Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

『年の終わりに-2023年』 by M氏

2023年12月24日 | 友人・知人

今年もM氏の「年の終わりに」が届きました。

昨年のものは下のブログ記事でで、それ以前のものも末尾にリンクが貼ってありますので、是非ご覧ください。

『年の終わりに-2022』 by M氏 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

皆様;  

色々なことがあった今年、2023年も残りわずかとなりました。決して平穏な1年ではありませんでした。昨年勃発したロシアのウクライナ侵攻は、まもなく2年となろうとしますが、膠着状態が続いています。幸いにも、今までのところロシアによる「核」の使用はされていませんが、今までも、そしてこれからも、その恐怖が世界を覆っています。この恐怖が杞憂に終わって、来年こそ休戦が実現することを期待します。

そのような中で、イスラエルとパレスチナ(ガザ地区を実効支配するハマス)との間で悲惨な戦争がはじまりました。長年にわたって、小生は「パレスチナ問題の公正な解決こそ、世界平和実現の礎」と述べてきましたが、今回の事態は明らかに逆方向に向かうものです。1993年のオスロ合意で示された和平への道筋について、この30年間、当事者はもとより、日本を含む国際社会全体が、その実現にむけての努力を怠ってきました。イスラエル側、パレスチナ側それぞれに様々な事情や言い訳などあろうと思いますが、明年こそ、国際社会全体の力で、和平が実現することを切望します。

 最近、年をとってきたせいもあって、歴史に思いを巡らすことが多くなりました。今年2023年は明治維新(1867年)から数えて156年です。そのちょうど中間地点が太平洋戦争終結の1945年です。明治維新の年に生まれた人が1945年には、まあだいたい平均寿命の78歳。その人の孫かひ孫で、1945年に生まれた人が今年同じく78歳になります。要するに、日本の近・現代史全体をこの二人の人が眺めてきたこととなるわけで、明治維新以降現在まで随分長い時間がたったようですが、見方によっては、二つの世代でカバーできる程度の短さなのかもしれません。

この二人の見てきた世界は全く異なったものでした。科学文明の進歩や民主主義の変遷などいろいろありますが、最も大きな違いは「戦争」です。戊辰戦争・西南戦争という二つの内戦から始まり、日清戦争(1894)、日露戦争(1904)、第一次世界大戦(1914)からシベリア出兵(1919)、満州事変(1931)、日中戦争(1937)そして太平洋戦争(1941)。絶え間ない戦争により対外膨張してきた日本の歴史は、広島・長崎への原爆投下という悲惨な最後となった1945年8月、一区切りを迎えました。それ以降78年間、日本は一度も戦争に参加したことがありません。小生は1949年生まれなので、概ねこの世代に該当しますが、「戦争を知らない世代」と言われて過ごしてきたこの74年間を僥倖と思いつつ、同時にそのような平和国家に生まれ育ったことを誇りにも思います。

 この78年間の半分くらいまでの間、1980年代後半くらいまでに、我が国は「軽武装経済国家」として、日米安保体制のもと、驚異的な経済成長を達成しました。廃墟のなかから立ち直り、日本のGDPは米国に次ぐ世界第2位となり、その米国との間で、自動車や半導体をめぐっての経済摩擦まで起こすほどの実力を誇るまでになりました。それからほぼ40年たちましたが、、日本経済は長期的な停滞に陥り、あっという間に中国に抜かれ、そして今年はドイツにも抜かれてGDP世界第4位に転落するとみられています。今年の出生者数は70万人台前半とみられていますが、この数字は小生の生まれた年の270万人の4分の1に過ぎません。このように人口が継続的に減少する国家のGDPが低下していくのは、当たり前で、驚くほどのことはない。問題は、そこに暮らしている人々が、総じて日々不安なく穏やかに暮らせるかどうか、ということにあります。

かつてのような高度成長は望めないとしても、我々に続く世代のために、少しでも成長・前進する社会にしたいと考えております。  戦後78年の前半部分の高度経済成長の要素としてなにがあったのか。ベビーブームから始まる人口増加と着実な所得と需要の伸びが基本にあったわけですが、小生は、それ以上の「何か」があったのでは、と考えてきました。その一つが「大戦で生き残った世代の悔悟と贖罪、そこからの粘りと頑張り」だったろうと、ずっと思っていました。

