Various Topics 2

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ハプスブルク家の敵-2(エリーザベト・バートリは本当に変質者、連続殺人者だったか?)

2022年11月03日 | トリエステ・オーストリア・ハンガリー帝国

ハプスブルク帝国の敵-1(ズリンスキ=フランコパン陰謀) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

は、陰謀側からの見方です。

この陰謀のあとを引き継いだペートル・ザリンスキは死刑になる前に妻に向けて送ったという手紙。

クロアチア史上最も有名で切ない手紙 ~ 人生最後の日、何を綴りますか? - クロアチア観光・旅行サイトCROTABIクロアチア観光・旅行サイトCROTABI

手紙の部分をコピペさせてもらいました。

「愛しい君へ

この手紙を読んで、どうか嘆き悲しまないでおくれ。

明日・・・ああ・・・僕の愛しい人・・・君に告げなければならないなんて・・・!

明日の朝10時頃、僕たち・・・僕と君の兄上は首を失うことになる。

今日僕たちは今生の別れを交わした。

そして今、最愛の君に永遠なる許しを請うために、この手紙をしたためている。

これまでに、僕が少しでも君を傷つけたり、怒らせてしまった事があるのなら(よくわかっているつもりだ)、どうか僕を許してほしい。

死の覚悟はできており、恐れはない。

ただ、現世で私を見捨てた全知全能の神が、御慈悲をかけてくださることを願っている。

明日、神のお目にかかることが叶うなら、栄光の御座の前で祈りを捧げ、御慈悲を請おう。

君に、僕たちの息子に、この世に残してゆくあらゆるものに対して、どんな言葉を綴るべきなのか・・・もう僕にはわからない。神の御手に委ねることにしよう。

どうか哀れに思わないでほしい。こうなる他、どうしようもなかったんだ。

1671年4月29日、午後七時。我が人生最後の日、ウィーナー・ノイシュタットにて。

君たちすべて、そして僕たちの娘アウロラ・ヴェロニカに神の祝福がありますように。

(拙訳:小坂井真美)

これを書いたペーテル・ゼリンスキー、兄二コラは「死の伯爵夫人」と呼ばれたエリーザベト・バートリの甥だといいます。

今はむしろ、「エリーザベト・バートリ」は、ハプスブルク側によって、「死の伯爵夫人」のレッテル張り、をされたのではなかったか、と思えてきます。

 

バートリ・エルジェーベト - Wikipedia

抜粋:

バートリ・エルジェーベト(マジャル語:Ecsedi Báthory Erzsébet、ドイツ語:Elisabeth Báthory von Ecsed、スロバキア語:Alžbeta Bátoriová-Nádašdy、1560年8月7日-1614年8月21日)は、ハンガリー王国の貴族。史上名高い連続殺人者とされ、吸血鬼伝説のモデルともなった。「血の伯爵夫人」という異名を持つ[1]。

(中略)

バートリ家は16世紀から17世紀当時、トランシルヴァニア公国の中で最も有力な家門だった。エルジェーベトはエチェディ=バートリ・ジェルジ (Ecsedi Báthory György) とショムヨーイ=バートリ・アンナ (Somlyói Báthory Anna) の間に生まれる。ポーランド王位に就いてバートリ家の権勢を最大限に高めたバートリ・イシュトヴァーン9世(ポーランド王としてはステファン・バートリ)の姪に当たり、当時のトランシルヴァニア公やハンガリー王国の宰相も従兄弟である。

有力者が輩出する一方、エルジェーベトの近親者には悪魔崇拝者(叔父)、色情狂(兄弟)等と噂された者もいる。エルジェーベト本人も幼いときから感情の起伏が激しく、エキセントリックな性格を有していたという。これは一族が財産及び権力を保つ為に血族結婚を繰り返してきた影響だとも言われる。

エルジェーベトの外祖母テレグディ・カタリンと父ジェルジは又いとこに当たり、エルジェーベトの両親も血族同士の夫婦である。


ナーダシュディ・フェレンツ2世
1575年、エルジェーベトは5歳年上のハンガリー貴族ナーダシュディ・フェレンツ2世と結婚した。フェレンツの父親はフェルディナント1世の治世でハンガリー副王を務めたナーダシュディ・タマーシュだが、エルジェーベトの方が高い身分にあったため、結婚後もバートリ姓を名乗った。フェレンツは対オスマン戦争(英語版)におけるハンガリー軍の指揮官の1人であり、英雄として知られていたが、同時にその残虐さでも有名だった。

フェレンツはエルジェーベトの父方の高祖父エチェディ=バートリ・イシュトヴァーン3世の妹カタリンの来孫に当たり、エルジェーベトはフェレンツの母方の高祖父ドラフィ・ベルトランの異母妹ユリアンナの曾孫に当たり、フェレンツとエルジェーベトもまた血族結婚であった。

この結婚により6人の子供(3男3女:アンドラーシュ (András)、パール (Pál)、アンナ (Anna)、カタリン (Katalin)、ミクローシュ (Miklós)、オルショリャ (Orsolya)[2][3])が生まれた。長女のアンナは、ニコラ6世・ズリンスキ(英語版)伯爵の妻となる。次女のカタリンは、ホモンナイ=ドルゲト・ジェルジ(スロバキア語版)の妻となる。

