三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

吉野秀雄と妻と息子 1

2013年12月22日 | 

山口瞳が息子の山口正介氏に「こんなことをするなよ」と言ったと、『江分利満家の崩壊』にある。

父が私淑していた鎌倉アカデミア時代の吉野秀雄先生のご子息・吉野壮児さんが、先生の死後、父親への反発を描いた『歌びとの家』を発表なさったことだ。吉野先生の名著に『やわらかな心』がある。それに対して壮児さんが書かれたのは「硬い心」とでもいえるようなものであった。

こんなのを読むと、『歌びとの家』にどういうことが書かれてあるのか読みたくなるのが人情です。

吉野秀雄『やわらかな心』に、妻が死ぬ前夜(?)のやりとりが書かれていて、感動した。

昭和19年8月29日に妻はつ子が胃ガンで死ぬ。

さて、はつ子はかの夜わたしにどんなことを告げたか。まず「自分には死後の世界は信じられない。人間はこの世だけで終わるに違いない。そしてこの世に関するかぎり、自分は幸福であったとあなたに感謝する」といい、つぎに「黙っていてもあなたは子らの面倒をみてくれるに違いないから、いまさら改めて四人の子らをよろしくたのむなどとはおかしくていえない」といい、それからわたしが後に、
生きのこるわれをいとしみわが髪を撫でて最後(いまは)の息に耐へにき
と詠んだように、「これから戦争がはげしくなる一方の、この世に生きていかねばならぬあなたや子らは、死んでいく自分よりもはるかにつらいだろう、どうかしっかりやってください」といった。
はつ子は死にぎわに、「あの世はないものだ」と冷静にいいきったが、その点についてわたしはどう反応したかというと、あの世がないならば、わたしがあの世をこしらえよう、そこで再び彼女に会うめあてがないとしたら、とてもこの世を生きていけるはずがない。――と、わたしはそうおもった。(「前の妻・今の妻」『婦人画報』昭和40年5月)

夫婦の深い愛情が伝わってくる名文だと思う。

そして、昭和40年5月19日、
「長男がその日わたしの目の前で、いきなり発狂した」とある。
その後、吉野家はどうなったのか気になるという下世話な興味もあります。

そこで『歌びとの家』(昭和43年3月刊)だけでなく、山口瞳『小説・吉野秀雄先生』(昭和44年5月刊)、吉野登美子『わが胸の底ひに』(昭和53年10月刊)を読みました。
『歌びとの家』は父親の吉野秀雄(水月秀人という名前になっている)のことをボロクソに書いている。
もっとも『歌びとの家』は小説なので、どこまで事実なのかはわからないが。

何が書いてあるかを紹介する前に、吉野秀雄の再婚について説明しておきます。
吉野秀雄の後妻とみ子は八木重吉の妻である。(とみ子と登美子のどちらが正しいのだろうか)
とみ子は17歳で結婚するが、昭和2年に八木重吉が30歳(かぞえ)で死ぬ。
子供が2人いたが、どちらも十代で死亡。

『わが胸の底ひに』によると、登美子の姪が吉野秀雄の兄の家で世話になっていた関係で、子供の面倒を見てもらえないかと頼まれる。
吉野秀雄からの手紙は9月19日付が最初で、はつ子が死んで間もない。
手紙のやりとりを読むと、たんに子供の教育係としてではなく、後妻に来てほしい気持ちが感じられる。

吉野秀雄の印象をとみ子はこのように書いている。

何という純粋な人だろうと、同情したりだんだん尊敬するようになっていた。八木重吉と死別してから十八年になるが、八木のあと、これほどに純粋、純潔な人を見たことがなかった。

昭和21年秋に求婚され、昭和22年10月26日に結婚。
では、吉野秀雄は再婚することをどう考えたのか、『やわらかな心』(あとがきは昭和41年9月18日付)を読み直しました。

わたしの一家はとみ子の出現によって救われた。わたしは敗戦の前後いくたびか喀血病臥したが、もしもとみ子がいなかったら、わが家はどうなっていたろうか、おもいみるだけで慄然とする。(略)
「これの世に二人の妻と婚(あ)ひつれどふたりは我に一人なるのみ」
わたしの再婚についての覚悟をいえば、この者を一途に愛そうということであった。そうすれば、新しい妻は生(な)さぬ子らをいっそういつくしむだろう。そうすれば、遺す子らを気にかけて死んでいった前の妻へ、これこそなんにもまさる供養となるであろう。わたしは理屈なんかいってるのではない。そのとき一つの悟りを開いたのである。

