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世界連邦運動とハンガリー-3(広島、長崎に投下された原爆とレオ・シラード)

2022年09月16日 | マイノリティ出身の成功者・欧州連邦主義

世界連邦運動とハンガリー2(チャーチルの著作権代理人Emery Reves) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

から、Emery Revesの『平和の解剖学』に触れました。

The Anatomy of Peace - Wikipedia

この本の初めには、要人たちの署名された文章があります。

「最初の原爆は、広島の街以上のものを破壊しました。 それはまた、受け継がれてきた時代遅れの政治思想を爆発させました。 自然の力が歴史上初めて試される数日前に、サンフランシスコ憲章がワシントンで批准されました。 国際連盟の夢は、26 年後に上院に受け入れられました。 国連憲章はいつまで続くのでしょうか? 運が良ければ世代? 世紀? 憲章、自分自身、自分の仕事、そして自分の子供たちの子供たちのために、少なくともそれだけの幸運を望んでいない人は誰もいません。 しかし、Peace by Luck だけで十分でしょうか? 法による平和は、私たち自身をはじめ、世界中の人々が望めば持つことができるものです。 そして今がそれを手に入れる時です[3]。」

だから、世界平和のために世界政府、世界連邦が必要・・・

広島と長崎の原爆は、「世界連邦を作る」口実にされているような気がしてしまいます。

 

広島、長崎へ投下した原爆-これらを開発した学者たちにはユダヤ人が多いですが、「ドイツより先に原爆を作らねば」と米国に提言したといわれるレオ・シラード。

彼もユダヤ系ハンガリー人でした。

レオ・シラード - Wikipedia

レオ・シラード(Leo Szilard,[注 1] ハンガリー名: Szilárd Leó [ˈsilaːrd ˈlɛoː], 1898年2月11日 – 1964年5月30日)は、原子爆弾開発などに関わったハンガリー生まれのアメリカのユダヤ系物理学者・分子生物学者。カナ表記ではジラードとも。

アインシュタインを通じたルーズベルト大統領への進言によって原子爆弾開発のきっかけを作った人物として知られる。原爆開発の開始に大きな役割を演じたにも関わらず、第二次世界大戦末期には日本への無警告の原爆投下を阻止しようとして活動した点をもって、「良識派」と見なされることが多い反面、科学史研究家の中には、こうした見方を否定する研究家もおり、科学史上の評価は割れている[1]。戦後は、核軍備管理問題に関して積極的な活動を続けた。一つのことを突きつめ業績を積み上げるよりも、知的放浪者として広い分野で創造的なアイデアを生み出すことを楽しみ、熱力学や核物理学から分子生物学に至る科学的研究に止まらず、社会的活動や政治的活動にも積極的に関わった。

1939年、アインシュタインにルーズベルト大統領へ核開発を促す有名な書簡(アインシュタイン=シラードの手紙)を送ることを依頼したのをはじめ、シラードは他の科学者や有力者との接触によっていくつかの活動を影で支援した。

(中略)

1898年、当時のオーストリア=ハンガリー帝国、ブダペストで土木技師の父ルイ・シュピッツ (Louis Spitz 名-姓)[注 4]と母テクラ (Tekla) の間の3人兄弟の第一子として生まれた。レオが2歳のとき政府による改名圧力のため家族は姓をハンガリー風のシラード (Szilárd) へと改めた[24]。母方の叔父ヴィドル・エミル (Vidor Emil 姓-名) は後に有名となった建築家であり、レオはヴィドルの最初の作品である大邸宅で母の両親・姉妹家族とともに少年期を過した[25]。家庭での教育を経て1908年、8年制の技術系高等学校へと入学した。この頃、ハンガリーで広く教えられていたマダーチ・イムレ (Madách Imre 姓-名) による古典的劇詩『人間の悲劇』(Az ember tragédiája)[26]から大きな影響を受けた。この話では、アダムがルシファーに導かれ天地創造から未来の氷河期までの人類の歴史を旅し、人類は破滅を運命づけられており、人生とは無意味なものであることを説く内容であった[27]。

