玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*沖縄の昔と今の話題

2020年09月10日 | 沖縄のこと

 五年ほど前に石垣島や西表島を訪れたとき、バスガイドさんから石垣市にある八重山平和祈念館の話を聞いたことがある。大戦末期に八重山諸島の住民がマラリアの無病地帯から有病地帯に避難を強いられ3600名余りが犠牲になったという。偶然にもつい最近、「戦争マラリア」についてくわしく知る機会があった。それは現地取材による「池上彰の戦争を考えるSP~感染症の悲劇~」という「テレビ東京」の番組で教えられた。

 波照間島の島民がマラリアの発生する西表島に強制疎開させられる。疎開は日本軍の命令だった。下したのは教員と名乗り波照間に来島した山下虎雄(本名・酒井清)という人物。子供たちにも慕われた顔を豹変させたのは沖縄戦が始まっていた1945年の4月のことだ。「米軍の上陸に備え疎開せよ。敵の食料になるから牛馬も殺せ」。後年わかるが、山下は陸軍中野学校出身で、離島での極秘工作を行う特務兵だった。処分した家畜は肉を燻製にして石垣島の日本軍へ送られた。

 西表島は波照間島から北の沖に肉眼で見える。その西表島に「忘勿石(わすれないし)ハテルマ シキナ」と彫られた岩が残る。そこは強制疎開先で、波照間国民学校の識名信升校長が青空教室を開いた場所。そしてマラリアでつぎつぎ児童が倒れた地。識名校長は軍部に疎開解除を訴え、帰島の際にひっそり、だが強く岩に刻み付けた。この惨禍を「けっしてわすれることなかれ」と。石垣島でも強制疎開が始まる。しかし軍が指定した避難場所は島内のマラリアが発生する山地だった。(オープンギャラリーが駐車場に、駅前の銀行を解体中)

 

 朝日新聞の土曜版「フロントランナー」を読んで、凄い奴がいるもんだと感心した。サッカー日本代表として活躍した静岡生まれの高原直泰(41歳)は、「沖縄に骨を埋める覚悟」で2016年に沖縄に居を移した。国の沖縄総合事務局から、観光、IT産業に次ぐ3本目の柱としてスポーツ産業を創出したいと誘われたのだ。J1から数えると5部にあたる九州リーグに属する「沖縄SV」のオーナー兼選手だ。沖縄の農業は耕作放棄地の増加や深刻な担い手不足。クラブとして農業に取り組み、雇用も生み出せれば直接、地域に貢献できる。コーヒーはクラブの主要事業となり、初めての収穫は2年後という。この事業が自前の収入を生み、引退後の選手の雇用先にもなる。OSVを応援しよう。

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