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バレエ・リュス人脈-2(バレエ・リュスの歴史・ルネ・ブルム)

2023年08月28日 | 人物

バレエ・リュスの説明を、OPERA HEARTSさん

OPERAHEARTS – オペラって楽しい♪毎日の暮らしにクラシックを (opera-hearts.com)

の記事から、一部転載させてもらいます。

5ページすべてリンクからお読みください。

20世紀の奇跡のバレエ団「バレエ・リュス」とは?バレエ・リュスの歴史や創設者ディアギレフについて解説 – OPERAHEARTS (opera-hearts.com)

抜粋:

セルゲイ・ディアギレフは、1872年ロシアの貴族として生まれました。

育ての母親の親戚がチャイコフスキー家の出身で、「ロシア5人組」の一人モデスト・ムソルグスキーがピアノの伴奏にやってくるなど、音楽的に恵まれた環境で育ちました。

大学在学時には、交響組曲『シェヘラザード』の作曲者リムスキー・コルサコフに声楽を習うなど音楽的なセンスを培い、その才能はバレエ・リュス結成後も作曲家の選定などで大いに役立つことになります。

「バレエ・リュス」結成前には、美術雑誌の刊行や展覧会、音楽会の主催などを行っていました。雑誌の編集や展覧会、音楽会の演出においても才能を発揮し、展覧会には皇帝やその一族なども足を運んでいます。

1908年、ディアギレフは初めてパリで舞台を主宰します。

(中略)

ディアギレフ自身は、音楽や芸術の知識・素養はあったものの、バレエを踊れるわけでも、振付・作曲ができるわけでもなく、いわばバレエ団の経営者という立ち位置です。

ディアギレフが優れていたのは、才能がある人物を見出し、その才能を引き出す力でした。

 

20世紀の奇跡のバレエ団「バレエ・リュス」とは?バレエ・リュスの歴史や創設者ディアギレフについて解説 – ページ 2 – OPERAHEARTS (opera-hearts.com)

抜粋:

1915年には、先に始まった第一次世界大戦の戦火から逃れるため、ディアギレフはスイスに家を借ります。ダンサーらも集まり、亡命生活を送りました。

この大戦によってロシア内の社会構造が変わり、バレエ・リュスを支えるパトロン・パトロネスの顔ぶれが貴族から鉄道王や鋼鉄王など実業家に変わったことは、ディアギレフを悩ませました。

(中略)

1929年8月1日、ディアギレフは持病の糖尿病が悪化し、ヴェネツィアの地で亡くなりました。

20世紀の奇跡のバレエ団「バレエ・リュス」とは?バレエ・リュスの歴史や創設者ディアギレフについて解説 – ページ 3 – OPERAHEARTS (opera-hearts.com)


20世紀の奇跡のバレエ団「バレエ・リュス」とは?バレエ・リュスの歴史や創設者ディアギレフについて解説 – ページ 4 – OPERAHEARTS (opera-hearts.com)

抜粋:

CHANELの創設者であるココ・シャネルは、バレエ・リュスを支えるパトロネスの一人でした。

バレエ・リュスの大パトロネス ミシアの紹介でシャネルとディアギレフは知り合い、1920年の『春の祭典』上演に際しては匿名で資金援助を行いました。

そして、1924年『青列車』の衣装デザインを機に、デザイナーとして数々のコラボレーションをしていきます。

20世紀の奇跡のバレエ団「バレエ・リュス」とは?バレエ・リュスの歴史や創設者ディアギレフについて解説 – ページ 5 – OPERAHEARTS (opera-hearts.com)

抜粋:

1929年のディアギレフの死後、バレエ・リュス復活の計画は同年に始まった世界恐慌の影響によりほとんどが頓挫しましたが、バレエ・リュス再結成の声に応え、1930年にはガラ形式の「バレエ・リュス・ア・パリ」がパリとロンドンで行われました。

そして1931年、フランスのバレエ興行師 ルネ・ブルムとロシア歌劇団の経営者 バジル大佐により「バレエ・リュス・ド・モンテカルロ」が結成されます。

(中略)

ブルムとバジル大佐の対立により、1936年にバレエ・リュス・ド・モンテカルロは分裂します。バジル大佐率いる「バレエ・リュス・ド・コロネル・ド・バジル」は1952年に解散しました。

ブルム率いる「バレエ・リュス・ド・モンテカルロ」は1960年代に一時活動を停止していたものの、1985年にバレエ・ド・モンテカルロとして再設立されています。

 

「バレエ・リュス」の最初のパトロンは、おそらく王族だったと思うのですが※、ロシア革命後は、欧米の実業家たちが引き継ぎます。

※バレエ・リュスができる前の最大のパトロンはニコライ2世の叔父、ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ - Wikipedia。1909年2月に死亡。
 
 
5ページ目にでてくる、ルネ・ブルムが、セルゲイ・ディアギレフの実質後継者となりますが、ユダヤ人であったため、ナチスによって殺害されます。
 
 
Google翻訳:
 
ルネ・ブルム(René Blum、1878年3月13日 - 1942年9月)は、フランスのユダヤ系演劇興行師。 彼はモンテカルロ・オペラ座バレエ団の創設者であり、フランス社会党首相レオン・ブルムの弟であった[1]。

(中略)
 
 バイオグラフィー

ブルームはパリで生まれました。
20世紀初頭、彼はパリの文芸誌『ジル・ブラス』の編集者であり、大衆演劇評論家でもあった[2]。 彼はマルセル・プルーストの友人となり、プルーストが『デュ・コート・ド・シェ・スワン』の出版をベルナール・グラセットに依頼したのは彼のアドバイスによるものであった[3]。 第一次世界大戦中、ブルムはソンムの戦いに従軍した。 彼はアミアン大聖堂から脅迫された美術品を保存し、フランスのクロワ・ド・ゲール勲章を獲得した[2][3]。
 
モンテカルロバレエの創始者

彼は1924年にセルゲイ・ディアギレフのバレエ・リュスの本拠地であるモンテカルロで演劇とオペレッタの監督に就任した[3]。 1931年、ブルムは故ディアギレフ(1929年死去)の作品と遺産を引き継ぐバレエ団設立のためモナコ公ルイ2世に雇われた[2]。

1932 年、投資家のセルジュ・デンハムの援助を受けて、ブルムと W. デ・バジル大佐はモンテカルロ・リュスバレエ団を結成しました。 ブルームとデ・バジルは1934年に不仲となり、バレエ・リュスのパートナーシップは解消された[2]。 ブルームはモンテカルロでバレエを存続させた。
 
(中略)

 国外追放と死亡

1940 年の夏、ドイツ軍がパリを占領した後、ブルムは家族と一緒にフランスに戻りました。 彼は1941年12月12日にパリの自宅で逮捕され、フランス警察によってパリで逮捕された最初のユダヤ人の一人となった。 彼はボーヌ・ラ・ロランド強制収容所に収容され、その後ドランシー収容所に収容された。 1942年9月23日、彼はアウシュヴィッツ強制収容所に送られた[5][6]。 彼は1942年9月下旬、64歳でナチスによって殺害された[2]。
 

参考:
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