エルジェーベトはラテン語・ギリシア語などの読み書きもできる教養豊かな女性で、戦争で留守がちな夫に代わって城と数百ホルド[4]の領地を含む荘園を管理し、諸外国に遊学する学生らの援助をした。

(中略)

一部の資料によれば、1609年にベンデ・ラースロー(Bende László)という名の貴族との再婚を望んだが、彼女の遺産の自分らの取り分を心配する親戚らによって妨害されたという。この時から彼女に対する誹謗中傷攻撃が始まる。彼女の従兄ショムヨーイ=バートリ・イシュトヴァーン(英語版)の息子でトランシルヴァニア公のバートリ・ガーボル(英語版)が彼を失脚させようと謀るウィーン宮廷(ハプスブルク家)の一部の勢力との対立を深めていた。エルジェーベトが逮捕・告発されたのはガーボルが対ハンガリー戦の準備を進めていた矢先のことである。最近の推測では、遺産相続人のいないまま未亡人となった彼女は、政治的な理由による思想的な領地裁判の常套手段の犠牲者であり、彼女の反ハプスブルク、親トランシルヴァニア的政策のために幽閉されたものとされる。

エルジェーベトの逮捕は、当時のハプスブルク家のハンガリー国王マーチャーシュ2世がエルジェーベトの夫に対して抱えていた負債を帳消にし、かつ有力なバートリ一族の権力を抑えるための計略であるとする主張が一族や子孫によってされている。確かに加害者の証言は拷問により得られたものであり、エルジェーベト自身は一切の犯行を否認している。しかし逮捕や取り調べには、バートリ一族の者も加わっている。権力闘争に係わる思惑により捜査が進められ、証言が誇張された可能性はあるが、事実無根と考える研究者は殆どいない。

同時期に名門エステルハージ家の分家に当たるハンガリー西部の大貴族イーレーシュハージ・イシュトヴァーン(ハンガリー語版)伯爵が偽装された罪状で所領没収にあっている。これはオーストリアの宮廷に多額の借款をしていた、ヘンケル・ラザルスという商人への返済に充てることを狙っての冤罪である。ハンガリーに一大勢力を持つバートリ家とナーダジュディ家(英語版)、更に言えば娘の嫁ぎ先でもあるズリンスキ家(英語版)まで含めた一大スキャンダルに巻き込もうとする意図があっても不思議ではない。またズリーニ家とナーダジュディ家もハプスブルク家に対し謀反を企てた容疑で、同じくクロアチアの大貴族フランコパン家(英語版)共々当主が処刑されている。なお、ナーダジュディ家は後に子孫のナーダシュディ・フェレンツ(ハンガリー語版)がオーストリア継承戦争や七年戦争で軍功を立て貴族として復帰する。

16~17世紀頃、オスマン帝国とハプスブルク家の2大勢力の狭間にあって、封建領主としての絶対権を強めたマジャール貴族たちは、しばしば団結してハプスブルクによる支配強化に抵抗し、その中でバートリ家は大きな存在感を発揮していた。

エルジェーベトの伯父のトランシルヴァニア公バートリ・イシュトヴァーンは1575年、ハプスブルク家のマクシミリアン2世を退けてポーランド王位に就き、バルト海から黒海へと至る一大東欧帝国の建設を企てたが、この野望はイシュトヴァーンが死去し凡庸な甥バートリ・ジグモンドが後を継いだため挫折した。バートリ・ジグモンドの顧問だったボチュカイ・イシュトヴァーンは1604年、反ハプスブルク派貴族に擁立されて反乱を起こし、1606年のウィーン和約でトランシルヴァニア公国の独立を承認させた。

ラーコーツィ・フェレンツ2世
17世紀半ばにはエルジェーベトの娘アンナの甥で対オスマン戦争(英語版)の英雄であったニコラ・ズリンスキ(英語版)が首謀者となりハンガリー独立を目的とする独立運動が起こる。しかしニコラは狩猟中の事故で死亡、ニコラの弟ペータル・ズリンスキ(英語版)が後を継ぐが、後に発覚し処刑されてしまう。そのペータルの娘が女傑ズリーニ・イロナ(英語版)である。イロナはトランシルヴァニア公ラーコーツィ・ジェルジ2世とバートリ・ジョーフィア(ハンガリー語版)の息子ラーコーツィ・フェレンツ1世の妻となり、後に17世紀後期の反ハプスブルク蜂起の指導者テケリ・イムレと再婚する。さらにイロナとフィレンツ1世の息子が、18世紀初頭の反乱軍の将となった英雄ラーコーツィ・フェレンツ2世である。

ハプスブルク家から見ればラーコーツィ家は反逆者の家系でもあり、エルジェーベトの事件の背景には、ハプスブルク家とマジャール貴族層の長年にわたる確執と政治的駆け引きが絡んでいた可能性は考えられる。

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