あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

新橋駅から浜離宮へ

2019年02月25日 21時44分58秒 | レトロ建築
2019年2月24日のお散歩を紹介します。
小田急東京メトロパスを利用して(東京メトロが1日乗り降り自由になる)東京メトロ沿線の巨木散歩に行こう!と金曜日に用意を終えた。あとは土曜か日曜か天候のいい方に出かけよう!と計画の最終チェック中に、2019年2月24日限定で、天皇陛下在位30年記念慶祝事業で都内あちこちの動物園・水族館・美術館・博物館を始め、公園も入園料が無料なるイベントを見つけた!もうこの時点でお出かけは日曜日に確定です。
で、どうせならば巨木探訪を絡められないだろうか?と。ほとんど完成していた散歩コースを見直し、無理矢理ええ、無理矢理ですっ!当日限定無料で入れる公園で、巨木がある場所で東京メトロ沿線の場所を超特急で探した。
で、300年の松のある浜離宮恩賜公園に決定しました。チョイスポイントは開園時間が午前9時なこと。大事な事です。元々組んでいた散歩コースにプラスするんですから〜。
ダンナに「朝7時15分に出発します!」と宣言しました。
当日、小田急相模原駅発午前7時44分に乗車。銀座線で新橋駅に8時46分到着。何はともあれ、浜離宮を目指すぞ!と、意気軒昂にホームに降り立ったものの、こっからどう行けばいいんだ?ともかく2番出口を目指そう。
ふっと、駅のラックが目に飛び込んできた!もしかしたらあそこに東京メトロの駅周辺案内地図があるかもしれん!
ありました〜!!これで浜離宮に行ける!
案内地図片手に地上をてくてく歩いてると、でっかい交差点に着いた。「新橋」交差点だと思うんだが、信号に「新橋」と標識が出てない〜〜!!おっきすぎるんんじゃ!!
と、ぼやきつつ歩いてると、レトロ建物を見つけた。
これってもしや〜??
旧新橋停車場じゃん!!
実はダンナの父親は、国鉄マンでした。ダンナはあちこち親に連れられて駅を見にいってたとかなんとか。で、すんごく気になったようですが、到着したのは8時54分でして、旧新橋停車場の建物内にある資料館の開館時間は10時です。また後ででお願いしますっ!
心残りのダンナを急かすのは、予定なびっしりなだから。ええ。今日は元から計画した散歩コースに、2つ無理無理にねじ込んだんですから!
あれ??

なんか、通りに警察がいっぱい出てるのなぜかしら〜??もしやもうすぐある東京マラソンの予習とか?ともあれ、朝9時前からご苦労様です。

おおっ!見た事あるぞ!何だっけな〜?確か黒田紀章?あ、違う黒川紀章さんだ。んで、カプセルホテルじゃなくてカプセルタワービルです。

なんか、取り壊すだのなんだの、いつかニュースで見た気がするんですが、変わらずここにあったのね。

嬉しいですっ!いつまで保存してくださるかわかりませんが、もう少しこのままでいてね。

あれ?なぜに突然信号機?
あ。説明文がある。「保存理由 元この高速道路の下には汐留川が流れ、鉄橋も架かっていました。汐留駅は、わが国の鉄道開業当時における始発駅の新橋駅でしたが、大正3年(1914)東京駅が中央駅になると、ここは貨物駅になりました。大震災後、築地に東京市中央卸売市場が完成すると、汐留駅と市場間に荷物運搬のための線路がしかれ、大きな働きをしたのです。
都民の暮らしの台所を支えて来たこの信号機を、国鉄廃止にあたり捨て去られるのにしのびず、東京都中央卸売市場築地市場、東京都第一建設事務所並びに中央教育委員会、地元各位の多大なご協力に依り、ここに永久保存されることになりました。 昭和62年(1987)12月」
新橋旧停車場を一目見ておいてよかったなあ〜。
さて、気をとり直し出発です。交差点の向こうにもうお堀が見えてる〜。ワクワクするわ〜。

立派な石橋が!広いわ〜。

おおっ!門の両側の石垣が!江戸城してるわ〜!!もう本当にワクワクが止まらん〜〜。
の前に、巨木の場所です。法被を着込んだおじさんに聞いてみます。
「すみません〜。トウカエデってどこにありますか?」
実は巨木の本によりますと、浜離宮には三百年の松のほかにもう1つあるとあったのですが、場所が今ひとつわからんの。浜離宮は広いから、見つからないかも?と不安だったんだ。法被のおじさんなら知ってるハズ。

「こちらの地図で説明します。今いるのが右下の大手門で、門を抜けるとすぐ三百年の松があります。まっすぐ行って菜の花畑。南へ抜けて花木園。南下してお茶屋が。その先が潮入の池。潮入の池の西側にトウカエデが並んでます」
「おおっ!ありがとうございますっ!」
浜離宮の見どころを押さえた上で最短コースだと思われる。もう楽しみ〜〜っ!!
あ。通常は、浜離宮恩賜公園の入園料は300円です。小田急東京メトロパスを利用すると240円。しかし訪問当日は天皇陛下在位30年記念慶祝事業で、浜離宮恩賜公園の入園料は無料でした。庶民にはとっても嬉しいです。
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浴風会本館・礼拝堂

2018年12月02日 06時57分11秒 | レトロ建築
2018.11.25訪問。京王浜田山駅から一駅、高井戸駅下車。時刻はまだ1時前。こんどはすぎなみ景観ある区マップ高井戸・浜田山編でウォーキング。

環八通りを南へ。二つ目の信号、高井戸西交番前で西へ。上のゴリラ像が角の山中公園入り口にいるので、目印にしてね。で、目的地は東京都選定歴史的建造物 浴風会です。

東門に13時に到着。
目指すは本館。で、到着したはいいけど、完全逆光だった。

説明板発見:東京都選定歴史的建造物浴風会本館
浴風会本館は関東大震災後、高齢・障害のある被災者のために建てられたものである。建設当時は、この本館を中心としてほかの建物をほぼ対称に敷地全体に配置した構成となっていた。
鉄筋コンクリート造り、地下1階:地上2階一部3階建て、壁はスクラッチタイルで大きな窓がある。中央の塔が全体を象徴し、塔で垂直線を強調したデザインを用い、翼部は庇等によって水平線を表している。このデザインは、東京大学安田講堂(設計:内田祥三)と共通するもので、この時代の特徴でもある。
建築年:大正15年(1926) 設計:内田祥三(よしがず) 土岐達人(たつんど)

裏手に回ると、真っ青の空によく映えていた。





ん?何かどこかでみたことあるような??
あ!あそこだ!白金台の東京大医科学研究所附属病院にとても似てるわ〜。
画像では分かりにくのですが、本館と礼拝堂の間に中庭があって、バラがたくさん植栽されてました。名残りのバラがちらほら咲いてます。また患者さんの家族かな?いや、老人ホームの方かもしれんけど、あちこちでのんびり日向ぼっこしならが歓談してます。なんか、本館はCMやドラマのロケ地に度々使われてるそうです。
では礼拝堂を見よう。

礼拝堂の池の真っ赤に紅葉してたモミジ越しに本館を望む。光度差があって、うまく画面構成出来ませんでした。

池の鶴のオブジェは日比谷公園の雲形池の鶴に酷似してます。もしや?同じ作家さんの作品かも?知らないけども。

礼拝堂です。完全逆光です。
さて!礼拝堂の中はどないかな??

う!数段ある階段を上がってて気づいたのですが、礼拝堂はボロボロです。なんか、タイルが割れてたり、隙間があったりで危険な感じ。黄色のロープも張られてて。極め付けは礼拝堂に鍵がかかってます。
マジでぇ〜??教会とかだと、よっぽどでないと礼拝堂は開いてるものだけども?
反対側に回ってみた。

画像では分かりませんが、地下に降りていくデザイン。上の画像右下に階段がちょこっと見えてます。
どうにも入れそうにないわ〜。ってか、ここ、使われてるんだろうか?
調べた。そもそもこの礼拝堂は1927年(昭和2)竣工ですが、教会の礼拝堂ではない模様。祀ってあるのは阿弥陀如来で、仏教の礼拝堂でした。ただし仏教に限らずほかの宗派や宗教にも使えるように作られたらしい。もちろんキリスト教にも。塔も鐘楼ではなく、梵鐘があるようです。だから大晦日には除夜の鐘をつくそうで。不思議な建物ね。見たいな〜。
さて時刻は13時17分。ここからなら南門を抜けるのがショートカットできるんだけども、南門って開いてるんだろうか?

脇の小さい門が開いてました。通りはイチョウ並木が東西に延びてます。名前がついてて歴史と文化の散歩道という通りらしい。
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日本のガウディ作品マインド和亜

2018年11月26日 04時15分58秒 | レトロ建築
昨日紹介した日本のガウディこと梵寿鋼(ぼんじゅこう)さん設計のラポルタ和泉から徒歩3分、マインド和亜に到着。時刻は午前9時39分です。見えると同時に私もダンナもテンションMAXです。歩きながら撮影開始。



玄関。
玄関入ってするのオブジェ。

ピンボケしちゃったけど、玄関から見えた。右手に進むとなんと!中庭がありました。これさ、ディズニーランドにあってもすんなりなじむ不思議な建物です。

外観に戻った。上の左の方は、シャッターに描いてある絵です。馴染み過ぎてて最初は気づかなかった。

バルコニー?

