかったのか。

 良寛の書の熱烈なファンを自認した白州正子は「天上大風」について、「この書に接する時、私たちは心身ともに軽くなって、虚空に遊ぶような心地になる。いつしか良寛の書は消えてなくなり、ただ良寛の魂にふれる想いがするのである」と感想を述べている。小林秀雄が訪ねてきた歌人の吉野秀雄に良寛さんの書幅を見せたところ「これは贋物だね」というので小林は「ああそうですか」とその場で掛け軸を破ったという。

 

 

 良寛を正岡子規に紹介したのは新潟出身の歌人である会津八一である。それまで越後の人々に愛され尊敬されてはいたが、地方的な名声しか持たなかった良寛が「日本の良寛」となったのは八一が根岸の里に子規を訪ねてからだろう。八一の自称の弟子にして、良寛研究者としても知られる吉野秀雄が、小林秀雄が手に入れた良寛の書をたやすく贋物と診断したのもうなずける。

 彫刻家平櫛田中は万葉集を読みふける良寛「ある日の良寛」や、ざくろを手にする「良寛とざくろ」など良寛像の制作を好み気品に満ちた良寛像を作り上げた。平櫛田彫刻美術館は我家から徒歩25分だ。NHK短歌にゲスト出演した将棋の羽生善治は好きな歌に良寛の「この里に手まりつきつつ子供らと遊ぶ春日はくれずともよし」をとり上げていた。良寛は子供の純真な心こそが誠の仏の心と解釈していた。アトランタの二人に初めてクリスマスプレゼントを郵送した。

 

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*大雪

2014年12月08日 | 捨て猫の独り言

 ビワの蜜を吸うメジロ、エゴの実を食べるヤマガラ、イヌシデの種子を食べるカワラヒワ、柿の実を食べるシジュウカラの小鳥たちの食事中の4枚の写真がオープンギャラリーに並んでいる。鈴木さんの大雪の挨拶は「12月7日は二十四節気の大雪で、木枯らしが吹く本格的な冬を迎えます。玉川上水の黄葉もイエローからイエローオーカーへと変化していよいよ落葉が舞う季節になりました」と始まっていた。

 テレビ・ラジオ・新聞報道などの中で最も生活に役立っているものは気象情報だろう。NHKラジオの「あさいちばん」に登場する気象予報士の「伊藤みゆき」さんを以前から注目していた。具体的なアドバイスや季節の情景描写などをもりこんだ気象情報を流暢に話す。今朝は別人のような声で「雪や寒さで大変な人がいらっしゃる中ガラガラ声で大切な気象情報をちゃんと届けられなくてゴメンナサイ」だった。(写真は日展会場にて)

 

 NHK総合テレビ18:53からの気象情報(首都圏)を担当する「平井信行」くんも私の馴染みだ。国家資格である気象予報士の制度は1994年にできた。気象庁以外の者が予報業務ができるようになったことで始まる。平井くんは1994年の第一回試験の合格者だ。お天気キャスターでは忘れることのできない人がいる。今や90歳ぐらいになられている「倉嶋厚」氏だ。氏は気象庁を定年退職後にNHKに招聘され、素朴な語り口で人気を集めた。

 NHKラジオ毎週日曜「あさいちばん」午前5時33分の「季節のいのち」を聞くのも楽しみの一つだ。日本野鳥の会の主席研究員の「安西英明」さんが解説し、質問に答える。今月は「ロシアからの旅人」と題して昨日の第一回は「ツグミ」だった。玉川上水オープンギャラリーと重なる部分が多い。日本野鳥の会では生物多様性を脅かさない自然エネルギー(風力発電所)の注意喚起もなされている。

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*都心の紅葉

2014年12月04日 | 捨て猫の独り言

 昨日の3日はすばらしい秋晴れになった。空は雲一つなく青く澄みわたり、暖かい日が射していた。訳もなく「北京秋天」という四文字が浮んだ。だいぶ前に北京に旅した時にガイドブックで覚えたのだろうか。梅原龍三郎に「北京秋天」というのがあるという。やや気になることがあって調べてみた。この天は空のことではなく「秋の日」つまり秋というほどの意味らしい。

