三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

青草民人の宗教遍歴 2

2013年12月07日 | 青草民人のコラム

中学、高校はいろいろとそれなりに楽しいことに追われて過ごしましたが、信仰という面ではやはりお大師様を信じていました。
ちょうど弘法大師のご遠忌があって、北大路欣也主演の『空海』という映画を見たのがきっかけだったでしょうか、空海を歴史的に研究するようになりました。また、丹波哲朗の『大霊界 死んだらどうなる』という映画にもはまって、神秘的なものへのあこがれから、学問的に仏教を学ぼうと思い始めました。

将来の仕事も僧侶になりたいと考えることがありました。それは世の中のためになる仕事として歴史上の僧侶の生き方にあこがれたからです。しかし、そんなある日、決定的な出来事がありました。

いつものように川崎大師にお参りに行ったときのことです。いつになくお経が簡単になったなあと思いました。その日は、たくさんの人出で、お経もこころなしか短かったように感じました。そして、参詣している私達の前に警備会社の人がきて、賽銭箱のお金をジャラジャラと取り出して持って行ったのです。寺院関係者には別に日常の出来事かもしれませんが、参詣に来た信者にはいかにも味気ないというか、馬鹿にされたような行為でした。


そのとき、これが自分の追い求めていた仏教なのかと思い始めたのです。もちろん弘法大師が求められた現世利益は自分の利益だけを求めるためのものとは無縁だと思います。空海は朝廷に仕えた高僧ではありましたが、民衆の力にもなろうとした人です。


この賽銭事件は仏教に対する熱意をさましたというよりも、現代の仏教の在り方に対して幻滅した出来事です。歴史上の弘法大師と現実に目の前にいるお坊さんとのギャップというのでしょうか。お坊様はみんな偉い人だという観念が崩れていく。憧れの彼女が化粧をへらで落とすのを見てしまったようなものです。


そんなことから仏教の原点にかえりたいと思うようになりました。あこがれの仕事も僧侶になることを諦め、現代で僧侶の役目をするなら教育者であろうと、教師への道を選びました。


大学生になると、空海のことを学術的に調べるようになり、また他の仏教についても学ぶようになりました。私の大好きだった女の子が鎌倉の出身だったということもあって、よく鎌倉の寺を一人で散策しました。


ただ彼女に会いたかっただけかもしれませんが、彼女には結局想いを伝えきれず、一緒になれませんでした。切ない心を紛らわせるために、という気持ちもあったのかもしれません。煩悩を抱えながら、どうすることもできない自分に悩み、いろいろな宗派の寺を巡り、仏教の世界に救いをもとめていたのかもしれません。

小学校の教員に就職してからは、教育のことが中心だったので、宗教はあまり意識しなくなりました。青春まっただ中なので、遊ぶことぐらいしか考えていなかったのでしょう。そのころから釣りを趣味にしていまして、家内と結婚してからも二人で釣りに行ったりしていました。

ちょうど29歳のときに長男が生まれて、好きな釣りにも行けず、本を読む機会が増えました。そして仏教関係の本を読み直したりしました。

絵を描くことにも興味を持つようになりました。最初は風景を描いていましたが、私は墨彩画を描くので、仏画に興味をもち、写仏を始めました。そのうち写経もするようになり、『般若経』や『浄土三部経』を書写しました。

またお寺めぐりを始めました。朱印帳を持っていろいろな所に行きました。ちょうど仏教ブームが始まるころで、仏教に再び興味を持ち出したのはそのころだと思います。


きっかけといえば、息子が生まれたことでしょうが、お釈迦様のような深い悩みからというわけではないので、お恥ずかしい限りです。ただ、なかなか子宝に恵まれなかったので、いのちをいただいたという感慨はあったと思います。釣りをすることを殺生だと感じるようにもなりました。


今思うと、仏教に深く関わるようになったのが29歳、お釈迦様が出家されたのと同じ歳でした。親鸞聖人が法然聖人の門にはいられた歳と同じです。ただの偶然ですが。


実はお寺めぐりをするようになったり、写経をするようになったのには、きっかけがありました。平成9年の3月に教え子を亡くしたのです。あのときのショックが原因で、いろいろと思うところがあって、お寺をまわろうとか、写経をしようとか、仏画を描こうとかと思いました。


あの子の死に接していなかったら、お寺に興味を持つこともなかったかもしれません。子供の死を目の当たりにしたのは初めてでしたし、その子の数奇な運命を考えると、死は受け入れられるものではありませんでした。


あの子は3年生の終わりに交通事故に遭い、車にひかれながらも一命を取りとめ、奇跡的に生還しました。しかし引っ越した先の学校でひどいいじめに遭い、ふたたび越境して私の小学校に戻ってきました。ところが、2週間ほどで卒業という矢先、風邪をこじらせて再入院した病院で、呼吸器に異常をきたして、あっという間の死でした。

大きな事故を乗り越え、つらい目に耐えてきたのに、彼女に与えられたものは死だったのです。そんな無常な死に様を目の当たりにしたことは、教師として、人間として、とてもショックでした。いのちのはかなさを深く感じたのです。

古寺巡礼も写経も写仏も仏教へのとば口を求めていたにすぎないのでしょう。宗派にとらわれずに、仏教そのものに触れていきたいと考えなおしました。今風にいうと仏教による癒しです。

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