呼吸が止まり、心臓が止まり、代謝が停止し、
肉体を構成していたものが全て不可逆的に
滅んでいくのが死である。
脳死は脳のみが不可逆的な滅びに向かった状態で、
いわば部分死である。
しかるに、人として生きることはもうできない。
意識を取り戻すこともない。
その生体を維持することができるだけである。
ここに臓器移植を可能にするために脳死を死とする
定義づけが必要となった。
脳死は、人の死であって、生体の死ではない。
さて、死という不可逆的な崩壊に向かうとき、
いわゆる生体としての苦しみはあるはずである。
意識も感覚もなくなる以上、苦しみというのは
おかしな言い方だが、確かに崩壊の苦しみはある。
人の死に際して、「安らかに」というのは、
直後ではなく、その崩壊の苦しみから
解き放たれて、風塵となった時にこそふさわしい
言葉ではないか。
これをもってしても、生命の誕生と死というのは、
いわゆる、オン・オフではないのである。
現代では火葬が主流で、どうもこの感覚が
理解しがたいであろうが、土葬や、掘り返しの
風習が残る地では、本当の「安らかに」が
根付いているのである。
肉体を構成していたものが全て不可逆的に
滅んでいくのが死である。
脳死は脳のみが不可逆的な滅びに向かった状態で、
いわば部分死である。
しかるに、人として生きることはもうできない。
意識を取り戻すこともない。
その生体を維持することができるだけである。
ここに臓器移植を可能にするために脳死を死とする
定義づけが必要となった。
脳死は、人の死であって、生体の死ではない。
さて、死という不可逆的な崩壊に向かうとき、
いわゆる生体としての苦しみはあるはずである。
意識も感覚もなくなる以上、苦しみというのは
おかしな言い方だが、確かに崩壊の苦しみはある。
人の死に際して、「安らかに」というのは、
直後ではなく、その崩壊の苦しみから
解き放たれて、風塵となった時にこそふさわしい
言葉ではないか。
これをもってしても、生命の誕生と死というのは、
いわゆる、オン・オフではないのである。
現代では火葬が主流で、どうもこの感覚が
理解しがたいであろうが、土葬や、掘り返しの
風習が残る地では、本当の「安らかに」が
根付いているのである。