たまたま10月25日NHKで放映された「映像の世紀バタフライエフェクト 零戦 その後の敗者の戦い」を録画して視聴しました。戦前・戦中の官民の軍事産業開発・研究に携わっていた技術者たちが、敗戦の口惜しさを乗り越えて戦後の平和産業に身を挺して貢献した姿が描かれています。海軍の零戦の設計をした堀越二郎氏は、戦後最初で最後の国産旅客機YS11の開発に携わりました。その他、国鉄の新幹線、オリンパス工業の胃カメラ、スバル360をはじめとする自動車産業などに旧軍の理系技術将校が戦後いち早く転身して、その若き頭脳を生かして活躍しました。小生の父も、その一人で、1943年9月東京文理科大学(現:筑波大)物理学科(のちのノーベル賞:朝永振一郎教授門下)を繰り上げ卒業して海軍の技術研究所にはいり、潜水艦ソナーの開発に携わっていた時、中尉で終戦を迎えました。

ただちに旧国鉄の技術研究所に入所し、その後金属材料と物理試験の分野で、新幹線の線路(レール)や車両の開発に従事しました。64年の新幹線開業後も、そのメンテナンスとアップグレードに不断に携わるとともに、草創期のリニア新幹線開発にも関わり、1972年に退職しました。父に言わせると「旧陸軍は、理系も文系もひとくくりで使い捨てにしていた。しかし旧海軍は理系の学生の命を尊重してくれて、戦地には派遣せず、内地に、それも研究開発要員として残してくれていたように思う。」ということでした。確かに前述のNHKの番組でも圧倒的に海軍系の逸話が多い。

なお、番組の途中で旧海軍技研から鉄道技研に移った人々20人ほどの集合写真が出たのですが、その中に若かった父の顔を発見して驚きました。父(1920年生まれ)は、生前よく「小学校(長野県戸倉町;現千曲市)の同級生のうち女子はほとんど生きているが、男子のうち相当な人数が徴兵されて戦死した。」と悔しそうに語っていました。同級生が徴兵されて戦死、などということが、その時代にはあたりまえのことだったのです。小生の父母の世代は、そんな口惜しさと、生き残った者としてのある種の使命感のようなものなどに駆られて、戦後の経済成長時代を必死に生きてきたのです。我々の世代以降には、どうやら、それはありませんでした。

バブルがはじけて、日本経済が長期の衰退に入った90年代初めころは、ちょうど我々の父の世代が官民のトップから退いたころでした。官民ともに、その次に続く世代(我々自身も含む)がバブルの時代の堕落した風潮にうかれて踊ってしまったのか。90年代に頻発した多くの経済犯罪やサラリーマンのモラル失墜行為などは、その表れだったのかもしれない。  その結果、どうなったのか。マクロ経済面(GDP)での凋落はもちろん、ミクロ(個別企業)面でも凋落は明らかです。1989年の世界時価総額ランキングトップ50には、32社の日本企業が名を連ねていたが、2022年ではトヨタ(31位)1社のみで、今年2023年には(円安のせいもあり)トップ50から日本企業の名前が消えるようです。この間、時代をリードしてきたICT産業興隆の波に乗れず、ハード面(半導体・電子機器)でもソフト面(GAFAなどのICTプラットホーム産業やAI開発など)でも、欧米や中・韓・台の後塵を拝するようになりました。

今年最もショックだったのは、三菱重工(三菱航空機)が、この20年間心血を注いで開発してきたMRJ(三菱スペースジェット)からの完全撤退を発表したことです。天下の三菱が、世界中で華々しく数多くの先行受注をしながら、商業生産開始をずるずると遅らせ、結局米国での型式証明の取得の目途も立たず、開発費(累積赤字)の負担に耐え切れず事業を放棄しました。同じ三菱が開発している次世代ロケットH3の相次ぐ打ち上げ失敗の件も気がかりです。また、自動車産業では、日本企業はハイブリッドにこだわるあまり、完全EV車の開発に遅れました。ガソリンエンジン車の延長にあるハイブリッド車は、構造が複雑で、完全EVより多くの部品が必要。日本の自動車メーカーがその系列下請け部品メーカーに対して過剰な気配りをしたがゆえに、完全EVへの転換に遅れをとったようです。

