種は、ひたすら、その時を待っている。
いや、待っているというのは真実ではない。
環境が整い、その時が来れば、自然に芽生える。
命の躍動を具体的に顕す、不思議な力を
その中に宿しながら、見た目は、ただの粒にすぎない。
芽を出せないうちは、死の状態で、気が遠くなるほどの
年月をそのまますごすこともある。
ひとたび芽を出すや、その不思議な力は、滔々と
命の営みを具体的に顕していく。
途中で枯れようとも、いつか大樹となり、花を咲かせ、
実を結ぼうとする潜在的なものは、枯れるまで
変わることは無い。
この潜在的な力を、人は意志と呼び、不思議と呼び、法と呼び、
真理と呼び、あるいは、哲理と呼ぶが、種にすれば、
どうでもよい事なのである。
ただ、人間だけが、その力の不可思議さを、考える事が
出来るにすぎない。
そして、同じ命の不可思議な力であっても、その営みを
無限に創造していけるのは、人間だけなのである。
人へと生じ、人に生まれ、人として生きるものにも、その奥底に、
この変わらない種の不可思議な力が確かに存在する。
死せる種が、芽生えによって生へと転じ、また死へと向かうその
脈々たる流れが、確かに存在する。
考察を拡げれば、一粒の種に存在するこの力は、森羅万象の脈動に
通じるものとも言えるのだ。
その種と同じものを持つ人間もまた然りである。
生きるという事、死ぬという事を覚知した人間に生まれた以上、
その確かに存在する不可思議な力を認識し、存分に発揮して
生きたいものである。
命というものを認識できるからこそ、そこに命をもてあそぶ
驕りがあってはならない。
命に対する敬虔な慈しみと、その根幹となる、感謝が無ければ
ならないのである。
いや、待っているというのは真実ではない。
環境が整い、その時が来れば、自然に芽生える。
命の躍動を具体的に顕す、不思議な力を
その中に宿しながら、見た目は、ただの粒にすぎない。
芽を出せないうちは、死の状態で、気が遠くなるほどの
年月をそのまますごすこともある。
ひとたび芽を出すや、その不思議な力は、滔々と
命の営みを具体的に顕していく。
途中で枯れようとも、いつか大樹となり、花を咲かせ、
実を結ぼうとする潜在的なものは、枯れるまで
変わることは無い。
この潜在的な力を、人は意志と呼び、不思議と呼び、法と呼び、
真理と呼び、あるいは、哲理と呼ぶが、種にすれば、
どうでもよい事なのである。
ただ、人間だけが、その力の不可思議さを、考える事が
出来るにすぎない。
そして、同じ命の不可思議な力であっても、その営みを
無限に創造していけるのは、人間だけなのである。
人へと生じ、人に生まれ、人として生きるものにも、その奥底に、
この変わらない種の不可思議な力が確かに存在する。
死せる種が、芽生えによって生へと転じ、また死へと向かうその
脈々たる流れが、確かに存在する。
考察を拡げれば、一粒の種に存在するこの力は、森羅万象の脈動に
通じるものとも言えるのだ。
その種と同じものを持つ人間もまた然りである。
生きるという事、死ぬという事を覚知した人間に生まれた以上、
その確かに存在する不可思議な力を認識し、存分に発揮して
生きたいものである。
命というものを認識できるからこそ、そこに命をもてあそぶ
驕りがあってはならない。
命に対する敬虔な慈しみと、その根幹となる、感謝が無ければ
ならないのである。