玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

加計呂麻(かけろま)島

2005年02月27日 | 捨て猫の独り言
6年前の春、はじめて加計呂麻島を訪れた。錦港湾で桜島に渡るフェリーがあるが、それの10倍以上の大きさのフェリー「なみのうえ」は鹿児島港を18時に出港し、早朝5時に名瀬港に入港、その後は鹿児島を出てまる一日たった19時近くに那覇港に入港する。私が下船した名瀬の町は闇の中に静まり返っていた。この町で私は小学6年生の1学期まで過ごした。あれから40年余りの時が流れている。

始発バスで奄美本島の南にある古仁屋に向かう。サンゴが群生し、ダイビングファンに人気の大島海峡を20分ほどフェリーで渡ると加計呂麻に着く。渡連にある民宿「来来夏(ココナツ)ハウス」の、だだっ広い部屋に一人で2泊した。

2日めは、宿の軽トラックを借りて島を一周することにした。安脚場(あんきゃば)の海軍砲台跡、「男はつらいよ寅次郎紅の花」(シリーズ最後の作品)で有名になったが、毎年6月には真っ赤な花をつけるというデイゴの並木がある諸鈍(しょどん)、島尾敏雄「出発は遂に訪れず」の舞台である呑之浦(のみのうら)、源為朝伝説の実久(さねく)海岸などを見て回る。島は何も無いのが魅力というが戸惑うほど見所が多い。

島は離島苦(島ちゃび)という言葉があるように、経済的に恵まれない。

島は閉じた一つの宇宙だ。拡散しない。時には、けだるくなるほどゆったりと時間が流れる。私にとって、奄美・沖縄(琉球文化圏)は、終生特別な場所であり続ける。一軒の家を一月ほど借りて島でのんびり過ごすことを夢想している。できれば暖かい時期で、それも毎年がいい。夜の潮風にのって、三味線(奄美)またはサンシン(沖縄)の音が遠くからかすかに聞こえ、黒糖酒(奄美)または泡盛(沖縄)に酔う。まだ訪れたことのない島は多く存在し、私を待っている。いつの日かいざ。

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そろそろ帰ってきておくれ

2005年02月24日 | ねったぼのつぶやき
 「もう一杯稼いだでしょうが。もうよかが。そろそろ帰ってこんね」

最後の1年余を病院や施設で過ごさざるを得なかった母が、看病に帰省する度に私に繰り返し言った言葉である。
「あと1年頑張って、そうしたら東京と鹿児島を行きかえりできるから」新しい分野の事業を軌道に乗せ、成果をあげることに懸命であった私にとって、定年までにしなければならない段取りが色々あった。

 85歳の母は、元来とても元気で毎年ゴールデンウイークに合わせて、倒れるその年の86歳まで我が家に来ていた。飛行機嫌いだったから、いつも新幹線を一人で乗り継いで来ていた。この年になってパスポートをとるなんてと、喜んで香港旅行に出かけたのは、香港が中国へ返還される前年であった。このときも若い人たちと同じ旅程を何の苦もなくこなした。83歳で大腸癌の手術をし、看病人の私の言いつけに従って1回のトイレの世話をしてもらう事もなく、1週間後には差し入れの新聞を読むまでになった。

 86歳で軽い脳梗塞を起こし、軽いマヒはでたものの杖歩行も出来ていた。マンツーマンで対応できていたならば、結果は違っていたかもしれない。「帰りたい、なぜ帰れない、娘を呼んで」の繰り返しが始まり、老人性のうつ病との診断がつけられて、うつ病の薬がはじまった。その後、母の日常は大きく狂う。そこにストレスによる胃潰瘍で下血し、最後は脳出血により意識不明に陥った。

 母の発病以来、鹿児島との往復が始まった。
長くても1週間、短いときは4~5日。職場から直接鹿児島へ向かい、上京はいつも最終便の繰り返しが4~5回も続いたろうか。最初こそリハビリも施され、私の帰りを待ちわびていたが、回を重ねる毎に私の認知に時間を要するようになった。病院と自宅の往復は1日に数回。病院では母の懇願に応えられない自分にイラダチ、母が寝入って自宅に帰るとアチコチに大事そうに仕舞い込んであるものの整理である。食欲もわかず食べてもほんの少しのみ。ヘトヘトになって帰京する繰り返しだった。

 現在、介護に携わっている方もいらしゃることでしょう。
私たちの両親の世代は、厳しい時代を生き抜き、私たちを育てるために悪戦苦闘してきた。親の子に対する思いははかり知れないものがある。このたび自分なりにやれるだけのことはやったのだからと納得しようとしてみるのだが、親の恩の何十分の一を返せただろうかと思わずにはおれない。