まさかのコンビニが1階に入ってました。これさ、最初YAHOO!の地図で所在地検索かけた時、ビルの名前でかけても地図に名前が書いてなかったのに、不思議な赤色のマークが出てて「何だろか?このマーク??」となったのですが、まさかのデイリーヤマザキの印だったとは!!この面白建物にコンビニ!しかも周辺にお店はほぼなかったので、利用率高そうです。撮影しようとしたら、中からおっさん客が出てきてびっくり〜。

建物は通りの角にある。コーナー撮影してみた。

ちなみに裏手。逆光〜〜!!

実は上はコーナーの壁を撮影したのですが、右下にはゴミステーションで張り紙がありました。なんか、芸術作品に日常の業務連絡メモが貼り付けてあるようでシュールだ。
脇にも建物の入り口がある。外から象の足っぽいのが見えた。中を見てみたいけど、そっから先は住人のプライベート空間なので諦めた。
さて、次だ。え〜と??この先の細道を西北西に行けばいいのだよね?

すぎなみ景観ある区マップ 永福・和泉編片手に進む。マップによると、上の画像の屋敷林の角を曲がる。

大きなケヤキ?かな??鹿の子的な木肌の木が目印です。ここに9:42到着。

道なりに進んでると、下り坂が見えてきた。マジ〜〜!?この日の散歩は坂道がないところを選んだつもりなのに〜〜!!で、見えてきたのが杉並和泉学園の芝のグラウンド。手入れが大変そ〜。

そんで、次の目的地和泉熊野神社さんと龍光寺さんの林が見えた。あ、今度は上り坂か〜。ちなみに、降って登る真ん中にあったのは神田川でした。到着時刻は10:02。いいペース。
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日本のガウディが設計のラポルタ和泉見物

2018年11月25日 18時24分04秒 | レトロ建築
今日は杉並区散歩へ行ってきた。初夏に荻窪周辺散策をした時に、ゲットしたすぎなみ景観ある区マップ 永福・和泉編&高井戸・、浜田山編片手にウォーキング。まずは京王線代田橋駅下車。北口より甲州街道へ。徒歩数分で変わった建物が見えてきた。
実は以前レトロ建物の記事を投稿した時に「日本のガウディを知ってる?見た?」と書き込みをいただきまして、いつか行こう!と思ってたのです。で、永福・和泉編の地図を眺めて行き先を絞り込んでた時に、行けるんじゃね?と組み込んでしまいましたっ!では早速。
甲州街道から入るとまず目に入ったのが建物の上部の白いペガサスの彫刻です。
で、正面に回るとこれ。

下部がビルの入り口。覗いてみた。

すごい〜。

これ、普通の賃貸マンションですよ?信じられんわ〜。でも「FOR RENT」って書いてあったから間違いないと思うよ。

ちなみに、北側(甲州街道の反対側)の外観はこちら。

正面のくねる女性を中から見ると、ステンドガラスがありました。ピンぼけ画像でごめんなさい。
9時36分、ラポルタ和泉を後に。北西に進みます。
大きな木が入り口の遊び場96番。ここを過ぎて数分の9時39分、次の目的地マインド和亜に到着です。

これまた同じ方の設計です。ってか、ラポルタ和泉の建築途中にマインドのオーナーさんが「作って!」お願いして出来たんだとか。
ちなみに設計者さんは梵寿鋼(ぼんじゅこう)さんです。
明日に続きます。
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大磯 旧大隈重信邸見学

2018年11月10日 06時50分17秒 | レトロ建築
なぜに大磯に残る数少ない明治の古建築がいま公開されたのか?といえば、今年が明治維新元年から起算して150年にあたるからです。今年は全国あちこちで維新に関連するイベントが開催中ですね。
「大磯には明治期の立憲政治の確立に重要な役割を果たした伊藤博文・大隈重信の邸宅などの歴史的遺産が集中して残されていることから、去年(平成29年11月21日閣議決定)、国土交通省が神奈川県や大磯町と連携し、旧伊藤博文邸(そう浪閣)を中心とする歴史的な建築群や緑地を一体的に保存・活用するため整備を進めてます」(パンフレットより)とのこと。
構想はわかった!何にせよいままで望んでも見学できなかった建物が見えるのは嬉しい。とはいえ、今回の公開範囲は限定的かつ現状公開です。おそらくそう浪閣は西武グループが結婚式場として使用していたので、内観を公開するにはまずかつての姿に復元作業があります。まあ、ぶっちゃけ金の問題です。まず西武から買い取りです。

まずはテストから!ということで、今回はなんと!!ガイド付きでも無料公開です!国土交通省太っ腹!これは乗るしかないでしょう!!明治記念大磯邸園として整備したのちは、有料になる模様です。ツアー最後にあったアンケートに「見学料はいくらが適当ですか?」という問いがありましたので。
さて、前置きはここまでにして、まずはガイドツアー一つ目の旧大隈重信邸を紹介します。

入り口を抜けるとまずは庭が出迎えてくれる。奥に2つの和館がある。上の画像右手(西側)に旧大隈重信邸が、左手(東側)に旧陸奥宗光邸がある。まずは右の大隈重信邸へ向かいます。

まず気づくのが大隈重信邸は玄関が西側の壁に近い場所についてることです。窮屈そうでとっても不自然なんだよね。だって玄関といえば家の顔だよ?敷地が狭いならともかく広いんだ。なぜにすぐそこに壁があるのか??誰もが思う疑問はガイドさんがあかしてくれた。
「大隈重信の出身地は、薩長土肥の肥前国、現在の佐賀県です。1838年(天保9)に佐賀藩砲術長の父の長男として生まれました。
伊藤博文が大磯にそう浪閣を建てた翌年の1897年(明治30)に大隈重信は大磯に別邸を建設します。大隈がこの別邸を使用したのは古河市兵衛に譲渡するまでのわずか4年でした。
関東大震災にも耐え、古河家から古河電工に所有が変わった後も維持管理されていたため、居住部分はほぼ往時のままの姿で保存されています。
建設当時、西隣には最後の佐賀藩主・鍋島直大の別邸(現在はマンション)があり、家相上悪いとされる西側にわざわざ玄関を配置し、主君への忠義を示しています
ガイドさん、最初っから飛ばしすぎ。さすが内田康夫さんの小説の主人公と同じ名字を持つだけあるねっ。調べるの大好きなんだろうなあ。情報が満載されてて、ガイドツアー参加者は大満足ですっ!ともあれ、大隈重信がかつての殿にお尻を向けるのはダメだと、わざわざ西側に玄関をつけたのがわかりました。
では靴を脱いで和館へ入ります。

画像では写ってませんが、玄関の前は車寄せで大きな庇がついてます。ブラタモリ「湘南」の回でも紹介されてましたが、大隈重信は宴会好きで、毎晩のように宴会してたのだとか。東京から車を連ねて大磯に移動し、宴会というのがお決まりのコースだった模様で、執事さんの記録では1年で2万人を超える人が宴会に参加したとかなんとか。1年は365日しかないのに。連日宴会したとして、20000人➗365日=54、7人。つまり、毎日50人以上が集っていたという〜〜〜!!どんだけ〜。
玄関を入るとまず目の飛び込んできたのは正面に据えたでっかい鏡です。

鏡に見えます。でもこれ銅鏡って呼ばれてるんだって。確かこれをつけたのは大隈重信ではなく、後に古河家が別邸として使用していた時につけたとか。古河家と陸奥宗光のつながりは、陸奥の次男が古河家の養子になっていたことから。で、古河家といえば、足尾銅山です。だから!の銅鏡なワケですねっ。足尾銅山が大公害(鉱害)を起こした時、時代は富国強兵。そして政財界につながりががっちりあったので、問題にはなったけども抑え込めたんだって。なんかネタがポロポロ出てくるなあ。

銅鏡の右手にこじんまりとした応接間があった。それを横目に進むと、16畳と10畳の続きの26畳の大広間があります。

現在は、明治の資料を設置してあり、大きさは感じられませんが、ぶっちゃけここは宴会するための場所ですね。

ちなみに有名なのは床の間の床柱です。

この木はサルスベリでして、「大隈さんちのサルスベリ」といえば有名だったとか。なんか、床柱に使えるほど太く真っすぐなサルスベリは珍しかったんだっって。

ちなみに大広間があるのは「富士の間」と呼ばれていて、外観はこんな感じ。

大広間の縁を回すようにあった広縁部分から庭を撮影しました。ブラタモリの番組内では「かつてはここから正面にど〜ん!と海が広がっていた」と言ってましたね。現在は松などが伸びてしまい海は見えません。更には西湘バイパスが海側に走っているので、もし今松を低く整えても、かつての景色には戻りません。
さて、大広間に設置してあった資料を少し紹介。
 
これは伊藤博文に明治天皇が下賜した杉板戸絵です。裏表共に描かれており、パンフレットには静御前の舞と野見宿禰の相撲の場面が紹介されてたので別の絵を載せてみた。

こちらは大隈重信が明治14年に上奏した〜〜密奏した憲法の意見書です。
幕末維新を彩った立志伝の立役者も、明治も半ばになると数が減り(例えば西郷隆盛は明治10年<1877>に49歳で死去。大久保利通は明治11年5月に暗殺)残る大物は伊藤博文と大隈重信で、大隈が明治天皇に出した上の意見書が対立の元になりました。
で、こちらは大日本帝國憲法