別のところではこのように書いている。

とみ子をめとるについては、この者を愛することによって、亡き妻も成仏できるのであることを悟った。これはわたしの変心か、少なくともわたしのわがままか。否、けっしてそうではない。わたしがとみ子をいつくしめば、とみ子は三人の子らにいっそうやさしくなろう。子らがしあわせであることは、亡き妻の第一の願望にきまっている。こう感得して「ふたりは我に一人なるのみ」といったのだ。(「宗教詩人八木重吉のこと」『日本』昭和40年1月号)

私には「理屈」というより「ヘリクツ」としか思えない。

そして、死後についてこのように書いている。

病床の暇つぶしに、いったい死後はどうなるかなどと、ふと想像することもなくはない。ベルグソンの説のように、意識は頭脳をはみ出し、頭脳は滅びても意識のある部分は生き残るかもしれず、かんたんに決められるものではあるまいが、わたし自身にはただ空としてしか感じられない。(「病床独語」『東京新聞』昭和37年9月9日)

前妻が死ぬ時に「あの世がないならば、わたしがあの世をこしらえよう」とまで言ったのに、そりゃないでしょう、と言いたくなりました。

『やわらかな心』によると、実家は大谷派の門徒で、母親は『正信偈』のお勤めをかかさなかった。
吉野秀雄自身も『歎異抄』に親しんでいた。

戦争中の四十三の年に、わたしは前の家内に死なれ、四人の子どもをかかえて、意気地なくも途方にくれていた。この際歌よみのわたしは、短歌を作ることによって救われたかのごとくであったが、その根本を内から支えた力は、やはり歎異鈔であったといってさしつかえなさそうである。(「歎異抄とわたし」『浅草本願寺報』昭和37年6月5日)


そのわりに、最初の妻の死や再婚について書かれた文章にある「供養」や「成仏」という言葉の使い方がおかしい。
また、吉野登美子『わが胸の底ひに』にこんなことが書かれてある。

精神病院で、手相に興味をもっていた吉野が患者の手を見ると、ちゃんとその筋が出ていたといっていた。

手相を信じていたわけですからね、親鸞をどの程度理解していたのかと思う。
戒名は「艸心洞是観秀雄居士」で、親しくしていた瑞泉寺(臨済宗)と本瑞寺(曹洞宗)の住職がつけたという。
 

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6 コメント

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お教え下さい (てるてるぼうず)
2013-12-22 23:46:25
最後の
「わたし自身にはただ空としてしか感じられない」の空はどの空なのでしょうか?

人生を自分の思い通りにしようともがいているのですから、あの空じゃないですよねえ・・・と思うのです。
返信する
追記を書きました ()
2013-12-23 15:14:31
死んだら空になると言う人がいます。
どういう意味で空という言葉を使っているかですね。

吉野秀雄の悪口を書いていますが、多くの人から敬愛されていたそうです。
返信する
そういうことですね (てるてるぼうず)
2013-12-23 22:00:25
実家が大谷派の門徒で本人も歎異抄を読んでいたそうですが・・・

「死んだら空になる」のだったら、仏教の空ではないですね。
(勝手に決め付けました)
返信する
無量寿の命 ()
2013-12-24 17:12:23
「死んだら南無阿弥陀仏になるんだ」という言い方があるでしょ。
小川一乗先生はそれを批判されていました。
でも、小川先生は
「私たちの〈いのち〉とは「縁起する〈いのち〉」であり、本来的にゼロ(空)である」
とか
「無量寿の命がただいまの私という命になっているということなのです。そして波は消えて海に帰る。それと同じように、無量寿からもらった命は、無量寿に帰るのです」
と言われていて、「無量寿の命」=「ゼロ(空)」ということでしょうから、死んだら空になるということになるようです。
返信する
Unknown (てるてるぼうず)
2013-12-24 22:33:58
縁起ですから生きていても死んだあとも空というのであれば分かる気がするのですが。

空がゼロだと、死んだらお終い(無)のような
返信する
ご自慢かも ()
2013-12-25 19:38:29
小川先生は
「私たちの〈いのち〉の本来的あり方であるゼロ」
「すべてはゼロ(空)である」
と言われていまして、なんでも司馬遼太郎も空を「ゼロ」と言っているとか。
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