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変化する病院

2005年02月19日 | 捨て猫の独り言
昨年8月に3週間ほど入院し、その後も週に一度の通院を48週続けなければならない。予防的治療で気楽なものだと言えば言えなくもない。、始めるべきか、経過観察に止めるべきか迷った。人間ドックの医師の、体力のあるうちが良いとのアドバイスに従う破目になった。

私の通い始めた、武蔵野赤十字病院(院長三宅祥三、消化器科部長泉並木)の近況報告をしたい。いろいろと前向きに前向きにの変化をみせてくれているからだ。診療録(カルテ)開示は、2000年4月から実施とあった。

私の入院中から話題に出ていたのは、元旦からの院内全面禁煙である。院内とは建物内は当然のこと、ロータリーや駐車場等屋外を含めた全域を指す。玄関入り口の最後の砦の喫煙室は、いまは物置小屋状態で人の出入りはなく、ひっそりとしている。今後何に変わるか不明だ。05年12月主治医以外の医師に相談する「セカンドオピニオン」の体制が整備された。現在の病状に対する診断や治療方針について、担当医師以外の(主に他の医療機関)医師に客観的な意見や判断を求めることだ。今後の運用面での展開が気になるが、その心意気や良しだろう。

もっと具体的な変化がある。プライバシー保護の観点からということで、可能な部署では、待合から中待合への呼び出しのマイクでの放送が、肉声に変わった。どれだけのプライバシー保護になっているのやら気になるところだが、病院が静かになった。採血場所を「処置センター」という。これまでは、部屋の5人分の採血台で衆目の監視の下で採血が手際よく行われて何の疑問も持たなかった。先日採血台がカーテンで囲われ6番にどうぞなどと呼び込んでいる。部屋が狭く感じられる。採血場面を隠しているのだ。なんとその1週間後にも変化があった、これまで素手で作業していた採血者が一人一人に対して使い捨て手袋を採血のたびに取り替えているのだ。これには、そこまでやるのかと驚いた。これまでのことは何だったんだろう。半年のうちにこれだけの変化を目撃した。

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自給自足も可能

2005年02月17日 | 捨て猫の独り言
土いじりは最も原初的な遊びの一つではなかろうか。

ところが土に親しむことは、誰にでもその才能と、チャンスが与えられているわけではなさそうだ。若い頃に九州から、首都圏に公務員として就職した私より2歳年下の男がいる。その男は、週末になると、耕すべき200坪の畑があった。自宅の近くにみかん農家があり、その農家の休耕田を、無期限で、無償で借り受けて「自分の畑」が誕生したのだ。

この奇妙な契約について、彼の人柄を知る人ならば誰でも、「あり得ることだ」と言うに違いない。畑に出かけるときは、ほとんど一人で出かける。畑仕事をやるのは、家では自分だけだと、おだやかに笑って話していた。

白菜、たまねぎ、長ネギ、里芋、やまのいもなどの生産はお手のものである。頭陀袋にたくさんの野菜をつめこんで、年に2回ほど私どもに届けてくれる。畑の見学をしたことがある。畑の隅に丸太で組んだ頑丈な小屋が建てられていた。さて、やまのいもには、いくつか種類があって、その中の一つ「長いも」を掘り出す作業は、細心の注意と根気を必要とするらしい。日ごろは何事についても愚痴などこぼさない彼が、「あなたにも、この作業をやらせてみたいよ」と持参した長いもを前に話したことがある。よくよくのことなのだろう。

年に一度だけ、みかんの収穫に労働力を提供することで、農家との関係は維持され、彼の畑仕事は今後とも続く。土に親しむ感性に拍手をおくる。先日届けて頂いた里芋は、ほっくりしていて美味しかった。ありがとう。車で2時間半は、少し遠い。もっと近くであればよかった。

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いっこうに片付かない

2005年02月13日 | ねったぼのつぶやき
 かれこれ一週間以上も過ぎたのに未だ片付かない。
前から、退職でもして時間が出来たらいずれは手をつけたいと思っていたアルバム整理。
古いすっかり変色した10冊以上のアルバムと、空き缶にいれたバラの写真の山が目の前にある。今回の作業の主眼は、アルバムの軽量化と長男、長女、それに自分達用への分冊化である。

