ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

死んでもアル中

2014年08月29日 | ノンジャンル
アルコール依存症とは完治のない病気であり、
回復のみが可能である以上、当事者にとっては
死ぬまで、それなりの困難が伴う。

飲めば再発、飲まなければ余命を延ばすことが
できる。

世間一般でも同じことが言えるが、最も困難な
ことというのは、何事においても継続する
ことである。

概して、アル中となった以上は、自己中に
ならざるを得ない。
本人の理性が及ばず、ともかくお酒を飲むことしか
考えられなくなるのだから、その他のことは
どうでもよくなる。

病気であることを斟酌すれば、当事者には耳の痛い
話になるが、アル中イコール自己中である以上、
自分の回復のためだけの断酒は継続しがたい。

家族や、同じ病気の仲間や周りに対して、自身の
回復によってできることをしていくという
モチベーションがないと、なかなか継続は難しい。

アル中の克服、回復は、言わば自己中の克服でもある。
特に巻き込まれた家族にしてみれば、当事者のみならず
自身の回復も必要となる。
そして、その回復の時間は、当事者の3倍と見てよい。

今現在、断酒を継続している当事者は、ともすれば
これだけ自分が頑張っているのだからという考えに
陥りやすい。
それは、まだまだ自己中を克服できていないことになる。
つまり、本当の回復には至っていないのである。

何年断酒したかではなく、継続という困難に立ち向かい、
家族の回復を祈る中にこそ、自身の回復というものがある。

仮に回復のないまま死んだとすれば、それはもう家族の
回復の機会を奪うことになる。
自分は死んで終わりかもしれないが、家族は後の人生を
当事者が背負うべき以上の重荷を背負って生きていく
ことになってしまう。

回復のないアル中は、家族を巻き込み、苦しめるという点で、
死んでもなおアル中なのである。

たとえ死ぬ前のわずか一年でも断酒し、回復の兆しを家族に
見せ、人としての輝きを取り戻したなら、遺された家族は
必ず回復へと向かうと思われる。

アル中のまま、自己中のまま死んだなら、家族にしてみれば
これほどの不幸はない。

兎にも角にも、私が心の底から感謝しているのは、あの時に
命を落とさずに回復の道を歩き始められたことである。
家族に、特に子供たちに一生の傷を遺すことがなかったことを
今もなお本当に良かったと、胸をなでおろす思いでいる。

来年は断酒10年の年である。この10年の回復の度合いは、
家族にとっては3年分でしかないという認識で、
また日々を悔いのないように、できることを精一杯で
積み重ねていく。

これから先も、この「死んでもアル中」という言葉は
自身の胸に深く刻みつけておく言葉なのである。