「消費社会」というのは現代社会を特徴づける言葉だという。生産と消費という社会の営みは昔からある。なぜことさら消費社会と呼ぶのだろうか。近代以前の社会は消費よりも生産に高い価値をおく社会だから「生産社会」といえる。やがて社会の多くの人々が消費の快楽を知ることで消費の価値が生産の価値を上回り消費社会が出現した。
初期の消費社会は大量生産によって作られた画一的な製品を大衆が受動的に受け取るパターンだった。それが、差異、多様性、選択性といった価値が重視され、好みにあった製品を生産者に能動的に要求する消費社会へと転換する。とは言うものの、主導権を握っているのは生産者の側と私などは考えたいのだが・・・。
フランスの思想家ボードリヤールの名を初めて知った。その著作「消費社会の神話と構造」は現代思想に大きな影響を与えたという。広告などの媒体、モデルチェンジなどを利用し「不必要なものを必要である」と購買意欲をそそる消費活動についてボードリヤールは消費とは「観念論的な行為」であるという。消費されるためには物は記号にならなければならない。堤清二は触発されてブランド品の向こうを張って1980年に「無印良品」を始めた。
浪費と消費は違うという。浪費は贅沢の条件である。人間が豊かに生きるためには贅沢がなければならない。消費社会では人は物ではなく観念を消費するのであるから、どこまでも満足をもたらすことはない。ボードリヤールは消費と浪費を区別することで、消費社会がもたらした「現代の疎外」について考えた。その疎外は「暇なき退屈」をもたらしている。消費は退屈を紛らわすために行われるが、同時に退屈を作り出してしまうという悪循環に落ちる。
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