1914年7月、16歳のときに第一次世界大戦が始まると、すぐさまこの戦争がオーストリア=ハンガリーとドイツの同盟国側、および連合国の一翼のロシアの敗北によって終わらねばならないと周囲に公言していた。また、兵士を満載した輸送列車を見て素直に「熱狂はあまり見えないけど、酔っ払いなら大勢見える」と指摘したことで、無神経な物言いであるとたしなめられた。後年、シラードは「判断の明晰さはいかに感情に捕らわれないでいられるかの問題であり、このとき以来、不誠実であるよりは無神経であることを選択しようと決心した」と回想している[28]。卒業後、ハンガリーで行われていた「エトヴェシュ物理学コンペティション[29]」で全国2位を獲得している[30]。

(中略)

ようやく開始されたマンハッタン計画であったが、シラードが計画に公然と異議を唱えだすのに時間は掛からなかった。科学者を小さなグループに分け、意見交換を禁止した計画の秘密主義的な運営は、知的放浪者としてのシラードの性質とは相容れないものであり、シラードは度々その機密保持上の要請を無視した。コンプトンは1942年10月には早くもシラードを研究所からはずそうとしたが、シラードと親しい同僚の反発を恐れて思いとどまっている。アメリカが原爆開発に遅れを取っていてはドイツに負けるというシラードの長年の訴えは、これより前の1940年にすでにシラードを海軍情報局の監視対象としていた。

(中略)

シラードは計画への物理学上の興味を失い、計画と爆弾の政治上の問題にのめりこむようになった。1944年1月には、ブッシュへの書簡の中で依然計画の遅れに不満を述べている。シラードは、その理由に戦後の国際的核管理体制構築の必要性を持ち出しているが、この時点では原爆の使用に関してブッシュとの違いはなく、次のように述べ、原爆が使用されなければ原爆を管理する国際的合意に至らないかもしれないとも訴えている。「高性能の原爆がこの戦争で実際に使用され、大衆の心にその実際の威力が深く浸透するのでなければ、そうした政治的行動を取ることは難しいものとなるでしょう。おそらくはそれが私にとって、自分の周りで起こっていることに苦しんでいる大きな原因なのです。」[73]

実戦使用阻止の試み
計画後半になると冶金研究所には時間的余裕が生じ、1945年に入るころには原爆の持つ社会的・政治的意味についての議論が研究者の口に上るようになっていた。1945年3月には、連合国のストラスブール占領によってナチスの原爆開発の脅威はないことが明らかとなった。これはシラードらにとって思いがけないことであり、シラードらにとって働いてきた目的を失わせるものであった。同じ頃東京大空襲など日本に対する大規模な焼夷弾爆撃が開始されており、原爆は日本に対して使用されるのではないかとの懸念が広がった[74]。

(中略)

原子爆弾開発における先導性に限らず、戦後のさまざまな活動でもシラードは積極性を失わなかったが、その自由奔放で、ひと時もじっとして居られない短気で自己中心的な性格は、それらを現実のものへと押し出す強力な力となるとともに、ときに軋轢を生み出しもした。こうしたシラードへの評価は人により、また同一人物の中でも大きく分かれることになった。

ピューリッツァー賞を受賞した『原子爆弾の誕生』(The Making of the Atomic Bomb, 1986年) の著者のリチャード・ローズは、シラードが「国家の運命の予言者であった16歳から H・G・ウェルズと出版権を交渉し開かれた策略家となった31歳までのどこかで、彼自身の『開かれた策略』を抱いた」のだろうとする。彼の抱いたその世界を救うという目的のためには、シラードは他者への辛辣さもいとわなかった。

(中略)

 

『エンリコ・フェルミ』 (chiba-u.jp)

マンハッタン計画 - Wikipedia

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