 さて始めたはいいけれど、途中で何度も手が止まり,なかなかはかどらない。
あれほど捨てたつもりが、思ったほど減っていなし、仕分け途中のアルバムや、整理済みのアルバムの山などで一部屋も塞がっている。
整理済みのアルバムには、古い記憶を引っ張り出して、当時の気分のコメントも新たにいれよう。それにしても手早くやってしまわないと部屋が片付かない。

 我が家の捨て猫(自称)が出かけると直ぐはじめるのだが、帰宅しても未だやっているという日々が続いている。
また時節柄、今日は入試準備、今日は採点、今日は判定会議とやたらご帰還が早い。つい「お帰り」ではなく「もう帰ってきたの」になってしまうという次第。
畳の上でやると腰を痛めるので、食卓のテーブル上で整理する。食卓上は写真、新旧のアルバム、ハサミ、ノリと大散乱している状況なのだ。

 私は夢中になってやっているのだが、捨て猫は「賽の河原の石積み作業、子供は親が思うほど喜ばないよ」と醒めている。
確かに、今ならそうかも知れない。だから今すぐ急いで渡すつもりは毛頭ない。
いずれ「ああこんな時期もあったヨナー、自分達もこんなに若かったんダヨナー」と子供達が思える頃に渡したいと思っている。

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青春18キップの人

2005年02月12日 | 捨て猫の独り言
生きていることの証(あかし)とは何だろう。

職場の先輩には、敵わないと思う人が多かった。後輩の私は、組織としての財産を食い潰しているのではないかと自信が持てなかった。悔しいが、学ぶべきことばかりだったのである。

そのうちの一人の先輩のことだ。私より10歳ほど上である。あるとき日本の鉄道のすべての路線を乗り潰すことを思い立ち、青春18キップ(普通自由席)を利用して、まず北海道からその作業にとりかかった。過程が大事なのか、結果が欲しいのかご自分でもからなくなった時もあったのではないだろうか。でも、長年かけてやりとげたらしい。

その副産物なのかどうかわからないが、こけし作りにも、精を出した。放置された原木を持ち帰り乾燥させ、最後の絵付けまで根気よかった。自宅に収容できずに、職場の同僚に引き取ってもらったりしていた。また、陶器作りにも精を出した。これまた、こけしと同様に、水準以上の作品であった。私はいまでも、頂いた湯のみを職場で愛用している。

こよなく日本酒を愛し、各地の酒蔵巡りを楽しんだ。

定年退職の年のことである。3ヶ月前から、自分の机の本を、毎日1冊ないし2冊づつ自宅に持ち帰ることにした。そして、この計画は着実に実行に移され、まさしく最後の日に彼の机は、きれいさっぱり片付いていたのである。

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思い出の曲

2005年02月07日 | 捨て猫の独り言
自分で言うのもなんだが、私には記憶する能力がまるでない。まえまえから、気づいてはいた。

たとえば、40年前、高校時代に、一緒に下宿していた友人が、夕食にはいつも春雨をまぶした、おかずが出て、隣は内科の個人病院で、窓越しに住み込みの看護婦さんをからかっていた事などを、最近語ってくれた。それでも私の記憶装置は、白紙の状態で生活のほとんどが記録されていない。消極的生活態度だけでは片付けられない記憶力のなさである。世の中には、記憶力のよい人がいるものだと、時々に思う。


たしか、バブルの絶頂の頃だった。

駅前の商店街の盆踊りのど自慢大会に、飛び入りで参加した。酒は、入ってなかった。小学生だった2人の子供のうちのどちらかを連れていた。

すさんだ大学生時代の生活のなかでの愛唱歌、アカシアの雨がやむとき、を堅気になった現在の自分をいとおしみながら、やぐらの上で思い入れたっぷりに歌った。

夏の風がここちよかった。

そのとき、2位に入り、バレーボールの賞品を頂いた。1位の人の曲目は記憶にない。

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自販機その後

2005年02月06日 | 捨て猫の独り言
我が家の門前に、突然出現した自販機のことだ。

設置のあくる日、当の奥様が、紙袋持参で我が家に報告にお見えになった。
自販機はご主人の友人の依頼で、契約した。
お宅に相談もなく、設置したことはまずかったと思うので、撤去を申し入れたが3年間を1年間に短縮することができるということである。どうぞ、1年間我慢して欲しい。夜間の照明には、できる限り配慮する。

心から、恐縮している様子に、了承せざるを得なかった。

後で、気づいたことだが、設置場所は隣の家の敷地内ではない。電柱の横、道路上なのだ。
これについては、地域で一騒ぎあるかもしれない。善良な奥様がこれ以上苦しむことにならないことを願いたい。

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