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ハプスブルク帝国の敵-1(ズリンスキ=フランコパン陰謀)

2022年11月03日 | トリエステ・オーストリア・ハンガリー帝国

たまたま、ワルド―派関係で調べていたとき(ワルド―と関係のあるEberhard Ludwig (Württemberg) – Wikipedia、とその愛人Wilhelmine von Grävenitz – Wikipedia)に見つけたものです。

調べていた二人とは直接関係がないのですが、「ハプスブルクの敵」の一つとして興味深いです。

意味もない偶然で、首謀者の名前が「ゼレンスキー」に似た「ズリンスキー」。

 

マグナート陰謀 - Wikipedia

ヴェシェレーニ陰謀(ハンガリー語:Wesselényi-összeesküvés [ˈvɛʃɛleːɲiˈøsːsɛˌɛʃkyve̝ːʃ])、ズリンスキ=フランコパン陰謀(クロアチア語:Zrinsko-frankopanska urota)またはマグナート陰謀(ドイツ語:Magnatenverschwörung)は、17世紀のハンガリーで起きた陰謀事件。ハンガリーからハプスブルク帝国その他の諸外国の支配を排除しようとして計画された[1]。このクーデター計画の原因となったのは、共にハンガリーの隣接地域を支配する神聖ローマ皇帝レオポルト1世とオスマン帝国との間で1664年に結ばれた、さほど有名でないヴァシュヴァールの和約であった。反乱における組織力の貧弱さのため、ハプスブルク帝国政府は敵対者を容易に弾圧することが出来た。陰謀の名前はハンガリー貴族のヴェシェレーニ・フェレンツ伯爵(hu:Wesselényi Ferenc [ˈvɛʃɛleːɲiˈfɛrɛnt͡s])に、あるいはクロアチア貴族のニコラ・ズリンスキ伯爵、ペータル・ズリンスキ伯爵およびフラン・クルスト・フランコパン伯爵に因んでいる。

(中略)

陰謀の最初の首謀者となったのは、この戦争でハプスブルク軍の司令官モンテクッコリと一緒にハンガリー軍を率いたクロアチア副王ニコラ・ズリンスキであった。ズリンスキはヴァシュヴァールの和約締結の時期までに、ハンガリーから諸外国の影響を排除しようと計画し始めており、国民は国家によって利用されるのではなく保護されるべきだという考えを抱いてもいた。ズリンスキはさらにハンガリー独立のため、クロアチア人とトランシルヴァニア人の加わった連合軍を結成しようという構想を持っていた[5]。ところがズリンスキは和約が締結されたその月のうちに、狩猟中に野生の猪に襲われて頓死した。ニコラ・ズリンスキの弟ペータル・ズリンスキとヴェシェレーニ・フェレンツが陰謀の新たな中心的存在となった。

陰謀の参加者たちはハンガリー独立ばかりかハプスブルク帝国の排除までも狙うようになり、外国の支援を得ようと試みた。陰謀者たちはフランス、スウェーデン、ポーランド・リトアニア共和国、ヴェネツィア共和国といった諸外国と、支援要請のための秘密交渉を始めた。ヴェシェレーニと配下の大貴族たちはオスマン帝国に協力の打診を行い、ハプスブルク帝国を国内から駆逐してもらった暁には、ハンガリーはオスマン帝国内で形式的な自治に甘んじる、という条件まで提示した。しかし、彼らに協力する政府は無かった。スルタン・メフメト4世もレオポルト1世と同様、さらなる紛争を起こす気はさらさら無かった。それどころかスルタン宮廷は1666年、レオポルト1世に対して陰謀の存在を知らせたのである。