 嘆いてばかりではいけません。とにかく次に続く世代のために、前に進まなければ。4年前、まだコロナの影も形もなかったころ「年の終わりに 2019」で、小生は二つの大きな可能性を提示しました。一つが「観光立国日本」でした。今年、コロナの5類移行後、世界的に日本旅行ブームが起きているようで、日本への入国者はコロナ前の水準に近づいています。福島処理水の問題で、中国からの観光客が伸び悩んでいるにも関わらず、円安の追い風を受けて、その他の地域の人々の日本旅行が活況を呈しています。日本中の観光地に海外のお客様が来ている様子は好ましいものです。オーバーツーリズムの懸念が指摘されていますが、これは、お迎えする側が決して言ってはいけない言葉です。

日本が誇る、日本にしかないものがあります。長い歴史を持つお城や神社や仏閣。四季折々の美しい自然、特に春の桜に秋の紅葉と冬の雪景色。一年中緑に覆われた山がちの美しい国土と、きれいな空気と水のある風景。富士山、阿蘇山、屋久島、薩摩富士(小生の一番好きな山)その他もろもろの名山。沖縄を筆頭とする美しい海。アニメやゲームなどの独自の新しい文化。そして何よりも世界一多様で美味しい食事と、多くの人々が持つ「おもてなし」の心。基本的な観光資源は既に十分揃っています。またもう一度日本に来てみたいと思わせるよう、オーバーツーリズムなどということにしてはなりません。交通インフラの充実は当たり前のこと、それ以上に外国人旅行客が快適にすごせるような細かい気配りや工夫を。このあたりに地方自治体を含め、行政の出番があります。予算も重点的に振り向けてほしいものです。

もう一つは「農林水産物の輸出」です。中国が日本の水産物輸入を止めていますが、全体としては輸出が増えているようです。日本の「食」のレベルは極めて高く、またその素材(米・野菜・果物・海産物)の美味しさや安全性も世界一、と思っています。この分野をもっと伸ばすためには、たぶん農林水産物にかんする行政(一例は農協・漁協の問題)の抜本的な改革と、高齢化する担い手の更新と活性化が必要だと思いますし、またこの分野での民間企業(特に総合商社かなあ)の努力も必要です。この二つの他にも期待できるものがあるかもしれませんが、我々の子や孫の世代のため、とにかく明るい未来が開けるように願ってやみません。

(後略)

 

今日は、2015年1月に書いたブログ記事に書いた部分を思い出しました。

イランのハメネイ師のメッセージ、憎しみより理解を - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

抜粋:

昨年の夏、来日中のD氏を訪問したときに、彼が、
「昔は日本人のなかで、「戦争に負けてよかった」と言う人が主流だったのに。」とちらりと言いました。これは、「戦争に勝っていたら、日本の軍国主義は終わらなかったし、民主化もおこらなかった」という意味で、この時一緒にいた私より少し年上の友人が、「そうですね。口にする人は今はいなくなりましたね。」と頷きました。 

これを聞いた時私は、
「戦前の日本が続くことは当然いけないにしても、「戦争に負けてよかった」と口にする世界というのも、抵抗がありますけどね。無益な戦争で家族を失った人には聞かせたくないし。」
というようなことを言ったのですが、今は、「日本は戦争に負けてよかった」という気持ちがわいています。(今も口には出す気にはなりません。) 

ただし、これはD氏が差していた理由(こちらの方は、若干日本はあやしくなってきています。)だけではなく、日本が負けたことで、世界の国々の植民地が独立するきっかけを作ったこともあってです。 

それは、「日本は微力であっても、欧米とは違ったアプローチができる国」ということの再発見でもありました。


やはり、「日本は負けてよかった」
 とは、どんな意味でいったとしても、言われるべきでも、言っていいものではないですね。

 

参考:

人間爆弾「桜花」と新幹線0系、その数奇な関係 殉職したはずの「発案者」、実は生きていた | 新幹線 | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)

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