ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

不惑

2012年04月09日 | ノンジャンル
繰り返し述べておくが、アルコール依存症というのは、
お酒をやめたくとも、やめられない、そして健康も、お金も
家族も、仕事も、社会的立場も失い続ける病気である。

無論、最後に失うのは自身の命であるが、それでも
やめられないから病気なのである。

まして、抗酒剤、医療をもってしてもその恒常的な回復を
望むことはできなかったのである。

共に飲まずにいようとの約束をした二人から始まった
自助グループによって初めて、この病気の回復の希望が
見出だされ、現在に至っては初期の医療による健康の回復と、
病識の獲得、抗酒剤による飲まない決意と習慣化、そして、
同じ苦しみを共有する仲間と共にやめ続けていく、
いわゆる三本柱によって、回復が可能と認識されて
きたのである。

医療現場では、せっかく元気になった患者がまた飲んで
ボロボロの姿で帰ってくる。

抗酒剤を飲んでいるふりをして、周りをだまし、
またお酒を飲む。

今度会うまで飲まずに過ごそうと約束した相手が、
飲んでしまう。

いずれの場合でも、飲んでしまった本人以上に当事者が
落胆し、失望する場合が多い。

だが、医療側にしろ、家族側にしろ、本人でない以上、
本当の意味での理解は難しい。

反面、本人同士の励まし合いの中で、一方が飲んでしまった
場合、もう一方に与える影響はかなりの大きさとなる。

だが、これもいわゆる初期の話である。

何度でも人を裏切り、何度でも人を失望させる病気なのである。
そういう病気であることを、まずは誰よりも自身が
知らねばならない。

結局は、いかに自分自身がこの病気を認識し、その上で
自分自身の人生をどう生きていくのかということに
尽きるのである。

医療側にいるなら、そのベストを尽くし、仲間であるなら
その形は様々であれ、その人が本当の意味で立ち上がる
きっかけを与え続けていけばよい。

その人が立ち上がろうとするのか、そのまま死んで
いくのかはその人自身の問題であり、その人の
自分自身に対する責任なのである。
言っておくが、これは責任であり、自由ではない。

病識が深まれば、自ずと自身の責任を自覚していく
ものである。

たとえその人が回復の道を歩めず、不遇のまま
亡くなったとしても、誰に責任があるわけでもない。

周りの者にとって病識を深めることは、本人の回復を
あきらめないことであり、本人の病識が深まるなら、
それは何度でも立ち上がるべき自身の責任を自覚する
ことなのである。

もう自分ひとりで、回復しても何の役にも立たないと
甘美な自己憐憫の酩酊の中にいたいのなら、そのまま
死ねばよい。

人はどんな立場であれ、社会において生きていくなら、
必ず自身の役目と責任があるものだ。

そこから逃げて、自由を主張するのは笑止である。
お酒を飲まないということは、もはや条件でも意志でもなく、
自身の責任のひとつなのである。

他人の断酒に責任など持ちようがないが、自身に確固とした
責任を持ったなら、逆に随分楽になると同時に、他人に
対しても「あきらめない」想いが強くなるものである。

仲間とは、自分を、互いをあきらめないことなのである。