大学のゼミのテーマが、確か
"Cross Cultural Communication"
(異文化交流)
だったと思う。
ゼミでの結論は、異文化をまず認識し、理解し、
受け容れるということだった。
それぞれの文化というのは、民族、歴史、国土に
深く根差しているものなので、それを否定したり
廃したりする方向に向かえば、必ず争いが起こる。
それは狭い、特殊なものであるからこそ、
最も生活に密着したものとなっている。
ところが、そうした狭い特殊性の中にも、いわゆる
普遍性のあるものがあって、それはやはり異文化間の
交流がなければ発見されない。
その発見のためには、やはり狭い特殊性をまずは
受け容れることが不可欠となる。
日本の寿司は、新鮮な魚介類が獲れる国土と、
米を主食とし、様々な発酵による食文化があればこその
産物だが、これが今では普遍性をもって、”SUSHI”
として世界に受け容れられている。
しかし、フナ鮨のように、国内でも好き嫌いの分かれる
狭い特殊な文化は、握り寿司のような普遍性を持つことはない。
それでもフナ鮨は、日本の重要な鮨文化のひとつである。
仕事がら、様々な国の文化や習慣に触れるが、こちらの
道徳や常識を押し通すことは、ほとんどの場合、
不可能である。
そこに普遍性があるとすれば、人としての誠意であるとか、
寛容さであり、つまりは、異文化を認識し、理解しようと
努力し、その上で受け容れるということなのである。
思えば、ゼミという机上での研究から、現実社会での
実践的な経験と実証を積んできたことになる。
それは、それで、個人としては幸せなことなのだろう。
いや、交流によって友人の輪を広げてきたことは、
それ自体がかけがえのない財産となっている。
そのことにこそ、感謝するべきなのである。
"Cross Cultural Communication"
(異文化交流)
だったと思う。
ゼミでの結論は、異文化をまず認識し、理解し、
受け容れるということだった。
それぞれの文化というのは、民族、歴史、国土に
深く根差しているものなので、それを否定したり
廃したりする方向に向かえば、必ず争いが起こる。
それは狭い、特殊なものであるからこそ、
最も生活に密着したものとなっている。
ところが、そうした狭い特殊性の中にも、いわゆる
普遍性のあるものがあって、それはやはり異文化間の
交流がなければ発見されない。
その発見のためには、やはり狭い特殊性をまずは
受け容れることが不可欠となる。
日本の寿司は、新鮮な魚介類が獲れる国土と、
米を主食とし、様々な発酵による食文化があればこその
産物だが、これが今では普遍性をもって、”SUSHI”
として世界に受け容れられている。
しかし、フナ鮨のように、国内でも好き嫌いの分かれる
狭い特殊な文化は、握り寿司のような普遍性を持つことはない。
それでもフナ鮨は、日本の重要な鮨文化のひとつである。
仕事がら、様々な国の文化や習慣に触れるが、こちらの
道徳や常識を押し通すことは、ほとんどの場合、
不可能である。
そこに普遍性があるとすれば、人としての誠意であるとか、
寛容さであり、つまりは、異文化を認識し、理解しようと
努力し、その上で受け容れるということなのである。
思えば、ゼミという机上での研究から、現実社会での
実践的な経験と実証を積んできたことになる。
それは、それで、個人としては幸せなことなのだろう。
いや、交流によって友人の輪を広げてきたことは、
それ自体がかけがえのない財産となっている。
そのことにこそ、感謝するべきなのである。