アルフォンス・ラレーがなぜロシアで操業していたのかはわかりませんが、少なくとも1917年のロシア革命以前は、ロシアは音楽、バレエの都。
化粧品も、香水も、それらを入れるガラス瓶、ガラス細工の発展-これはロシアにとっても良い商機となったでしょう。
香水に戻って、ロシア・ビヨンドの記事を。
(前略)
20世紀初めのロシアには、フランス由来のいくつかの大手香水店があった。最大手は「Brocard & Co」という店で、有名なフランスの香水商アンリ・ブロカールによって19世紀末に創立され、現在も存在している。1863年に彼は香水を濃縮する新しい製法を開発し、この発明によって資金を得てモスクワに工場を建設した。ブロカールはロシアの歴史と文化に惹き付けられ、正教会の洗礼を受けてアンドレイ・アファナーシエヴィチと名乗った。
彼の仕事は別の才能あるフランス人、アヴグスト・ミシェリ(オーギュスト・ミシェル)によって引き継がれた。ロマノフ王朝300年記念の香水『皇后の愛のブーケ』は彼の参加によってつくられたもの。1917年の革命後にブロカールの工場は国有化されたが、ミシェルはロシアに残り、新時代の気風に合わせて工場が改名されることになったとき、『新しい夜明け』という名称を提案したほどだ。提案は受け入れられた。さらに1925年、やはり彼の提案で、香水『皇后の愛のブーケ』が『赤いモスクワ』と改名された。この名前を使うことによって工場はロシアで成功を収めたばかりでなく、国外にも知られるようになったのである。
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シャネルN°5と「赤いモスクワ」:歴史を共有する2つの有名な香水 - ロシア・ビヨンド (rbth.com)
(前略)
1920年、ココ・シャネルは、ボリシェヴィキ革命を期にロシアを脱出したロマノフ家出身の大公ドミトリー・パーヴロヴィチと親密になった。彼は唯美主義者で快楽主義者だった(ラスプーチン暗殺グループの一人でもあった)。彼はココをロシア生まれのフランス人調香師エルネスト・ボーに紹介した。
ロシアで成功を収めていたボーは、1912年にロシアの対ナポレオン勝利100周年を記念した「ブーケ・ド・ナポレオン」などの有名な香水をロシア皇室のために作った。1913年には、ロマノフ王朝300年祭を記念して「ブーケ・ド・カトリーヌ」も作っている。
後にボーはロシア軍に参加し、第一次世界大戦では北部前線で戦ったが、ボリシェヴィキ革命の後に出国した。フランスに亡命した彼とココとの出会いは運命的だった。彼がシャネルN°5を作ったからだ。
ロシアの2人のフランス人
ロシアにいた頃、ボーはロシア皇室御用達の香水会社アルフォンス・ラレーで働いていた。この会社では、もう一人の有能な調香師オーギュスト・ミシェルも働いていた。しかし1913年、ミシェルはラレーのライバルで同じく皇室御用達のブロカール社に移ってしまう。
ミシェルは皇后マリア・フョードロヴナのために「ブーケ・ド・ランペラトリス」(「皇后のブーケ」の意)を作った。ボリシェヴィキ革命の後、ブロカール家はロシアを去ったが、彼はロシアに残った。
ソビエト政権によるすべての民間企業と外国企業の国有化に伴い、ブロカール社は第5香水石鹸工場になり、1922年には「ノーヴァヤ・ザリャー」(「新しい夜明け」の意)工場に改称された。ミシェルは主任調香師となり、1924年に有名な香水「赤いモスクワ」を生み出した。
ロシアとフランスを代表する香水は双子?
(中略)
「シャネルN°5と『赤いモスクワ』は別々の世界に属するが、どちらも香りの世界におけるベル・エポックと革命を出発点としている。どちらも滅びゆく王朝の記念の年に作られたものだ」とシレーゲルは記している。
「シャネルN°5の瓶はニューヨーク近代美術館で殿堂入りしているが、『赤のモスクワ』の瓶はソビエト時代末期に蚤の市や骨董品店でヴィンテージ品収集家が求めるものになっただけだった」とシレーゲルは加える。
(後略)