そうそうたるメンバーの署名が並んでいますねっ。参考までに伊藤博文が初代総理になったのが明治18年2月、大ん本帝國憲法発布が1889年(明治22)2月11日でした。つまり大隈重信案はボツになったという。にしても武士の世が終わった幕末維新元年が1868年で、それからわずか20年ちょっとで憲法作ったのですよ。あの時代誰も彼も憲法作りに熱中したって何かのドラマで見たなあ。
他にも資料は並んでましたが、ガイドツアーは13人も参加してるので、短い時間ではなかなか撮影出来ず、他の資料はかるく見るだけにとどめちゃいました。
大広間の富士の間から神代の間を撮影。次はこちらを見学します。

なんといっても見所はこの窓です。

明治の頃、板ガラスは今と製法が違い鉛ガラスと呼ばれてました。この製法で作られたガラスは、外の景色がゆがんで見えたりガラスに気泡が混じったりしましたが、透明度はなんと今の時代のガラスよりは上!!味わいがあります。しかしガイドさんの一番の心配は、この鉛ガラスが割れたら今再現出来ないこと。なのでガイドツアー参加者は、不注意な事故が起こらないようにリュックは前に抱え、窓に近づきすぎないように見学を求められました。
さて、神代の間ですが、由来は千年以上も地中や湖底に埋もれていた杉を使ってることから。大隈はここを書斎として使用。

で、何か気づきました?床柱が竹?そうです。そして奥の戸板が神代杉。しかし注目は低い襖です。
実は大隈重信は外務大臣時代の明治22年10月に爆弾襲撃を受け、右足を切断する大怪我をおい辞職しました。(大磯の邸宅は明治30年に建設)なので、襲撃をうけても刀を振り回せないように低く作ってあると説明。

ちなみに神代の間の外観はこちら。

ぜいたくな石の使い方してるよね〜。
内観を終え、庭に出た。目に飛び込んできたのはこれ。

大隈時代の古い家屋台帳によると、この場には浴室があった。大隈重信は風呂好きで、邸宅の南20メートルほど海側に丘を降ったあたりに四畳半くらいの浴室と離れがあったとか。この五右衛門風呂はその跡地近くから掘り出されたものだって。明治22年の襲撃で右足を切断した大隈は、義足くらし。底が熱くなる裸足で五右衛門風呂には入れない。身長180センチの長身の大隈は片足に下駄を履いて小さくなって五右衛門風呂をたのしんだとか。ちなみに、坂を下ればそのまま海岸に直接繋がっていたので、海水浴の後、お風呂に入ってという松本順先生提案の治療の一環だったかも?とガイドさん。
次は隣接の陸奥宗光邸です。

ちなみに、現在は明治維新150年のイベントに合わせ公開されてますが、普段はこんな感じです。
元勲通りと呼ばれています(2015年3月1日)の記事 こちらの記事は以前に大磯歴史散歩をした時のもの。入り口が閉まってる時の旧陸奥宗光邸と旧大隈重信邸と、敷地を囲む石塀の画像を載せてます。石垣スキーには必見の素晴らしい石垣を巡らせてます。
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杉並さんぽ10-1 コンドル設計の鉄門

2018年06月16日 05時56分28秒 | レトロ建築
東京都は毎年11月の第1週を文化財公開ウィークとして、都内にある文化財を一斉公開してます。特別公開・通年公開・企画事業と区別はありますが、人々に文化財を身近に感じていただくため行われるイベントは歴史好きな私には好都合。いつだったか公開事業の古民家を訪問した時に、東京文化財通年公開編・特別公開編の冊子をいただきました。お花散歩とか展覧会見物のついでに少しづつ訪問してます。未訪問の中に杉並区堀ノ内にある重要文化財(建造物)妙法寺鉄門がありました。
杉並の尾崎熊野神社さんの巨木クロマツを訪問しようと計画を立てた時に、距離的にも小田急東京メトロ1日券を使えば妙法寺鉄門もついでに行ける!と気づきました。それだけではもったいないなあ〜と杉並区内のウォーキングプランを立てて角川庭園・大田黒公園・荻外荘などあれこれ追加しすぎてしまい、妙法寺に着く頃にはヘロヘロになってました。まさに計画倒れ寸前です。でもジョサイア・コンドル設計の鉄門がそこにあるなら見たいやろ!その一念で足を動かし、ようやく妙法寺さんに到着したのは16時を回ってました。
ついてびっくり。妙法寺さんは大きかった!

まず境内図で鉄門の位置を確認。
派手〜。
 

 


説明板発見:重要文化財『鉄門の由来』
この鉄門は明治11年に完成した、洋風の意匠を基調とし一部に加味した折衷の鉄門である。
我国の近代建築家養成の恩師と言われている英国人教師コンドル氏の設計遺構で、明治建築史上貴重な存在である。
昭和48年重要文化財に指定された。
門柱左右の7文字の漢詩は、当時の身延山第74世吉川日鑑法主の筆跡である。

「花は浄界に飛んで 香りは雨と成る。
金を祇園に布(しい)て 福は田にあり」
ちなみに鉄門の背後の建物は書院で奥に御成の間(東京都文化財指定)があります。

パンフレットによりますと「徳川時代、歴代将軍が野遊の時に使用された部屋で、天井・床の間・腰障子には狩野探幽・常信の絵が描かれてる」そうです。
パンフレットの側に東京都文化財ウィークの絵葉書が3種置かれていたのでいただいてきました。これによりますと「重要文化財(建造物)妙法寺鉄門(指定:昭和46年6月2日)
寺院の門として異彩を放つこの洋風意匠を基調とした鋳鉄製の門は、妙法寺が明治10年(1877)に工部省赤羽工作分局に設計施工を依頼し、翌明治11年(1878)に完成しました。
設計は、明治10年に工部省のお雇い外国人として来日し、工部大学造家学科教師であったジョサイア・コンドル(1852−1920)が担当しました。コンドルの来日年代から、来日第一昨ではないかといわれています。
門は幅(門柱真々)4、3メートル。全高4、96メートルの規模で、両開きの扉が付き、左右に袖柵を設けています。門柱は4枚の鋳鉄製側板を接合し、基部に牡丹模様の香狭間・唐獅子付き腰額縁、中央に銘文額縁、上部に井桁橘文様付き額縁を設えています。柱頭には、青銅鋳造の童子(東側女性・西側男性)を安置しています。
門扉を吊り込んだのき上には、彩色された鳳凰を冠し、5個のアカンサス装飾(地中海地方のキツネノマゴ科の葉をモチーフとした装飾)付きの灯篭を付設しています。門扉はアカンサス唐草文様を主に、橘花と井桁橘文を幾何学的に配置しています。
洋風を基調としながらも、日本古来のモチーフを散りばめた折衷様式ですが、異なる様式を優れた力量でまとめています」
ちなみにwikiによりますと、現存するジョサイア・コンドル設計作品は
神田のニコライ堂(重要文化財)ニコライ堂(東京復活大聖堂教会)2012年4月1日の記事
丸の内の三菱一号館 三菱一号館(2010年11月17日)の記事
台東区湯島の旧岩崎庭園本館及び撞球室 旧岩崎邸庭園の大銀杏(2017年12月26日)の記事
高輪の三菱関東閣(非公開) 
三田の綱町三井倶楽部(非公開) 綱町三井倶楽部から東京タワーへ(2017年12月17日)の記事 画像は外観のみ
五反田の清泉女子大学本館(旧島津家袖ケ崎邸) 旧島津公爵邸見学(2017年4月1日)の記事
北区の旧古河庭園本館 旧古河庭園の紅葉(2017年12月21日)の記事
世田谷区の岩崎家廟
など。 岩崎家廟(2013年1月14日)の記事
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大倉山記念館見学

2018年04月03日 06時05分27秒 | レトロ建築
2018.3.3訪問。大倉山公園梅林の梅を楽しんでたらダンナが「定期入れ落としたっ!」とパニクってどこかへ消えた。斜面を数回上り下りでパスケースを探したけどみつからないので、ダンナが落ち着いて戻るのを待つことにし、大倉山公園にあるレトロ建築、大倉山記念館へ移動した。(定期入れの話は昨日の記事に詳しくかいてあります)

あるのは知ってたけども、こんなに大きいとは思いませんでした。まずは入館。

見上げつつ入館。正面の破風下に鳳凰と鏡の彫刻があります。

正面玄関。ぐるりとロゼットのデザイン
鉄筋コンクリート造。上から石を貼り付けてあるのでしょうが、すごいな〜。どこの石を使ってるんだろか?
さて、正面玄関を入ったところが2階です。左手のロビー前のホールにパンフレットがあるのでまずは情報収集。

