Various Topics 2

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パレスチナのヤセル・アラファト

2023年11月14日 | イスラエルのファシスト、シオニスト、他

中学のころから時々買っていた映画雑誌、「スクリーン」(時々「ロードショー」)。

70年代半ば、この雑誌には、セレブのパーティの写真に出席する映画俳優以外の写真も出ていました。俳優と一緒にくつろぐ、ジャクリーン・オナシスや若き日のドナルド・トランプ、そしてパレスチナ、PLOのアラファト議長。日本人ではデビ夫人など。

「パレスチナ人」と聞くと、私も含めて大抵の人は「貧しい」「難民」を思い浮かべます。実際、パレスチナには貧しい人たちが多いのですが、「パレスチナ」を率いるのは、昔も今も、貧しくないパレスチナ人。

パレスチナ人のアラファト議長がパーティに顔出ししていたころは、「豊かなパレスチナ人」の存在は意識できていましたが、アラファトのように派手なパレスチナ人が見当たらなくなって、「豊かなパレスチナ人」の存在を意識しなくなっていました。

さて、ヤセル・アラファトについて、改めてWikipediaから。

ヤーセル・アラファート - Wikipedia

ヤーセル・アラファート(アラビア語: ياسر عرفات‎(転写:Yāsir ‘Arafāt[3])、英:Yasser Arafat[4] 等 1929年8月24日 - 2004年11月11日)は、パレスチナのゲリラ指導者、政治家。パレスチナ国初代大統領[注釈 1]、パレスチナ解放機構(PLO)執行委員会議長などを務めた。報道等ではヤセル・アラファトの表記が多い。 アラファートは、長らくイスラエルに対する強硬派であり、多くの武装闘争を主導した。しかし、後に穏健路線に転じ、1993年にはイスラエルとの歴史的な和平協定を果たしてパレスチナ自治政府を設立する。これによって1994年にノーベル平和賞を受賞したが、イスラエル側で和平を主導していたイツハク・ラビンが暗殺されてからはイスラエルとの和平プロセスは停滞し、晩年にはイスラエルとの対立やパレスチナの内紛に苦しめられた。

(中略)

生涯
生い立ち
エルサレムのアラブ系スンナ派ムスリム(イスラム教徒)の名門フサイニー家に属する裕福な織物商家の7人中5番目の子として生まれた。アラファート自身は1929年8月4日にエルサレムに生まれたことを主張してきたが、同年8月24日にカイロに生まれたというエジプトの出生記録もあり[5]、彼の誕生日と誕生地は彼が生粋のパレスチナ人であったかという問題と絡んで議論の的となっている。

少年時代をカイロおよびエルサレムで送った後、カイロ大学で工学を学んだ。学生時代にはパレスチナ学生連合に所属し、1952年から1956年まで議長として活躍した。また、この時期にユダヤ人に興味を持ち、テオドール・ヘルツルの本を読んだり[6]、ユダヤ人街の礼拝に出席してそれを知った父親に殴られたこともあったという[7]。

(中略)

2003年3月19日にアラファートはアメリカ・イスラエルの圧力のもと和平推進派のマフムード・アッバースを初代首相に任命し[26]、アッバース内閣はテロ抑制と治安の回復を掲げ、テロ抑制に対するアメリカ・イスラエルや自治政府の民主化改革に対する国際社会の期待を担い、同年6月にブッシュ大統領、シャロン首相とヨルダンのアカバで会談し、アメリカの発表した平和のためのロードマップ(英語版)を実行することで合意した。

しかし、ハマスらによるテロは一向にやまず、事態は一層混迷を深めた。アラファートは警察や憲兵など複数の治安部隊を相争わせながら配下に置いており[27]、懸案の治安回復について改革を望む首相の代表する行政機関に自らが牛耳る安全保障部門を明渡すことを拒否した。この結果、同年9月6日にアッバース首相はアラファートに辞表を提出、アッバース内閣は半年に満たない短命に終わった。これ以降、和平交渉は再び停滞した。

(中略)

資産
アラファートが秘密裏に管理してきたとされる「パレスチナ資産」は総額四十億―六十億ドルにのぼり[34]、個人資産は4452億円あったとされている[35]。

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