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映画『メトロポリス』が作られてから約100年-11(ナポレオンと新古典主義の建築家たち)

2024年02月07日 | 『メトロポリス』から約100年

「超高層」までとはいかないですが、そもそも「高い建築物」を作るきっかけは、大聖堂ではなかったでしょうか。

フランス革命が起こって、教会、大聖堂には被害が出たものもありました。

ノートルダム大聖堂 (パリ) - Wikipedia

抜粋:

ノートルダムの敷地は、ローマ時代にはユピテル神域であったが、ローマ崩壊後、キリスト教徒はこの地にバシリカを建設した。1163年、司教モーリス・ド・シュリーによって、現在にみられる建築物が着工され[1]、1225年に完成した。ファサードを構成する双塔は1250年に至るまで工事が続けられ、ヴォールトを支えるフライング・バットレスは12世紀に現様式に取り替えられた。最終的な竣工は1345年。

1789年に始まったフランス革命により他の教会同様にノートルダム大聖堂も襲撃を受け、大聖堂を飾っていた歴代の王の彫像が破壊されて埋められた。この彫像群は1977年に工事の際偶然発見され、現在では近くにあるクリュニー中世美術館に展示されている[1]

シャルトル大聖堂 - Wikipedia

抜粋:

シャルトル大聖堂はフランス革命期で破壊または略奪に遭ったことがなく、数多く行われてきた修復もその華麗な美しさを作り変えてしまうことはなかった。

ストラスブール大聖堂 - Wikipedia

抜粋:

1794年4月、ストラスブール市を支配したアンラジェ(過激派)は、平等主義を損ねているという理由で尖塔を引き下ろすことを計画し始めた。しかし同年5月、市民が大聖堂の尖塔に巨大なブリキ製フリジア帽(アンラジェも被っていた自由の象徴)を被せたため、破壊を免れた。

 

上記大聖堂で被害にあったのはノートルダム聖堂。
これが建った場所は、ローマ時代にユピテル信仰(ダイアナ信仰)だった場所らしいです。

(ダイアナ(ルナ、アルミテス)信仰があった土地、ロレーヌのナンシーに近い「リュネヴィル」もダイアナ信仰があったところから、「Luneの村」で、このリュネヴィルになりました。)

ダイアナ (神話) Diana Mythology: 最新の百科事典、ニュース、レビュー、研究 (academic-accelerator.com)

ダイアナはローマとヘレニズムの宗教の女神であり、主に田園地帯、狩人、交差点、月の守護者と考えられています。彼女はギリシャの女神アルテミスと同一視されており、デロス島で両親のジュピターとラトナ、そして双子の弟アポロンのもとに生まれたことなど、ローマ史の初期のアルテミス神話の多くを吸収しました。 、彼女はイタリアで独立した起源を持っていました。 。 ダイアナは処女性の女神であり、出産の守護者であると考えられています。歴史的に、ダイアナはローマの他の 2 人の神とともに三神を形成しました。水の精エゲリア、彼女の使用人、そして彼女の助手の助産師。ダイアナは、ローマの新異教、ストレーゲリア、ウィッカなどの現代の新異教の宗教で崇拝されています。古代、中世、そして現代において、ディアナは月の女神(ルナ/セレーネ)と冥界の女神(通常はヘカテ)が融合した三重神と考えられてきました。

(続きはリンクからどうぞ。)

↑ ※2024年7月31日追記:リンクを開くだけではもう読めなくなっています。

ナポレオンは、大聖堂も高い建物もたてなかったけど、「凱旋門」を作り出しました。

凱旋門 - Wikipedia

抜粋:

凱旋門(がいせんもん、英: Triumphal arch)は、軍事的勝利を讃え、その勝利をもたらした将軍や国家元首や軍隊が凱旋式を行う記念のために作られた門。発祥の歴史は古代ローマ時代まで遡る。

建築物としてはナポレオン・ボナパルトがフランスのパリに作らせたエトワール凱旋門(1836年)が有名であるが、これも古代ローマの風習にならったものである。

これは、新古典主義の帝政様式。

新古典主義 - Wikipedia

18世紀前半に発掘されたヘルクラネウムとポンペイの遺跡は、当時の西洋人の古代への関心を高めることとなった。この頃美術評論家ヨハがギリシア賛美の評論を書き、各国に影響を与えた。これらが新古典主義の背景になっている。 それまでのロココ美術があまりに甘美な装飾様式で、絵画等の題材が貴族主義的、退廃的と揶揄され、ギリシア・ローマの古典様式を模範とし、当時なりに解釈し、洗練させた芸術様式が生まれた。形式的な美、写実性を重視しており、その成り立ちから、新古典主義(ネオクラシズム、Neo-Classicism)と呼ばれる。新古典主義はフランスのアカデミーの主流になっていった。 フランス革命、ナポレオン・ボナパルトの登場によって、古典の英雄主義的な主題はさらに好まれるようになった[注 1]。第一帝政期の様式は帝政様式(アンピール様式、Empire)とも呼ばれる。

 

さて、突然フランス革命とナポレオンの話を書きだしたのは、実は「近未来的な建物を最初に考えたのは誰だったんだろう」と調べていて、それが「新古典主義」の建築家たちであることに気が付いたからです。

Pierre Fontaine (architecte) — Wikipédia (wikipedia.org)

エティエンヌ・ルイ・ブーレー - Wikipedia

クロード・ニコラ・ルドゥー - Wikipedia

ジャン・ジャック・ルクー - Wikipedia

 

参考:

「ナポレオンが大物になった背景シリーズ」で、ナポレオンとギリシャの繋がりを書いてきました。

ナポレオンが大物になった背景-1(ジャン・ピエール・バシャッソン~クロード・ペリエ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ナポレオンが大物になった背景-2(オルレアン公とカリオストロ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ナポレオンが大物になった背景-3(ナポレオンはシオニスト?) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ナポレオンが大物になった背景-4(ヴァランスとマルブフ伯父、甥) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ナポレオンが大物になった背景-5(サンジェルマン家) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ナポレオンが大物になった背景-番外編(サンジェルマン伯爵とは) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ナポレオンが大物になった背景-6(サンジェルマン伯爵とナポレオン) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ナポレオンが大物になった背景-7(ナポレオンの母親の異父弟ジョセフ・フェシュ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ナポレオンが大物になった背景-8(ヴァレンス、サン=ルフ修道会/騎士団) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ナポレオンが大物になった背景-9(「理性の祭典」~皇帝) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ナポレオンが大物になった背景-10(コルシカのギリシャ移民とポッツォ・ディ・ボルゴ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ナポレオンが大物になった背景-11(「コルシカ」とナポレオン) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ナポレオンが大物になった背景-12(コルシカに移住したトレビンゾ皇帝の子孫) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ナポレオンが大物になった背景-13(ギリシャのユダヤ人とサンジョルジョ銀行) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ナポレオンが大物になった背景-14(フランス銀行、サンシモン主義者) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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