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20世紀初めの亡命ロシア人-2(ユスポフ家)

2024年09月10日 | 欧州映画界ネットワーク

フェリックス・ユスポフの「ユスポフ」は、母親の一族の名を継いだようです。

この一族は元はイスラム教徒。

ユスポフ家 - Wikipedia

起源
ユスポフ家の起源は6世紀にまで遡り、イスラム教徒の最高指導者であるアブべキル・ベン・ライオック(Aboubekir ben Raioc)[注釈 1]によって創設されたとされている。アブべキルは、エミール・エル・オムラ(Emir el Omra)やカンなどの様々な称号を持ち、宗教的、政治的な権限を一体化させていた。また、アブべキルの子孫たちはエジプトやアンティオキア、コンスタンティノプールにおいても同様に、最高権力を行使した。そのうちの数名はメッカに埋葬されたという

(中略)

17世紀以降
ユスフの曾孫であるアブドゥル・ムルザは正教会へと改宗したことで、名をドミトリーと改め、ロシア・ツァーリ国のツァーリであるフョードルからユスポフ公の称号を授かった。

(中略)

ドミトリーの息子であるグレゴリー・ドミトリエヴィチ公(ロシア語版)は、ピョートル大帝の最も私的な顧問の一人であり、艦隊の再建や戦争だけでなく政治改革にも積極的に参加した[7]。

(中略)

ボリス・グリゴリエヴィチ公(ロシア語版)は、20歳の時にフランスに派遣され、海軍について研究し、皇帝の新しい顧問となった。女帝アンナの治世中には、モスクワ総督に任命され、女帝エリザヴェータの治世中には、帝国学校の校長を務めた。

(中略)

ニコライ・ボリソヴィチ公(ロシア語版)は、エカチェリーナ2世やパーヴェル1世、アレクサンドル1世、ニコライ1世の友人であり、顧問であった。1798年には、マルタ騎士団の最高司令官に任命された。また、ニコライ公は、ロシア国外で多くの時間を過ごしていたこともあり、多くの著名な人物と交流を深めた。その中でも著名なのに、ルイ16世やマリー・アントワネット、プロイセン王フリードリヒ2世、オーストリア皇帝ヨーゼフ2世がいる[10][注釈 5]。

(中略)

19世紀以降 ニコライ・ボリソヴィチ公(ロシア語版)は、露土戦争の際、軍に病院列車を提供するなど、慈善活動や福祉活動に関心を持っていた。

(中略)

1917年、 宮廷歯科医Kastritzkyによって、ニコライ2世からジナイダに向けて、「ユスポフ公女に会ったら、彼女がいかに正しかったか、今になって気づいたと伝えてほしい。私が彼女の言うことを聞いていたら、多くの悲劇的な出来事を防ぐことができたかもしれない。」という最後の言葉を伝えられたという[13]。 

1914年、フェリックス・ユスポフはニコライ2世の姪イリナ・アレクサンドロヴナ公女と結婚した[12]。結婚式はアニチコフ宮殿で行われ、イリナはマリー・アントワネットのヴェールとカルティエのティアラを身につけた。ロシア革命が勃発すると、ユスポフ夫妻は、イギリス国王ジョージ5世が派遣した戦艦マールバラに他の皇族と共に乗船した。戦艦は1919年4月11日にセヴァストポリからコンスタンティノープルに向けて出発し、夫妻はフランスに亡命した[14]。

 

ジナイーダ・ユスポヴァ(男性だとユスポフ)のwikipedia。

ジナイダ・ユスポヴァ - Wikipedia

ジナイダ・ニコラエヴナ・ユスポヴァ公女(ロシア語: Зинаи́да Никола́евна Юсу́пова, 1861年9月2日 - 1939年11月24日)は、ロシアの名門貴族ユスポフ家の女性相続人。グリゴリー・ラスプーチンの殺害者フェリックス・ユスポフの母親として知られる。

生涯

ジナイダは、タタールの雄エディゲの血を引くユスポフ家の最後の男系子孫として生まれた。父ニコライ・ユスポフ6世はニコライ1世の下で大法官を務め、母タチアナはグリゴリー・ポチョムキンの姪を母に持つ名門貴族出身だった。ユスポフ家は10万エーカー以上の広大な領地と多くの宮殿・工場・鉱山・油田を所有する名門であり、ジナイダもネフスキー大通りに巨大な宮殿を所有していた[1]。ジナイダは名門の令嬢として裕福な生活を送り、ロシア貴族社会で最も裕福な女性相続人として知られた。

