玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*沖縄への旅(五)

2012年12月04日 | 沖縄のこと

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 私たちは月曜と火曜の予定を入れ替えた。糸数アブチラガマに近い平和祈念資料館を明日にまわしガマの見学後は、ただちに北上して那覇を抜けて宜野湾市の普天間基地を目指した。普天間基地に隣接する佐喜眞美術館は今日は休館日でない。美術館の屋上から真下に普天間基地を望む機会を逃したくなかった。美術館に近づくと偶然にも沖縄国際大学の道路表示を発見して急遽立ち寄ることにした。2004年8月13日14時15分ごろ普天間基地所属の大型輸送ヘリが大学1号館に墜落炎上した。その事故の現場を確認すると、そこは大惨事になってもおかしくないほどの住宅密集地だった。

 佐喜眞美術館は「原爆の図」で有名な丸木位里・俊の夫妻による「沖縄戦の図」が常設展示されている。廊下には沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した直後の生々しい白黒写真が並んでいた。なぜか敷地内には立派な亀甲墓が置かれていて人目を引いている。つぎは初日に走った58号線を北上して基地の展望ポイントとして有名な「安保の見える丘」を目指した。現在ではほとんどの人が「安保の見える丘」よりも道路を隔てたすぐ近くの「道の駅かでな」の4階の展望台を利用する。轟音を残して戦闘機が離発着をくりかえす。3階の学習展示室に印象的な展示があった。嘉手納は町の面積の83%を基地が占めるが、「基地がなかった頃の嘉手納」という展示がそれである。

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 那覇の宿は沖縄都市モノレールの「おもろまち」駅の傍にある東横イン「おもろまち駅前」の連泊だった。16世紀に首里王府によって編纂された歌集全22巻が「おもろそうし」である。「おもろ」の語源は「うむい(=思い)」だという。これが1999年に那覇新都心の地名に採用された。この地域では免税店、レンタカー営業所、博物館、美術館、ホテルなどの新しいビルが立ち並び、さらなる変貌を遂げつつある。那覇の第一夜はモノレールでひと駅の安里駅まで四人で歩いた。安里駅に近い「うりずん」で泡盛をいただくことに決めていた。マスターの土屋さんは泡盛居酒屋の草分け的存在で今年で店は40周年を迎えたという。土屋さんのことを知人に聞いていたので、たずねると入り口近くのテーブルでにこやかに客と談笑しているのが土屋さんだという。四人で飲む残波30度のボトルはたちまち空になった。

 翌日の那覇の最後の夜の食事は、泊小学校の近くの郷土料理の店「糸ぐるま」と決めていた。これも知人の紹介の中から選んだ。ホテルのロビーでプリントアウトした地図を片手に捜すことにした。タクシーを頼むほどの距離でもない。暗がりの中を少し道に迷いながらも住宅街の片隅にある目的地にたどり着いた。内装はおかみの作った首里織やご主人の作ったシーサーが飾られている。七品のコース料理を頼んだ。その中の一品の「みみがー和え」とは豚の耳の皮のピーナツ味噌和えである。「らふてー」とは泡盛をたっぷり使って弱火で長時間じっくり煮込んだ豚の角煮のことである。。島ラッキョウのサービスがあった。さすがにこの頃になると飲むことよりも、食べることの方がよくなってくる。2合を飲んで誰も泡盛の追加注文を言いださなかった。

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