「私の親は案外ハイカラでね。自分が子供の頃、お誕生日会なるものを開いてくれたんですよ。友達を家に呼んで、友達はプレゼントを持ってきてくれるんだけど、一回友達の一人が持ってきてくれたものに、“絞めたトリさん”っていうのがあって・・・。」
先日お会いしたM氏の話-これは時間がたった今でも噴出さずにいられません。
現在60歳のM氏が子供の頃で、彼が覚えているということから、それは1960年前後の話でしょう。戦後の食糧難の時の話ではないですから、“絞めた鶏”というのは中々インパクトのあるプレゼント。
鶏を差し出されて驚いている彼と彼のお母様、そしてまわりでポカーンとしているお友達の様子が漫画チックに思い浮かんできてしまいます。
(結局鶏の捌き方を知らなかったM氏のお母様は、羽がついたままの鶏を持って近所を訪ねまわり、捌ける人を探したそうです。お陰で、鶏の三分の一はその家に。)
当時珍しかったお誕生日会-子供が招かれたものの、何を持っていって良いのか分からなかったお友達の親御さんの苦肉も策かもしれません。
50年経ってもしっかりとM氏に刻みつついたトリさんの思い出、プレゼントを持ってきてくれたお友達のことはうろ覚えになっても、トリさんの話は忘れられることなく、言い伝えられていくことでしょう。
さて、この話のきっかけは、M氏がアメリカ時代に良く食べたロブスターの話から。
アメリカの東海岸に赴任していたM氏は、現地でよくロブスターを買ってきては、お刺身にしたり(はさみの部分はお刺身のできないとのこと)、茹でて食べたそうです。
ロブスターは、貝と同じように生きたまま買ってきて、生きたまま調理します。この話にはお料理大好き、そしてグルメの友人Tも目を輝かせます。
「生きたまま熱湯の中にほおり込むのって、良心の呵責を感じないのかしら。動物愛護団体などで「残酷だ」と言う人はいないのですか?」と尋ねる私に、
「ロブスターはイルカと違って知能が高くないから、良いんじゃない?」と皮肉っぽくM氏。
「死んだものだと味が落ちるよ。」と「コイツは何を言い出すんだ」と言う目を私に向けるT。
そんなに美味しいものを食べる為なら殺生も恐れない人間だったら、鶏ぐらいなら絞められるのかと思って訊いてみると、彼らもさすがにそれは駄目と答えます。
(そこから冒頭の話に。)
それにしても、鶏とロブスターの命の重さってちがうのだろうか-。
鶏を絞めるのはまず無理としても、絞めた鶏を前にして怯える人間でも、生きたロブスターを熱湯の煮えたぎる投げいれることも、魚の生き造りも「単なる食べ物」としか思わない人は多いでしょう。
人間とは、やはり不可解で、自己中心的な生き物です。
暴露話:M氏は、理科の授業で解剖した蛙の足を、アルコールランプで炙ってかじってみたそうです。