三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

青草民人の宗教遍歴 1

2013年12月03日 | 青草民人のコラム

以前、管理人のメル友である青草民人さんに「青草民人の宗教遍歴」を書いてもらい、このブログに掲載していました。
加筆訂正したいという青草民人さんからの要望があり、旧「青草民人の宗教遍歴」は削除し、新「青草民人の宗教遍歴」を載せることになりました。

青草民人は小さいころ、『地獄と極楽』というマンガを好んで読んでいました。これは、毎年初詣に行っていた川崎大師の夜店で買ったもので、宗教マンガとでもいうのでしょうか。『おしゃかさま』とか『かんのんさま』といった本もあり、何回も楽しんで読んでいました。ほかにもオカルトの本だとか、お化けの話なんかもよく読んでいました。
6年生の時、よく友だちとコックりさんをやっていました。あのころ、ツノダジロウの『恐怖新聞』だとか『うしろの百太郎』を読んだ記憶があります。オカルトに興味があったのでしょうね。そういう不思議なものに惹かれました。

だけど、地獄には恐怖は感じていなかったです。行きたいとは思いませんでしたが。心の中で、仏様を信じている自分には無縁なところだという気持ちがあったのでしょう。自分は信心しているから大丈夫、仏様が守ってくれるんだから、という感覚でしょうか。

選ばれた人間というか、信じる者は救われるという自負がありました。オカルトについてはかなりのあいだ信じていましたね。霊というものに対する怖れは大人になってからもありました。

ただ、今は霊の否定ということではなく、怖れがなくなりました。
我々自身が生としての存在だけでなく、「死もまたわれらなり」(清沢満之)という存在であることを認識すれば、おのずと霊というものの存在を否定もしませんが、肯定する必要もなくなるのだと思います。

父が個人タクシーをしていた関係で、川崎大師に車のお祓いに毎年行っていました。そして護摩をあげる僧侶の加持祈祷に強く心を引かれました。『般若心経』の書いてあるお守を大事にもち、ときどき自分で読み上げていました。
自己暗示というのでしょうか、「南無大師遍照金剛」とお大師様のご法号を唱えると、力が沸き出すように感じました。自分は法力を授かったんだと、今考えると吹き出しそうなことを思っていました。

不可能を可能にしてくれる真言。
「おんあぼけやべいろしやのまかぼだらまにはんどまじんばらはらばりたやうん」
真言宗の修法には、法力があると強く信じていました。真言には不可能を可能にする法力が宿っていて、そのことに集中すれば自分にも力が与えられるんだと。

不思議な真言と護摩の火や太鼓の音に憧れ、お大師様に惹かれていきました。そのうち、真言密教に憧れるようになり、加持祈祷で不思議な霊力を身につけたいと思うようになりました。 

しかし、不可能を可能にする法力というのはないですね。不可能を可能にしようとする気持ちにさせる修法はあるかもしれませんが。

私は、ひたすら真言を唱えるということぐらいしかしていませんでしたが、唱えていると何だか願いがかなうような気がしました。

神秘体験といったことはありませんでしたが、何かをしようとするときに、おつげのようなものを感じるというのでしょうか、お大師様のおつげを自分で聴いていたような気がしていたかもしれません。
多分、勝手に思い込んでいたんだと思います。それでいい思いをしたことはないですね。法力を身につけて超能力を得るということは凡夫の私にはできません。

中学生になると歴史に興味をもつようになり、空海を歴史上の人物として捉えるようになりました。弘法大師から空海という人物として見るようになったわけです。

それと初めて、真言宗が宗派仏教として私の信仰の対象になったのがこの時期だと思います。空海の教えは宇宙との一体化、梵我一如に近い発想ですね。やはり密教はバラモン教に影響を受けているのでしょうか。
如来の加持とは、阿弥陀の他力とは違うように思いますね。祈祷によって加持を得るのが真言の秘法でしょうから、呪術的なものでしょうね。思い通りにはたらかせようとする。やはり自力です。


真言宗の教義の根本は即身成仏、生きたまま仏になること。仏との縁を結び、真言を唱えることにより仏と一体になる。現世利益は即身成仏に近い考え方ですが、本当は同じことではないと思います。
ただ、大師の即身成仏の信仰がこの現世利益と結びついたのは庶民の信仰だからでしょう。私が真言宗に惹かれた理由は、やはり即身成仏=現世利益という部分に神秘的な要素が加わったからだと思います。真言宗の本当の意味の教義ではありませんが。


そのころ大好きだったおじが白血病で急逝しました。病気平癒の護摩札を送りましたが、おじの家は真宗王国の北陸です。「気持ちだけは有り難くいただく」と言われ、護摩札を母が持ち帰ってきました。

浄土真宗という宗派が自分の一族の宗派だと初めて認識したのと、護摩札をお棺に入れてもらえなかったことを悲しく思ったことを覚えています。

コメント
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