横浜市大倉山記念館
概要:この建物は、1932年(昭和7)に大倉精神文化研究所の本館として竣工しました。一見すると石造りの神殿のようですが、鉄骨・鉄筋コンクリート造です。建物を造らせたのは実業家の大倉邦彦、設計は長野字平治です。
1981年(昭和56z)に横浜市が研究所から寄贈を受け、市民利用施設として改修を施しましたが、ほぼ原形をとどめています。横浜市大倉山記念館として、1984年(昭和59)10月27日にオープンしました。
近代建築史上に重要な位置を占める建物として、1991年(平成3)に横浜市指定有形文化財に指定されました。
基本データー:
標高:約150尺(45.5メートル)の丘の上
構造:鉄骨・鉄筋コンクリート造3階だて。書庫には5層架構鋼鉄製書架を設置
延べ床面積:819坪699(2709㎡)
建物の高さ:84尺(25、45メートル)
吹き抜けの高さ:約21メートル
建築様式:プレ・ヘレニック様式
施主:大倉邦彦
設計:長野字平治・荒木孝平
施工:竹中工務店
建設費用:45万9356円18銭(現在に換算すると数十億円)
石材:石川県小松産千歳石
吹き抜けの彫刻:水谷鐡也制作のテラコッタ」以上パンフレットより。
パンフレットには館内の見どころも掲載されてます。しかし、各集会室・ホールは通常時見学不可。残念〜。
でも設計者長野氏命名のプレ・ヘレニック様式(ギリシア以前という意味)のデザインを館内で探しました。

まずはエントランスホールから3階ホールに続く階段。

階段を上がり3階ホール入り口かrさ2階の正面玄関を振り返り撮影

3階のホールの吹き抜けの回廊

エントランス吹き抜けを天井を見上げて撮影。テラコッタ製のライオンの彫刻がぐるりと並び見下ろしています。



階段の彫刻

1階階段裏にある留魂礎碑
訪問した3月3日には、2階ギャラリーで横浜市港北区の区民作品展が開催されてました。ぐるりと見物。
正面玄関ホールでぼ〜っと天井の彫刻などを見上げてると、後ろにダンナがいた。
私「定期入れ見つかった?」
ダンナ「みつからない。ここの事務室がどこにあるか知ってる?」
私「パンフレットによると1階にあるよ」
ダンナ「1階?ここ1階じゃ〜」
私「ここは2階。1階は階段を降りたところ」
ダンナ「階段ってどこにあるの?」
私「目の前にあるじゃん!エントランス奥に突き当たって振り向いてみな。降りる階段あるからさ」
って!振り向いたらダンナが消えていた。またか〜。ホウレンソウって知ってる??
って愚痴ってみても既に姿のないダンナには聞こえてない。仕方ないので待つ。
戻らない。ので、トイレへ行っておこう。ってトイレは〜?あ。1階か。私も階段を降りる。
で、おそらくこの時にダンナとすれ違った模様。
トイレを済ませてまた2階の正面玄関前に戻ったのですが、ダンナが来ない。
〜〜〜〜〜!!
帰ろう!もう知らんっ!!
電話くらい入れろよっ!
けっ!

プリプリしながら大倉山記念館の外をゆっくりみてまわる。私は派手なビビットオレンジのゴアテックスの帽子をかぶってるから、近くにいたら気づくと思う。そんなこんなで急坂をゆっくり降りて大倉山駅へ戻る。時計を確認したら、既に14時半になっている。むむ〜〜!!結構時間経ってるじゃん!もう帰るっ!!
ダンナも東急ワンデー切符を持ってるし、問題ないハズっ。ってか中途半端な時間だなあ。この後東急沿線巨木探訪するつもりだったけど、予定変更。1個だけ、田園調布にある巨木、秋葉のクロマツを見にいこう!
で。私は連絡の全くないダンナを見捨てて帰ったんだけども、まさかダンナが落とした定期入れに東急ワンデー切符を入れてあり、しかも会社通いのパスモも入れてあり、更に現在財布を持たずにいたなんてことは夢にも思わなかったんです。ってことで、ここからダンナの悲劇は本格化。だって彼は落とした定期入れを見つけないと、大倉山から動けないのですよ。ホウレンソウは大事だよな〜。
私といえば、この時どこにいるかくらい電話を入れろ!なんで携帯にかけて来ないの??と。私はプリプリしつつ東横線に乗っちゃいました〜。
どうなる!ダンナ!!続きは明日
 大倉山記念館スタンプです。ちなみに掲載したのは開設30周年記念のスタンプですが、別に通常バージョンのスタンプもありました。
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明治学院の文化財・明治学院礼拝堂

2018年02月02日 05時38分41秒 | レトロ建築
公開終了時間は16時まででしたが、礼拝堂では11/3は13:00-16:30で音楽祭が開催中でした。
すでに公開終了の16時は過ぎましたが、内部が見れました。

到着時にはマンドリンクラブの演奏中。レトロなチャペルによく似合います。

明治学院礼拝堂(チャペル)
所在地)白金キャンパス
建設年)1916(大正5)年
設計者)ウイリアム・メレル・ヴォーリズ
建設様式)イギリス・ゴシック様式
文化財登録)1989(平成元)年港区有形文化財に登録 2002(平成14)年港区<景観上重要な歴史的建造物など>に指定
明治学院のシンボルである礼拝堂は、建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(米国)の設計により1916年に建設されました。イギリスゴシック様式の礼拝堂左窓のステンドグラスは、黄色の十字架の形に配置されており柔らかな日差しが注ぎ込む。

内部から黄色い十字架を撮影。

外部から黄色い十字架を撮影。
この礼拝堂は地震で壊れた旧礼拝堂(ミラー記念礼拝堂、1903(明治36)年の木材を再利用して建てられた。完成当初は長方形の建物だったが、学生の増加とともに1931(昭和6)年、両袖の拡張工事を行い、空から見ると十字架の形をした現在の形となった。
関東大震災で被害を受け補強工事をしたが、第二次世界大戦中も建物そのものに影響を与えるような被害はなく、明治学院のキリスト教主義を象徴する場所として完成当時から同じ場所に現在も立ち続けています。

2006年(平成18)に耐震修復に着手し、外壁の構造補強、2階席の撤去とともに、正面舞台(講壇)を創建当時の姿に復原し、2008(平成20)年に献堂式を行った。

マンドリンクラブの演奏終了後正面舞台を撮影。振り返ると正面2階にパイプオルガンを見つける。

天井の構造がよくわかりますね。

パイプオルガン
設置年:2009(平成21)年
製作者:ヘンク・ファン=エーケン
楽器の様式:17~18世紀中部ドイツ・オランダ様式(バッハの時代の音色) 2段手鍵盤と足鍵盤、33ストップ
見学後、再び東京メトロ白金高輪駅へ。来る時は気づかなかったけど、道から記念館や明治学院の敷地は一段高くなっているのね。

明治学院の文化財の記事の説明文は、学園祭でいただいたガイドブックと、東京文化財ウィークの絵葉書の説明文からの抜粋です。次回見に来る機会があれば、時間に余裕を持って訪問したい。だって、今回もヘボンの像を見れなかったし。
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明治学院の文化財・インブリー館

2018年02月01日 05時11分39秒 | レトロ建築

明治学院記念館からお隣のインブリー館へ移動。 短い入場列がある。古い建物なので待つ。その間に逸れていたダンナと無事に合流。 明治学院インブリー館 所在地)白金キャンパス 建設年)1889(明治22)年 設計者)不詳 建築様式)アメリカ住宅様式 文化財登録)1998(平成10)年国の重要文化財に指定 2002(平成14)年に港区<景観上重要な歴史的建造物など>に指定 明治学院は文久3(1863)年創立で、白金には1869(明治20)年に移りました。1869(明治22)年頃宣教師のための住宅として、構内に建てられた西洋館のうち唯一現存する一棟です。 神学部教授のW.インブリー博士が長年居住したため、インブリー館と呼ばれています。 建物は木造、瓦葺(現在は銅板葺)屋根、2階建で、延べ床面積は1・2階合わせて301.3平方メートルあります。建築様式はアメリカで1870年代に流行した木造住宅様式です。 日本に現存する宣教師館として貴重であるだけでなく、日本における西洋風住宅の先駆けとしても、非常に価値ある住宅です。 入るとまず感じるのは屋内の暗さ。そして、前回はもっとボロかった気がスル。 こんなに綺麗じゃなかったハズ?? 館内の係員に聞いてみた。と? 係員さん「インブリー館は今年の夏、外壁工事を行いました」 私「ちなみに、木材は?なんという木が使われていますか?」 係員さん「わかりません」 やっぱ、関心ないと知らないし調べないよな〜。でも「腐食した木材以外は再利用してます」とか。木造建築ですから、未来に残すのはとても大変です。 ちなみに、インブリー館の床は寄木細工です。 現在はグループ会議ができる模様。 前回訪問時の記事は下記の2本。今回は特に時間がなく、外に出たらもう公開終了になってて入場列がなくなってました。もうギリギリで間に合いました!移動時間を読み間違えたのが痛かったです。

明治学院インブリー館(2011.11/25)の記事

明治学院インブリー館の内部(2011.11/26)の記事

昨日は大分気温が上がったので、運動不足解消も兼ね、相模原ー座間ー大和とサイクリングに出かけました。出発して間もなく、Jアラートの音が聞こえてきた。自転車こいでたら聞こえた。相模原と座間と大和市の境あたりだったかな?音は聞こえたけども、これが訓練かどうかがわからない。道路沿いにスピーカーがない模様。