レオポルト1世は既に陰謀の存在を疑っていたが、スルタン宮廷からのリークによって陰謀は確信された。オーストリア側はいくつかの貴族グループの中に密告者を抱き込んでおり、彼らは陰謀を企む一味が大々的に国内外の支援を取り付けようと必死に活動していることを聞きつけていたのだった。しかし、謀反者たちはほとんど目立った動きを見せておらず、実際に行動に出る可能性も低かったため、当局は彼らに手を出さなかった。レオポルトは彼らの策動は中途半端な計画に過ぎず、本気で事を構える気は無かろうと高を括っていた[6]。謀反者たちは多くの陰謀を企てていたが、どれも実行に移されないままに終わっていた。1667年3月には、中心人物の一人ヴェシェレーニが死んだ。1667年11月、謀反者たちは皇帝本人を誘拐する計画を立てたが、実現に至らなかった。


ヴィーナー・ノイシュタットで斬首されるズリンスキとフランコパン

ブダのトルコ人総督(パシャ)からの支援を取り付けるのに失敗した後、ズリンスキと何人かの陰謀者たちは実行を諦めて隠遁生活に入った。一方、レオポルトはハンガリー人の支援を取り付けるため、依然として彼らに(名ばかりの)自治を許していた。1671年、未だ活動を続けていた陰謀者たちの残党が皇帝に対する反乱を扇動し、オスマン帝国による侵攻を鼓舞する内容のパンフレットを配り始めると、事態は動き出した。彼らはまた王領ハンガリーに住む少数派のプロテスタント住民にも蜂起を呼び掛けた。陰謀者たちの掲げる理念にハンガリー人の一部が呼応し始めると、当局は迅速な対応を見せた。1670年3月、ペータル・ズリンスキとその義弟フラン・クルスト・フランコパン、ナーダシュディ・フェレンツ(hu:Nádasdy Ferenc (főúr))ら首謀者たちは逮捕、処刑された。およそ2000人の貴族たちが捜査対象として逮捕された(下級貴族の大部分はこの出来事と関係はなかったが、レオポルト1世は将来同様の反乱が起きないように取り締まっておこうとした)。

当局による迫害はハンガリーとクロアチアの一般庶民に対しても行われ、ハプスブルク政府の兵士たちが両国に移ってきて居座った。プロテスタントの教会は、蜂起には武力で対処することを示すため、焼き尽くされた。レオポルトは陰謀を企てたことに対する報復として、ハンガリーの国法を停止した。この措置はその後10年間続き、王領ハンガリーが名目上とはいえ享受してきた自治はこれを機に終わりを迎えることになった。クロアチアでは、陰謀が計画されていた期間中にペータル・ズリンスキがクロアチア副王の地位にあったため、その後60年間クロアチア人は副王になれなかった。

(中略)

レオポルト1世は、領国の体制宗教であるローマ・カトリックに敵対するプロテスタントがもたらすと予想される脅威を根絶しようと考えた。そこで皇帝は陰謀露見から2年間のあいだ、陰謀に対する報復として、およそ6万人のプロテスタントにカトリックへの改宗を強制した。さらに、800のプロテスタント教会が閉鎖された。1675年までに、41人のプロテスタント牧師が反乱を教唆したとして有罪宣告を受け、公開処刑になった。

裁判と処刑が行われた後、陰謀に加担した大貴族の所領は奪われ、その家族たちは他地域に移住させられた。国内で最も勢威ある封建貴族家門とその経済支配の崩壊は、封建時代(ブルジョワ時代以前)では他に例をみないほど劇的な経済変動だったと言われている。ペータル・ズリンスキの妻アナ・カタリナ・ズリンスカと三人の娘は女子修道院で死んだ。ズリンスキ夫妻の一人息子イヴァン・アントゥン・ズリンスキは投獄されて激しい拷問を受け、苦しみのあまり発狂した状態で死んだ。母カタリナも同様の最期を遂げ、ズリンスキ一族の悲劇はクロアチアの運命をまさに象徴するものとなった。処刑されたズリンスキとフランコパンの遺骨は死後248年経った君主制の崩壊時までオーストリア・ハンガリーに留め置かれ、その後ザグレブ聖堂の地下聖堂に安置された。

 

仮置き:

ワルド派、ユダヤ人、ドナウシュヴァーベン - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ルートヴィヒスブルク - Wikipedia

ティミショアラ - Wikipedia

Grand Alliance (League of Augsburg) - Wikipedia

Charles Pfizer - Wikipedia

 

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