玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*沖縄への旅(最終回)

2012年12月06日 | 沖縄のこと

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 5日目は那覇市街を抜けて本島南部に向かった。空は晴れ渡り半そで姿の人を多く見かける。平和記念公園は「沖縄戦終焉の地」糸満市摩文仁の丘陵を南に望み、南東側には険しく美しい海岸線を眺望できる台地にある。公園内には「平和祈念資料館」、沖縄戦で亡くなられたすべての人の名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」、「平和祈念像」、「式典広場」などがある。最初に見学する資料館は修学旅行のシーズンとあって高校生の団体で混雑していた。じっくり見学するには2時間ぐらい欲しいのですが40分ほどの見学時間しかとれませんと付き添いの旅行社の方が説明してくれた。

 「資料館」の展示内容は充実している。展示理念が「住民の視点で捉えた沖縄戦」だという。「沖縄戦の実相を明らかにする」とある文言の中の「実相」という語句が私には新鮮に響く。アメリカ公文書館等から沖縄戦の実写フィリムを購入し、フィリムを通して次の世代に沖縄戦を伝える目的で「1フィート運動」が始まった。フィリムが1フィート=30cmにつき100円というカンパ運動のことだ。「平和の礎」の刻銘碑は海側の広場を中心に半同心円状に配置されていて、中心の通路は6月23日の「慰霊の日」の日の出の方位に合わせて設計されている。波型に配置された多くの刻銘碑の列の間には熱帯から亜熱帯にしか見られない卵型の葉をした木が植えられている。その名を「モモタマナ」といい日射しの強い時期には葉をつけ日陰を作り、冬には落葉する。

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 「ひめゆり平和祈念館」の手前の道を海側に行くと「魂魄の塔」がある。サーフィンを楽しむ若者の車が散見された。観光客はほとんど姿を見せることがない。帰京した翌々日の朝刊に「沖縄の保守が突きつける」という那覇市長の翁長雄志氏への一面ぶち抜きのインタビュー記事があった。「旧真和志村に住んでいた。今の那覇新都心ですね。戦争で村は焼け、住民は糸満市に住むように指定された。あたりは遺骨だらけ。村長とおやじが中心になって4千体くらい集めたらしい。最初は穴に埋葬していたけれど、数が多くて骨が盛り上がり、セメントで覆った。それが魂魄の塔。命名したのはおやじです」この日でレンタカーを返却し、最終日はモノレールを利用して首里城、国際通りの牧志公設市場を見学した。

 はがき大の写真4枚が送られてきた。印刷された文面に「先日はご来店ありがとうございます。早速〇〇さんからご住所お聞きしましたので、写真同封いたします。沖縄にお越しの際は、ぜひうりずんにお越しください」とある。うりずんで飲んで帰る時に店の前で4人並んで撮ってもらった写真である。このようにプリントしたものが届くとは予想してなかった。おもろ語の「うりずん」は、「うり」は潤う、「ずん」は染みとおるの意味だ。冬が終わり大地に潤いが増してくる2月から4月のことで、沖縄では梅雨に入る前の最も爽やかな季節のことである。シリーズの最後に先の翁長氏の記事に戻る。「振興策を利益誘導だというなら、お互い覚悟を決めましょうよ。沖縄に経済援助なんかいらない。税制の優遇措置もなくしてください。そのかわり基地はどかしてください。国土の面積の0.6%の沖縄で在日米軍基地の74%を引き受ける必要はさらさらない。いったい沖縄が日本に甘えているのですか。それとも日本が沖縄に甘えているのですか」

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