う〜む?? 現在地がね。座間キャンプにも厚木基地にもそこそこ近い場所な訳よ。訓練かどうかを知りたいと思ったけども。ともかく周りを観察したら、通常通りの行動だったからそのままサイクリングを継続し、6時間後に帰宅。Jアラートは訓練だった模様です。やっぱりな。

そういえば、1月下旬頃からパソコンのCMバナーに「大和市のつきみ野イオンのスポーツオーソリティが2月末に閉店します。つきましては10%割引、さらにイオンカードを持ってる人には5%引き」となってて気になってました。サイクリング途中に寄ってみた。サイクリングやりすぎか?最近右の膝が痛むんです。サポーターとか?ついでにアウトドア用のシューズが欲しい!てなことで行ってみたらば!!なんと、閉店するのはスポーツオーソリティだけでなく、大和市のイオンつきみ野店自体が2月末で閉館し、3月にかつての座間日産工場跡建設中のイオンに移転後再オープンする模様。

となると?閉店割引率は小さいかな? いそいそと館内を探索。しかし、欲しい!と思った低山ハイキング用シューズのメレルは11000円のまま閉店割引はなかった! 膝用サポーターも見つからなかった! ならば!我が家の使いこんだ平鍋も買い換えたいな〜?と見に行ったけども、通常価格のまま。 タウンウォーキング用の小さめリュックも通常価格のままだった。 む〜ん??半額引きから30%引きという商品も多いけども。欲しい商品は割引になってない。

ってなことで、購入したのは一品のみ。ウォーキング(ランニング)用のウエストバックです。飲み物ボトルとデジカメも入るサイズで通常2700円税込価格が、50%引き&10%オフで、1215円で買えました!

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明治学院文化財・記念館

2018年01月31日 07時34分26秒 | レトロ建築
昨年末、パソコンが壊れたせいで中断した2017年11月3日の散歩の続きです。11月3日は文化の日です。上野の国立西洋博物館・国立科学博物館の常設展が入園無料で楽しめました。14:19、科学博物館を後に、東京メトロ上野駅から小田急東京メトロ切符を利用して、東京メトロ南北線白金高輪駅へ移動。徒歩で文化祭開催中の明治学院に到着。時刻は既に15:14でした。まさかの移動に1時間も!!ヤバイです。公開は4時までなのです。

あ。看板見つけた!4時まで公開だけども入館は15時半までじゃないの〜!!つまり後15分であれこれ見てまわねばなりません。

駆け足です。
レンガ造りの記念館は神学部校舎兼図書館として建てられた。
明治学院記念館
所在地)白金キャンパス
建築年)1890(明治23)年
設計者)ヘンリー・モア・ランディス(宣教師)と推定
建築様式)アメリカ・ネオゴシック様式
文化財登録)1979年港区有形文化財に指定 2002年港区<景観上重要な歴史的建造物など>にしてい
たてものに入場。

正面に階段。1階、階段の右手の部屋は歴史資料室。1998年(平成10)に開館。
J.C.ヘボン、島崎藤村、賀川豊彦、井深梶之介などの展示資料があります。
ちなみに、歴史資料館の開館時間は9:00-16:00(月ー金) 入館無料となっています。

1階左手は小チャペル(礼拝堂)です。
時間が惜しいので2階へ移動。

現在は会議室な感じです。2階には古いリードオルガンがあります。製造年は1892もしくは1907年製。アメリカのメーソン&ハムリン社製。毎時学院の学園祭に合わせ11/1-11/3のみ公開されています。ちなみに現在も演奏可能です。じっくり見ていたのですが、何しろ15時半までに入館しないとなりません。文化財は残り2つもあるんだ。急がなきゃ!

実は私は明治学院の文化財は再訪です。ダンナは今回が初訪問になります。前回訪問時にリードオルガンを撮影していました。こちらの記事でご確認ください。
明治学院記念館(2011.11/24)の記事
記念館の入り口にアンネのバラが植栽されています。このバラはベルギーの園芸家が新種のバラに平和の願いを込めて名付けられました。苗木はホロコースト記念館(広島県)よりいただいたとか。

構内図です。
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旧洋館御休所・重要文化財特別公開

2017年11月19日 06時11分53秒 | レトロ建築
2017.11/11訪問。皇室菊花展を見物してたところ、どこかのグループのガイドさんが「御休所の公開は15時までなので、菊花展の前にそちらへ行きましょう」と。
私は以前に旧洋館御休所を見学したことあるんだけど?念のためダンナに確認したら「見た事ない」と。そりゃあもったいないなあ〜。何しろ旧洋館御休所は新宿御苑内にある重要文化財で、毎月第2・4土曜日にしか公開してないのだ!
よし!今日の新宿御苑訪問の目的は皇室ゆかりの新宿御苑菊花壇展鑑賞ですが、せっかく特別公開日に訪問したのならばぜひ〜〜〜!!
菊花壇展は期待通り素晴らしく、うっとりしたものの鑑賞が終了して時刻を確認したらすでに14時47分でした。
ヤバイ〜〜〜。御休所の公開は15時までなのです。
急ぐよっ!!
ああ、新宿御苑は広いのです。
そして到着!
今、何時っ!!
午後14時51分!
ギリギリ間に合いましたっ!

玄関で靴をスリッパに履き替えて入場。抜けると旧広間です。ここでパンフレットをいただきまして〜〜。
あれ?室内撮影禁止!!マジか〜。
仕方ないのでトップ画像に見取り図を掲載しました。
説明パンフレットより:旧洋館御休憩所のあらまし
旧洋館御休所は、天皇や皇族が新宿御苑内の温室で植物を観賞する際の休憩所として明治29年(1986)に創設されました。建物は宮内省内匠寮により設計され、アメリカの住宅を中心に流行したステック・スタイルを基調に建てられています。
創設後、皇族の来苑が増えるとともに4度にわたる増改築が行われ、大正後半からは主にスポーツ後のクラブハウスとして使用されるようになりました。大正13年(1924)の増改築によりほぼ現在の規模・仕様が整えられ、昭和初年にかけて利用のピークを迎えます。
戦後は長く管理事務所として使われていましたが、歴史的・文化的価値の高い建物として保存が決まり、平成13年(
2001)、大正13年当時の姿に復元する保存改修工事が完成しました。
建築様式(現状):木造平屋建 スレート葺き・亜鉛引鉄板葺屋根
建築様式:スティック・スタイル(クイーン・アン・スタイルを加味)
建築規模:面積480.08平方メートル 間口31.815メートル 棟高6.990メートル

パンフレットによりますと、大正13年の改修は、婦人用の浴室・トイレ・手洗い室・化粧室の増設です。これ以降、女性の利用が増えた模様です。
ちなみに、その前大正11年(1922)の改修が、男性用の浴室・脱衣室・手洗い室・トイレと並びに臣下のトイレ・浴室・脱衣室。この時に室内回廊廊下とボイラー室を増設してるので、スポーツ(多分テニスかゴルフと予想)の後に汗を流すために施設を作り、男性皇族から話を聞いた女性皇室や奥さんたちにねだられて女性用も作ったので、使用が増えた。ってとこかしら?
残念なのは、建築当初の食堂や御居間・次ノ間などが非公開だってことです。大正11年に増築された回廊廊下から室内を覗くのみ。チッ!

公開終了時間が迫ってるので、急ぎ足で見学。玄関で靴を履き替え振り返る。まだ見学者が訪れてますね。

内廊下の回廊を外から撮影。
さて?せっかく新宿御苑に来たからには大銀杏を見たい。

御休所の玄関前から左を撮影。巨大なユリノキの奥に黄色く色づき始めたイチョウ。あれが大銀杏です。

ここは外国人観光客にも大人気。
日本人はあちこちにイチョウがあるから珍しい木じゃないと思ってるけども、外国人にはまっ黄っ黄に紅葉するイチョウはとても珍しいらしい。まだまっ黄っ黄になってないのに、アジア系の人があちこちで記念撮影してます。
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谷中散歩その2

2017年11月02日 05時38分38秒 | レトロ建築
上野の科学博物館で深海展を見た後谷中へ。上野桜木交差点から谷中墓地へ歩いてると、細道に観光客が入っていく。不思議に思い私達も細道へ。と?昭和情緒たっぷりの建物が見えた。
あれ?こんな所にこんな建物あったっけ?
昔上野桜木交差点からさんさき坂を降りて東京メトロ千駄木駅へと歩いたことがある。その時には見過ごしたか?それとも今のようにウエルカムじゃなかったんだろう。今この古民家は小さなビアホールとして営業してる。古民家は昭和13年に建てられた。袋小路の一角にあって、昭和情緒あふれる街を求めてくる観光客がつい足を止めてしまう風格がある。



古民家は3棟。それぞれに違う使い方をしている。
こちらは谷中ビアホールさん。6種のビールと5つの土鍋を使い分けて作るおつまみや料理を提供している。

こちらはパン屋さん。
そしてレンタルできる広間を持つ家。
昭和のドラマ撮影がお手軽にできそうな佇まいです。

訪問した2017年9月14日は庭の芙蓉が綺麗でした。

上の方にも手押しポンプの画像を載せましたが、下の画像のポンプを見ると、水の出る口に布の覆いをかぶせてあった。これさ、組み上げた地下水にまじるゴミを取り除くためにするんだよね。ということは、この手押しポンプは今も使ってるということ。うわ〜、まさか!ですよね。さすが谷中!!(まああ実際の住所は上野桜木ですが)



