ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

人の死

2010年07月16日 | ノンジャンル
人は生きていく中で様々な経験をし、その経験から学び、
成長していくものだが、死というものについては、
自ら経験した時には、その人の生きる時間が止まる。

つまり、死という経験の後がないのである。

こればかりは、他人の死を見て考え、学び、想像するしか
仕方がない。
死ぬのは他人ばかりなのである。 
自らが死ぬ時は、もはや死ということすら覚知できない。
まして後がないのであるから、その経験に学ぶこともできない。

他人の死に際して、自分は人とは違う、大丈夫、自分は
死なないなどと考える人はいない。
誰でも生まれた時点で、死は決定している。

他人の死を見て考え、学ぶのは、その決定した現実に
至るまで、自身がどう生きるのかということである。
死を考えるのは、如何に生きるかを考えるということである。

だが、この考える、学ぶということ自体に支障があれば、
他人の死など自身には何の意味もなさない。

アルコール依存症患者において、併発する内臓疾患など
身体的な障害はもとより、脳神経的な障害にまで至っていれば、
いかなる状況にも、まともな反応ができない。

死を待つだけの身となった病床の母親から、お酒を買う
お金欲しさにその指輪を抜き取って、質屋に走ったという
人もいる。
回復の後に、その時の自分を振り返るたびに、想像を絶する
自責の念に懊悩し続けていることであろう。

だが、その時は、ただ飲みたいだけであり、それが全てで
あったはずである。
病床の母親の姿も、その死も、彼の断酒のきっかけとは
ならなかった。
そういう病気なのである。

ただ、いくら懊悩しようと、今、彼は少なくとも人として
生きていけるのである。
この病気は、人を人でなくする。そして、人でないまま、
死んでいくことが非常に多いのである。

どれほど苦しかろうと、いかに生きるかを考え、人として
死を迎えるなら、彼は幸せであると、私は断言する。

苦しくて、辛くて、悲しくて、死にたいのは、
生きて、楽しい、嬉しいという、喜びを感じたいという
ことなのだ。

貧しくとも、地位も名誉もなくとも、心から笑えることが
あって、生きていてよかったと思うことがあるなら、
生きる値打ちは十分なのである。

人の死を見て、自身の生きるを考え、人として生き、
人として死ぬ。
何も特別なことではない。まともな人なら当たり前の
話である。

その、まともができることに幸せを感じ、感謝せねば
ならないと、自身を振り返りつつ思うのである。