 昨日はランチバイキング付き日帰りバスツアーに参加した。「皇居・乾通りの秋の一般公開&東京2大名庭園の紅葉めぐり」というイベントだ。玉川上水の辺りに住んで、都心に出かけることはあまりない。中でも皇居周辺の地理には暗い。今回で皇居前広場や皇居東御苑や北の丸公園のおおよその地理が分るようになった。(写真は左から坂下門、東御苑の梅林坂、六義園)

 

 丸の内ビル前に集合し内堀通りから右におり返し、皇居前広場を坂下門まで長い列が続く。手荷物検査とボディチエックがあった。坂下門から乾門までの約750mのコースは一方通行に規制され、立ち止まらないでと宮内庁職員が繰返し呼びかける。中にはロープの向こうから解説してくれる職員もいて和ませられた。私たちはコースを直進せずに途中三分の二ぐらいの地点にある西詰橋から東御苑に抜けた。

 東御苑は1968年から一般公開されている。入場無料で入苑者が多すぎると入苑を中止することがあるという。そういえば私たちが北詰門から退出した時に、門衛さんがせわしなくカウンターを押し続けていた。その後は浜離宮恩賜庭園と六(りく)義園を回った。六義園のモミジの紅葉には圧倒されたが、乾通りの紅葉は普段は見ることができない場所というだけのことだった。報道によると天皇と皇后は昨日から広島を視察中という。

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*自費出版

2014年12月01日 | 捨て猫の独り言

 週に一度の公民館の囲碁会の時に、年輩の会員の方から「日めくり・囲碁将棋 珠玉の言葉」と題した手のひらサイズの小冊子を頂いた。あとがきに「囲碁を始めて約50年。その楽しさ、面白さ、奥深さ、難しさにはまり込んでいる。囲碁というゲームそのもの、勝負の世界、勝敗の機微、プロ棋士の考え方、その生き方等知りたいことが多い。これは将棋についても全く同じである。過ぎし日々、これらについて目についた新聞、雑誌、書物などから切り抜き、メモし、集めたものが相当量になった。あるものは目からウロコであり、あるものは干天の恵雨ともなった。そこで今回、自分なりに感じ入り、影響を受けたものを、日めくり式に31件まとめてみた」とある。

 全会員に配られたその小冊子は字体は大きくて読みやすく、青が薄められ緑みの明るい青(ホライズンブルー)の表紙の色が優しい。その「8」には「死活の研究は一番面白い。そして分りやすい。活きか死か劫か、この三通りしかなく、答えがはっきりしている。それでいて難しい。妙手を発見しなければならないからだ」とある。囲碁のルールである「劫」の位置づけを私はようやく理解し始めたところだ。「活きか死か劫か、この三通り」という箇所がとても腑に落ちる。人は「生死」だが碁石は「活(いき)か死」のようだ。その「10」は私の愛読するシリーズ本「碁の教科書」の著者・石倉昇の「攻めの5カ条」だった。

 その「15」に思わず微苦笑である。『大勝負師 大山康晴は違った。「誤るだろう」の願望ではなく「人間は必ず誤る」の確信を持っていた。だから形勢不利になっても平然としていた。相手方は、大山の冷たい視線を感じ、自滅した』とある。その「18」は、かつて週2日ほど1日2局の割でネット碁を打っていたという井山の師匠である石井邦生九段の言葉だ。「井山に20連敗を喫したのである。私がどんなにいい碁を打っても負かされてしまう。逆にいうと、井山はどんなに形勢が悪くなってもあわてない。1点ずつ返すような打ち方でじりじり差をつめる。そしてこちらがあせり出すと、勝負手を放つ。逆転力に驚かされたのはしばしばだった」とある。(写真は日展会場にて)

  この機会に本棚に埋もれている私が頂いた自費出版本の3冊を手にしてみた。いずれも文芸誌サイズで300ページほどの分厚さである。新しいものから記すと「欅並木から」と題して中高の英語科教師H氏が退職の記念に全教職員に配布したもの、これは03年に出版されている。「くしきの六期二十四年」は叔父が串木野市長を退職して7年後、そして没する2年前の02年に出版されている。『「自由」と歴史教育』は病をおして教壇に立ち続けた中高の日本史教師N氏の論文集である。遺族がN氏の没後3年目である1995年の命日に上梓したもので、丁寧な挨拶状と共に自宅に郵送されてきた。私が大いに影響を受けた先輩教師の一人だ。その本の中の「アメリカの対日文化政策」「秩父事件」「竹橋事件」などの論考を今後きちんと読むべきだと思った。

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