さて、先を急ぎましょう。谷中墓地を目指し歩いてると?道向こうでチラシを配ってるおじさんがいた。
何してるんだろか?
骨董喫茶・茶席 瑜枷庵(ゆかあん)さん。。
大正2年創業の大久保美術は「ギャラリー大久保」の母店にあたります。建て替えに伴い2階に畳敷きのお茶席と正座することなく椅子に座って(立礼式)お作法無用で抹茶と和菓子が楽しめ丸。2階の半分はコーヒー&ティールーム・骨董喫茶になってます。
古き良き日本が見たい人向けです。外国人にもおススメですね。

レトロ地図発見:谷中寺町と谷中霊園
「寺院の屋根の下に谷中の町がある」という表現がおおげさでないほど寺が多く、その数は70数軒にもなる。
寛永年間 (1624-43)、上野寛永寺の子院がこの高台に多く建立されたのが谷中寺町の始まりである。それ以前は鎌倉時代創建の感応寺(現天王寺)他数える程しか寺院はなかった。
そして、慶安年間(1648-51)、江戸府内再開発という幕府の施策で、神田あたりの相当数の寺院が谷中に移転してきた。また、明暦の大火(1657)の後も、江戸府内の焼失寺院がかなり移ってきた。寺の門前に町屋が形成され、また参詣に来る人で賑わい、庶民の行楽地となったのもこの頃である。
幕末の慶応4年(1868)、上野戦争の兵火は谷中を襲い多くの寺院が焼失したが、その後再建され、震災、戦災にも会わず、昔ながらの情緒を持った寺町を今日に残している。
谷中霊園は、明治5年(1872)、旧天王寺境内の一角を官有とし、それに天王寺墓地、徳川墓地の一部を合わせた谷中墓地が始まりである。現在の墓地の使用者は6000あまり。幕末、維新以降の著名人の墓碑が数多くある。
む!?谷中散歩で一番行きたいのは徳川15代将軍徳川慶喜のお墓なのですが、無事に見つけられるかな?東京の墓地って墓石が多すぎて、番地がわかってても見つけられないことも多いんだよね〜。
もちろん事前に所在地は調べて来てるんだけども?

さてと?道幅の広い場所に着いた。上野桜木交差点から進んできた道は道なりに左へカーブしつつ坂を下って続きますが、このまま狭い方の直進すると谷中五重塔桜通りです。目的の谷中墓地はこっち。さらにWEBで調べてきた徳川慶喜のお墓への分かりやすい行き方は管理事務所スタートとのことなので、谷中五重塔桜通りではなく上の画像の細い道へ向かいます。

この辺りは墓参参りの客相手の家かな?多磨霊園に行った時も霊園前はこういう感じの家がいっぱいあったなあ〜。

管理事務所に到着です。(続きは明日、谷中散歩その3にて)
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旧住友家俣野別邸その3 主屋と玄関

2017年07月24日 05時34分35秒 | レトロ建築
昭和14年に建てられたオリジナルの住友家俣野別邸は、昭和前期のモダニズム影響下におけるハーフティンバースタイルを一部に取り入れた和洋折衷住宅建築として評価され、2004年7月に国の重要文化財に指定されました。現在の建物は、2009年にオリジナルを焼失。再建され今年2月に横浜市認定歴史的建造物に指定。3月より一般公開中です。
と、入館料400円を支払うといただけるパンフレットに書かれています。今日は俣野別邸の1階主屋の食堂と玄関を紹介します。

主屋棟2階→南棟→事務棟→主屋棟1階(今ココです)
食堂です。ここは喫茶室として使われています。コーヒーを注文してゆったりと芝庭を眺めるのも優雅です。

食堂のテーブルと椅子は、オリジナルを写真から再現してるそうです。

テーブルの天井。まずは元々は彩色彫刻の施された天井板は焼失前のもの。2000年に相続税として元の持ち主が建物を物納した時、天井の彫刻は剥がして持って行ったそうです。よく見ると、木肌に白い彩色があり、その上に花鳥が描かれています。再建にあたり、使って欲しいと申し出があり、オリジナルの天井が復原されました。
そして注目していただきたいのは変わった照明。

籐で編んだ照明はオリジナルの部材を再現したもの。これさ、今でもおしゃれなカフェの照明でも十分通用する。昭和14年の作品なんですよ。(しつこい?)よく見ると食堂と玄関には共通するデザインがあちこちにあります。

食堂の隣室の居間。実は間に間仕切りも壁もない。一つ続きの空間です。

この画像だとひと続きの空間だとわかるかな?
こちらも喫茶室に利用されていて、お客さんが芝庭を眺めて談笑していました。上の画像右手に朱色の丸い柱があります。見てきた中に2階の畳のしいたベット?の黒漆の丸い柱。南棟の防音室の黒漆の丸い柱。そして太い赤い柱。これは資料を基に部材を復元したものだそうで。この赤いろは、実は玄関の扉の赤と連動した色になってると、係員さんが教えてくれました。
画像奥にグランドピアノがありますね。時折演奏会が催されてるようです。その時に来れば、素晴らしい建物でコーヒー飲みつつ生演奏を楽しめる趣向。ホームページに演奏会のスケジュールが掲載されているので、訪問前にチェックしてみてください。
居間の小物の北欧風なデザインも素敵だったので紹介。

記号みたいなの。これがモチーフであちこちに散見できます。
 
上の2枚はよく見ると同じではない。係員さんがすりガラスの引き戸を引き出してくださいました。冬とか防寒になるのかな?

照明2点。奥の天井から下がってる照明も同じモチーフと素材が使ってあります。

居間の暖炉です。左右非対称なデザインが日本の床の間の違い棚に通じるデザインで、馴染みます。でもそれは日本人の感性かも?西洋は対称が普通だものね。

居間に隣接してサンルームがあります。
一つ上のサンルーム全体の画像に石のでっぱりが写ってますね。これはオリジナルの建物にも付いてました。何のために付けてあるのか?よくわからないそうですが、左の画像のように植木鉢を飾ってないと、頭をぶつけて危険だとか。

サンルームの画像の左にある、これは〜??花壇なのか?オリジナルの建物にもありました。
係員さん「植木鉢に水やりすると、溢れた水は下から屋外へ排出される設計になっているとか?でも怖いので今は溢れさせたりしません」

サンルーム奥の窓の外の様子。いい感じ。サンルームの窓の外の眺めは、今は木が伸び過ぎですが、本来はこのサンルームからも丹沢山系と富士山が見えたのかも?あ。書き忘れてましたが、サンルームの上が2階の丸い部屋(展示室1)です。
サンルームから居間を振り返ってみた。こんな感じで、ひと続きの空間です。窮屈じゃないね。
サンルームを出ると、2階へ続く階段のホールに出ます。

一昨日紹介した場所ですね。
階段の左側に扉が見えてますね。上に非常口の緑色が見えてます。
ここに3つ扉が並んでいて、中央が玄関ホールの扉です。オリジナルは3つの扉ともラワン材が使われていましたが、今は中央の玄関に通じる扉だけラワン材が使用されています。理由は「ラワン材は虫がつきやすいから!」耐久性に問題があるなら仕方ないですね。

玄関扉を屋内から見たデザイン。

これが玄関ホールから撮影したところ。普段はこの扉は閉じてあります。係員さんが開けてくださいました。屋外から建物に入って一番最初に目にする場所です。

こんな感じです。
玄関は狭いですが、デザインが駆使してあります。
北欧のモチーフ。
画像をよく見てもわかりづらいのですが、見ていただきたいのは壁。これ、白い漆喰で引っ掻いたように塗り上げてから、壁をキャンパスに全体を色づけしてあるんですよ。ちなみに、事務棟や南棟の壁は、漆喰に色を混ぜてクリーム色に調整してあります。
見ていただきたいのは金色と赤っぽい電球色が、階段ホールなどに連続する照明のデザインです。ちなみに、上の画像左下の非常口の緑の扉が、実は俣野別邸の屋外と屋内を分ける玄関扉です。豪邸にしてはとても小さい。今の普通の家と変わりません。
そして一昨日も紹介しましたが、上の扉の内側の床が、栗の木のブロックになってます。

これですね。不思議でしょ?

上の画像は玄関扉を撮影してみた。赤いでしょ?居間の赤い丸い柱とデザインを合わせてるとか。係員さんに説明されないと気づきませんでした!縦長の窓は実は黄色と曇りガラスのステンドガラス。上の画像では分かりにくいので別角度から。

上の画像の右手の非対称の扉の先が控え室。入場料を支払い、靴をスリッパに履き替える場所です。玄関、見るところいっぱいですが、狭いよ〜。素通りしそうです。
さて、係員さんにお礼を言ってお別れ。時刻は10時40分!つまり1時間近く説明してもらっちゃいました!説明料はおいくら万円??とビクビクしてたのですが、なんと無料!!でした〜〜〜!!素晴らしい〜~っ!!ってか、私の記憶力が残念過ぎる。1時間たっぷり説明してもらったのに、記憶がボロボロとこぼれてしまいました〜。この後、もう一度2階に上がりゆっくりしても良かったのですが、実はお腹が空いてどないもこないも〜〜!!
そもそもの計画では、鵠沼で蓮見をして、遊行寺の大銀杏の下にあるベンチで朝ごはんを食べるつもりだったんだよね〜。ところが、旦那が先に先に一人で行っちゃったから、そこで食べれなかったんだよねっ。だから、俣野別邸のお庭で朝ごはんを食べてから建物見学するつもりだったのに、急坂に庭に、先に建物見学する事にしたのでした。さっき、2階から芝庭を見下ろした時にベンチを見つけたので、あそこだ!