ジナイダはモスクワ総督ニコライ・スマローコフ=エルストンの息子フェリックス・スマローコフ=エルストン(英語版)伯爵を伴侶に選び、1882年4月4日に結婚した。1891年に義父ニコライが死去すると、アレクサンドル3世によって、スマローコフ=エルストン家の遺産をフェリックスが相続することを許された。フェリックスは1904年にセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公の副官に任命され、1914年にはモスクワ総督に就任した。

ジナイダは帝政ロシア末期の貴族社会における花形であり、その美貌と惜しみない豪華なもてなし振りで有名だった。また、彼女は公の場でこそないものの、ニコライ2世の妻アレクサンドラ皇后への厳しい批判を繰り返していた。皇后の実姉でエリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃の親友であり、アレクサンドラに対し、ラスプーチンを信頼しないよう忠告したため、大公妃とともにラスプーチンからは「危険人物」とみなされた。彼女には長男ニコライと次男フェリックスの二子をもうけたが、ニコライは不倫相手の夫との決闘で死亡し、その後の彼女の人生に暗い影を落としている。

二月革命後、ジナイダは夫と共にローマで亡命生活を送ったが、夫を亡くしてからはパリに移り住み、同地で死去した。

宝石コレクション

1905年のユスポフ一家(左から次男フェリックス、夫フェリックス、ジナイダ、長男ニコライ) ジナイダはロマノフ家以上に裕福なユスポフ家の一員であり、莫大な財産と歴史的価値のある宝石を多数所有していた。

彼女はコレクションとして21のティアラ、255のブローチ、42のブレスレットなど数十万点の宝石を所有していた[2]。特に有名なコレクションとしては、16世紀に作られたラ・ペレグリナ・パール(英語版)「ポーラー・スター・ダイヤモンド」(41.28カラット)、「ラ・リージェント・パール」(世界第5位)、17世紀に作られた「ラム・ヘッド・ダイヤモンド」(17.47カラット)、「スルタンのモロッコ・ダイヤモンド」(35.67カラット、世界第4位)[3]、「マリー・アントワネットのダイヤモンド・イヤリング」(234.59カラット)[4]、「サファイアのブルー・ヴィーナス像」[5]、15世紀に作られた「ルビー・ブッダ」(70カラット)[6]が挙げられる。

これらのコレクションや金融財産は、ロシアから脱出する際に大半が放棄することを余儀なくされた。ジナイダは革命が収束してロシアに帰国出来ることを期待して、モイカ宮殿の秘密金庫にコレクションを隠したが、全てボリシェヴィキに発見され、1925年に売却され四散した。脱出の際に持ち出したいくつかの宝石も、亡命生活で困窮する自身や息子一家のために全て売却してしまった[6]。

 

ジナイーダのwikipediaには、彼女が亡命するときの様子、財産について、フェリックスのwikipediaにはこうなっています。

フェリックス・ユスポフ - Wikipedia

抜粋:

1917年の二月革命によりニコライ2世が退位し、ロマノフ朝は崩壊した。革命後、ユスポフはモイカ宮殿に戻り宝石や絵画を持ち出し、妻イリナたちが幽閉されているクリミアに向かい、家族と共にイギリス軍艦「マールバラ」に乗り込みロシアから脱出した。乗艦中、ユスポフは乗員たちにラスプーチンを暗殺したことを自慢していたという。

マルタに到着したユスポフ一家はイタリアに向かい、そこから列車でパリに向かい、イギリスに亡命した。イタリアではビザがないことを理由に出国を拒否されたが、モイカ宮殿から持ち出した宝石と引き換えに出国を認めさせた。1920年にロンドンからパリに戻り、1940年以降はパリ16区のオートゥイユ地区で暮らした。パリでは以前と同様の豪華な生活を送ると同時に亡命ロシア人に資金援助を行ったため慕われていたが、そのためにユスポフ家の財産を使い果たし生活は困窮した。

ユスポフは事業を起こしたが、商才のなさに加え世界恐慌が重なり撤退を余儀なくされた。

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