ちなみに、上の画像右奥が事務棟の奥にあった書庫。中央奥の竹の囲いが、事務棟和室から見えた和の庭。画像左の木造の建物が、付属屋(非公開)です。ここは焼失を免れた模様。

この画像のがわかりやすいかな?
そしてトップ画像が俣野別邸の外観(南西側より)。ベンチが3つほどあるので、日陰のところでようやくの朝ごはんです〜。

ご飯休憩の後、お庭見学。河岸段丘上の内苑→段丘下の外苑へと見て回ります。長くなったので明日へ続きます。
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旧住友家俣野別邸その2 1階

2017年07月23日 05時27分11秒 | レトロ建築
旧住友家俣野別邸庭園見学(2017.7.16)。昨日は建物の2階部分を紹介しました。展開図では俣野別邸はY字型をしています。今日は二股の南棟と事務棟の紹介をします。
南棟の2部屋(洋室・和室)は、現在貸し集会室です。



係員さん「集会室として使うために、再建時に天井に照明を足しました。あと、会議ができるようにテーブルも入れました」

実質横浜市が維持管理してるのでしょうが、2部屋貸し出しに使ったところで維持費は賄えないと思います。雑な使い方されて痛んだり、修理代の方がかさむんじゃないかな?と少々心配です。オリジナルに火をつけた放火犯も確か捕まってないよね?
例えばこれ。

貸し出しに使う集会所の洋室の奥に障子です。
係員さん「吾妻障子の桟に面取りしてあります。実は、ここの障子紙を張り替えるのはすごく大変で、さんに縦ひごを渡し、新しい障子紙が乾いたらひごを外すという手間暇のかかる作りになっています。だから『絶対に破かないでね』と言われています」
そういう障子、どこかのレトロ建築でも見たわぁ〜。どこで見たんだっけ?昔のお金持ちはわからないところにお金をかけていたのね。
貸し出しの集会所の洋室の床部分。オリジナルの建物と同じように再建したので、床も手間暇かかる床材の貼り合わせの市松張り。

貸し出し用の集会所の2部屋の前の廊下はワイド設計。広縁です。

窓の外はこんな感じ。
係員さん「左手の藤の木は、火災で焼け残ったオリジナルの植物です。手前の睡蓮の池もオリジナルです」
和と洋が馴染む植物を使ってるのですね。だって、芝庭に松がないもの。
広い廊下な広縁の先に、サンルームがあります。

館内は冷房完備なので、座って休憩しても暑くないよ?屋外は35度の真夏日だけどな。
ちなみに、サンルームと広縁の廊下の角にこんな内装があります。
建物の壁はレンガ造り。その上に白に少し黄味がかった色を足した漆喰塗りです。でもこの一角だけ漆喰を施してません。構造が分かるようにしてあるんだって。
サンルームの先に大きな部屋があります。現在の名前は「展示室5」ここは変わった造りになってます。
まず入ってすぐ黒漆の丸い柱。2階の船底天井があった畳のベットみたいなのがあった部屋の柱とほぼ同じ大きさ。
別角度から。
結構驚くけど、ここは更に建物が屋外に面してる壁がとても変わってます。

分かります?防音加工の分厚い窓。

この画像だと窓ガラスの厚みがよく分かるかと?後窓ははめ殺し。開きません。
更にこう!
外の空気を取り入れる上げ下げのできる窓が別にあります。窓の外に、鉄製の扉があるんですよ。ちなみに、鉄扉がある窓はオリジナル。焼け残ったのかな?
中は普通に部屋なので、お蔵じゃありません。おそらくですが、ここは増築部分だとのことなので、戦争中の避難場所だったのかと推察。俣野別邸は河岸段丘に立地してるので、防空壕を掘るのも可能だったと思うけどな。住友家当主が空襲を恐れて防空壕に隠れるよりは、スマートな避難部屋ですね。今でいうパニックルームかな?
入室当時、展示室5の奥に続く扉は開けてありましたが、係員さんが扉を閉めるとあらびっくり〜!!

布張りでした。2階の丸い部屋(展示室1)の出入り口も、オリジナルが建築当初は布張りの引き戸だったそうなので、こんな感じだったのかな?ともかく、黒塗りの柱と布張りの扉のおかげで、窓の外の鉄扉は気になりません。圧迫感が軽減されています。空襲時の避難部屋というより、防音室。映画やロックを大音量で聞いても大丈夫!な部屋かも?まあ、住友家のご当主のお屋敷ですから、中で大きな音云々出そうが、誰も非難しないと思うけども。
ところで、布張りの扉の奥に何があるか?というと、結構意外。や、あって不思議じゃないけども。

焼失前のオリジナル。

同じく、作り付けの棚。オリジナル。かつては棚の手前に洗面所があったのかも?係員さんに説明してもらったのに思い出せない。もうヘロヘロだったんや〜。覚えること多すぎる〜。
あ!後この部屋にはこれもありました。
ピンボケですみません。昔の暖房器具です。これ、何て名前だっけ?オイルヒーターだっけ?レトロ建築見学をしてると、あちこちで見かけるやつ。俣野別邸には煙突が一つありまして、暖炉もありますが、ほとんどの部屋ではこれを使ってたそう。
あと、展示室5の防音部屋の隅に小さなレトロ家具が置いてあります。
今一、この部屋には合ってないよな〜??
係員さん「以前の持ち主が、寄贈してくださいました。この建物内で使われていたオリジナルの家具です。どこの部屋で使ってたかわからないんですが」
火災になったのは、2000年に相続税で建物を物納。公開に向けて修復工事中に火災になったので、オリジナルの家具や建具は運び出してあったのが幸い。

そういえば、これが展示室5に入ってすぐの足元収納。使い方によれば、この上に掛け軸とか飾れそうだけど、そういう使い方はしてなかったんだろうな〜。この部屋をどう使ってたのか聞いてみたいけども。
Y 字のジョイント部分に戻ってきました。ジョイント部分は再建時にトイレやエレベーターを造りました。

こちらは事務棟です。かつては使用人が使っていた部分。調理室もあります。現在俣野別邸の主屋1階のかつての食堂は、喫茶室としてコーヒーなどを楽しめます。調理室でやってます。ちなみに、喫茶室のみ利用する場合は、入館料の400円は無料です。いいかも〜。
さて、事務棟は現在も事務棟として使用されていて、公開してるのは和室と書庫の3部屋のみ。

かつて使用人が使っていた部分と伺いましたが、廊下が広くて驚きました。何てゆーの?この建物ってほとんどバリアフリーなんだよね。段差とかあんまりなかったような?車椅子とか使うのもほとんどストレス感じないんじゃないのかな?オリジナルの建築当初からこうだったとしたら、ご家族にどなたか体の不自由な方がいらしてたのかも?と思いましたが、係員さんに聞けません。大人の事情で建物のかつての歴史や住人については話せないのです。話せないことを聞けません。
こちらは使用人の出入り口のお勝手口。
なぜにこの画像を撮影したか?というと、扉の先は現在非公開の地下室の入り口だから。
係員さん「中は暗くて怖いんですよ〜。入る時は大変です。俣野別邸には2つの地下室があります。ここは機械室でした」
たぶん、ボイラー室とかかな?横浜の山手のベーリックホールの地下にあるみたいなの??



公開されてる続きの和室2つ。よく見ると、部屋の天井の高さに違いがありまして、当然天井の高い方が格上の部屋。
和室なので、ここから見えるお庭は和っぽい。

後で屋外を回り芝庭へ行きましたが、垣根が高く作ってあるので、和の庭は外から全く見えないようになっています。
和室と庭の間の廊下はここも広かったけども、見所は梁とかです。

古い木材は焼失時に焼け残った部分の再利用。あ。そういえば、説明し忘れてましたげど、係員さんが見学途中に時折窓をわざわざ開けてくださったのですが、窓に全部昔式のカギがありまして、ネジを回して開け閉めするのね。私が小さい頃にはまだあちこちのお宅に残ってましたが、アルミサッシが普及してからとんと見なくなりました。再建なので!アルミサッシはありません。使えるものは使う!と。焼け残った建具や金属部分を再利用して再現してる場所もちらほら。
奥に書庫が。


わかりますね。ここも焼け残った部分です。床材・梁の建具部材、作り付けの棚も焼け残ったオリジナル。でもさあ、使用人棟のさらに奥にあった場所なので、実用優先。装飾はない。オリジナルとはいえ見てあんまり楽しいものじゃないなあ〜。でも確か、照明は再建時につけたと言ってたような??もう記憶がおぼろげ。覚えることが多すぎたんや〜。疲れたので続きは明日。
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俣野別邸その1 2階

2017年07月22日 05時54分46秒 | レトロ建築
今年4月中旬にNHKBSプレミアムで「財閥解体ものがたり〜日本占領はこうして行われた〜」という番組を見ました。財閥の栄華を物語る豪邸とその後の運命から戦後の一断面を描く。というコンセプトな番組でした。日本の財閥、戦前の四大財閥は、三井・三菱・住友・安田。番組内では住友の豪邸として、旧住友家俣野別邸が紹介されてて、実は番組内で紹介された豪邸のうちい見たことない!知らない!豪邸だったんだよね。
検索しました!すると、藤沢市にあるじゃないですか!しかも地図を見たら小田急線藤沢本町駅から歩ける距離!是非見たい〜~っ!と。ところがゴールデンウィーク明けに激痛な腰痛ですよ!しかも痛みを感じなくなるまで長引いてしまいまして。ようやく見に行ったのが、2017年7月16日でした。ええ、鵠沼で蓮見遊行寺と小栗判官のお墓旧俣野別邸庭園(←今ここ)です。

トップ画像は俣野別邸庭園の正門ですると緩やかに坂。やがて見えてきたのがお目当ての古建築です。
ん?「古」建築??新築じゃね??と思った方、いますよね?私もそう思う。戦前に建てらた家じゃない!!
実はですね。本来の旧住友家俣野別邸は、1939年に住友財閥の創業者一族である住友家が建築させた和洋折衷の住宅でした。しかし、国の重要文化財に指定されたオリジナルの建物は、2009年3月15日に焼失しちゃったのです。あの頃に、俣野別邸のすぐ近くのモーガン邸や、大磯の吉田茂邸が相次いで焼失したのを覚えてますか?あの一連の事件の中にこの建物もあったんですよ。
そして、数多く残っている建物の写真と、オリジナルを設計施工した会社が再建したので、ほぼ当時の姿を再現できました。
へえ〜へえ〜へえ〜〜!!不幸中の幸いってことな?
そうだったのかぁ〜!そういえば、大磯の吉田茂邸もこの春に再建して公開になりましたね。実は俣野別邸も今年の3月よりの公開です。公開されてると認知度が低いのかも?ちなみに、入館料:一般400円 休園日:毎月第3木曜日と年末年始です。

特徴的でこの建物の象徴でもある2階の丸い部屋。外から見るとこんな感じ。本当ならば、上の画像の右側から撮影したいのですが、建物の右側は急な坂になってます。

こんな感じ。敷地は河岸段丘を利用した、高低差のある地形に立地してまして、内苑部(建物)が段丘の上部、段丘の下に外苑部があります。今日は、建物の2階部分を中心に紹介します。
カテゴリーが「レトロ建築」にしてあるのも、可能な限りオリジナルの再現にこだわったから!あえて「レトロ建築」に入れました。

まずは外観を見上げてから入館。

車寄せはありますが、玄関はこじんまりとしてます。住友財閥の迎賓館というコンセプトならば、もっと玄関は派手に大きく造るハズ。上の画像は、玄関の入口にある石板。入るとこんな感じ。

ピ、ピンボケ…。玄関が狭くて暗いんじゃ〜〜!!

ちなみに、これは玄関の床です。外から入ると栗の木の床です。あちこちの豪邸見てますが、玄関入ってすぐが木製の床って初めてですわ。ちなみに、ここまで土足です。

ここで入館料を支払い、靴を預けてスリッパに履き替えます。ちなみに、この部屋(控え室)は建物の中でデザインが浮いてて変わってるので、立ち寄った際は是非ともよく見てください。特に、床が玄関から連続して木材の栗をまるで煉瓦ブロックのように加工してあるの。あと天井の梁がイギリスのハーフティンバーみたい。わざわざ木肌をなぐり加工してでこぼこを出してる。最初から面白いです。
開館時間:9時半で、現在時刻は9時47分です。スリッパを履き替えたら、係員さんと目が合いました。
係員さん「ご説明しましょうか?」
私「いいんですか?ぜひっ!お願いします!!」
ラッキーですっ!!まさかまさかの出来事です。こんなことなら「財閥解体ものがたり」を見直してくるんだった〜。そうすれば突っ込んだ質問できたのに〜〜。と。ひとしきり後悔していたらですね。まさかの事前ご注意が!!
係員さん「実は前の持ち主の意向で、歴史的なお話はしない条件での公開になっています」
私「え?そうなの!!じゃあ、この部屋がかつて誰の部屋だったとか?」
係員さん「NGです」
私「住友家が…」
係員さん「NGです。建物についてできる範囲でご紹介します」(説明したい気持ちはあっても大人の事情です)
というがっくり、肩透かしなスタートになりました。でもさ、そうは言っても「レトロ建築」カテゴリーなので、歴史部分はwikiに書かれてる部分を抜粋しますね。
旧住友家俣野別邸は、1939年(昭和14)に当時の住友家当主であった16代住友吉左衛門が発注した住宅で、住友家の東京本宅の別邸として現在の神奈川県横浜市戸塚区東俣野町の丘陵地に建築された。
設計は佐藤秀三であった。
基本的には当時の代財閥一家が生活するために、使用人の居住区も備えた大規模な西洋風建築であるが、設計に際し北欧の伝統的な建築様式である柱や梁を露出させる様式を基本としながらも、屋根に日本瓦をのせるなどの伝統的な和風様式も取り入れている。建物はY字形で、昭和時代初期に流行したモダニズムの影響を受けており、和洋と現代建築が融合し、折衷した建築物があった。
1998年ごろまでは住友家に所縁の者が生活していたが、2000年に相続税として国に物納され、政府に所有権が映った。2004年7月に国の重要文化財に指定され、保存と一般公開に向けて2008年1月から修復工事が進められていたが、2009年3月15日に焼失した」
では見学開始。

入館料を支払い、スリッパに履き替えてすぐの場所。2階への階段。
係員さん「再建する時に安全上階段の手すりをオリジナルに手を加えています。元より手すりを高く、頑丈にするために縦木を足しました」

上の画像の手すりの上の段と、下の段だけにある縦木の部分が足した部分。

壁はオリジナルと同じ刷毛目です。
2つ上の画像の階段の上にある踊り場部分ですが。ええ、これ2階じゃない。
係員さん「なぜにここに踊り場を作ったのか?わかりません」とのこと。だって、2畳くらいの広さの踊り場をわざわざ作ってるんですよ?

ちなみに、上の画像は踊り場から階段を見下ろしたところ。
そして、2階部分へ。まずはあの外から見上げた丸い部屋へ。

ここが何のために作った部屋か?窓の外に答えがあります。

空が澄んだ日には、正面左に富士山が、右に丹沢山系が見えるそうな。
訪問した7月16日は、真夏の空らしく山は全く見えませんでした!

ここから芝庭が見下ろせます。

再建する時に、床もオリジナルと同じデザインで再現したそうな。

ちなみに、丸い部屋の入り口の扉を係員さんが占めてくださいまして。
係員さん「戦後、俣野別邸は米軍に接収された時期があります。元は襖のように厚い壁の間に収納した引き戸には布が貼ってありましたが、接収中にペンキが塗られてしまいました。接収が終わって返却されても、一旦塗られたペンキは取れなかったそうです。これも建物の歴史ですから、ペンキを塗った姿で再現しました」
これは〜。説明聞かないと分からんわ〜。

係員さん「こちらをご覧ください。窓の段差の部分にかつてはソファが据え付けてあったそうです」
建物のあちこちに椅子やテーブルが配置してあって、休憩できるようになっています。公開してあるレトロ建築で見学者が座れる場所ってそうそいありません。結構レアな体験ができますよ?

ちなみに、上の画像は丸い部屋のすぐ外にある展示室。オリジナルに再現してあるそうです。見ていただきたいのは、ソファ部分。

丸い部屋のソファもこんな感じだったのかな?

ちなみに、本棚は、ソファの反対側です。一旦廊下に出て隣へ。

分かります?ここで見ていただきたいのは、パネルの裏側にある障子窓。部屋の反対側の窓の上には空気を逃がす横長の換気窓がありまして、涼しく暮らせる工夫があります。

バルコニーには出られませんが、部屋の中から見上げるとおしゃれなデザインがなされています。画像右下には瓦屋根が写り込んでます。主屋の南棟部分です。再建にあたり、焼け残った瓦を型取りして、新しく焼き直したそうです。

隣の部屋です。畳がありますね。黒い柱はこれ、黒漆です。実は1階にも同じ太さの黒漆の柱と、もっと太い赤漆の柱がありまして、連続性のあるデザインになっています。

畳と黒漆の柱のある部屋の天井です。船底天井がモチーフ。間接照明になっています。オリジナルと同じです。これ、昭和14年に建てられた建物ですよ。古さが感じられません。設計した佐藤秀三ってどんな人?
係員さん「日光のプリンスホテルを設計しました」

多分ご主人の寝室として作られた、建物で一番いい部屋だと思うけども、質問しても係員さんが答えられない質問だろうからさ。想像です。ちなみに、上の画像は、この部屋から芝庭を見下ろしたところです。

畳の部屋の隣にバスルームがあります。
実は接収時代にアメリカの将校が改築しちゃいました。バスタブを広く。

洗面台を高く。背が高いアメリカ人が使い勝手がいいように。
ちなみに、バスルームに残る青い古い蛍光灯。
係員さん「パナソニックの前身・松下電気産業時代の蛍光灯です。焼け残ったので、再利用しました」

俣野別邸の見取り図です。
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