三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

山崎行太郎『保守論壇亡国論』

2013年12月17日 | 

山崎行太郎『保守論壇亡国論』によると、以前は「保守」という言葉は否定的なイメージしかなかったが、現在、保守や右翼が多数派を形成しているそうだ。
たしかに、衆参両院で自民党が圧勝し、秘密保護法は成立、次は国家安全保障基本法らしくて、憲法改正も視野に入ってきたように思う。
一億総保守化の流れは止まりそうもない。

それなのに、保守反動を自称する山崎行太郎氏が保守論壇や保守思想家をわざわざ批判するのはなぜか。

私が批判したいのは、保守化や右翼化を背後で支えている保守論壇の「思想的劣化」と「思想的退廃」である。

保守論壇の何が変わったのか、山崎行太郎氏の主張を私なりにまとめてみました。

山崎行太郎氏は小林秀雄、福田恆存、田中美知太郎、三島由紀夫、江藤淳たちを高く評価している。

彼らは保守論壇で孤軍奮闘する一方で、左翼も含めて、誰もが認めざるを得ないような、専門的な仕事=業績を残していた。
ところが、昨今の保守論壇で活躍する保守思想家たちには、政治的雑文や情勢論的雑文はあるが、作品はない。
そこに、昨今の保守思想家たちの思想的劣化という病理現象がある。
それはそのまま現在の日本の政治や政治家たちの劣化にもつながっている。
保守論壇が劣化しているからこそ、その影響を受けた保守政治家たちも同じように劣化してしまう。

なぜ保守論壇や保守思想家たちが劣化し、作品がないのか。
それは、彼らが虚無や深淵を覗き見たことがないからである。
かつて保守論壇で活躍した保守思想家たちは、「深く考える人」だった。
福田恆存や江藤淳らにとって、保守とは生き方や考え方のスタイルである。
ところが最近の保守思想家たちは、「保守思想はこうであらねばならない」というイデオロギーに囚われることによって、考えることがなくなった。
その結果、保守は通俗化し、大衆化し、多数派を形成するのと反比例するように、思考停止状態に陥ってしまった。

保守や保守思想が定義されると、それらをお題目のように唱和するだけで保守思想家になれると錯覚する人も増えてくる。
極端な場合には、朝日新聞を批判したり、中国や韓国、北朝鮮を批判すること、「南京虐殺はなかった」とか「慰安婦強制連行はなかった」、「拉致問題の解決なくして日朝国交正常化はない」と主張すること、あるいはまた、「歴史観」や「国家観」、「愛国心」などの言葉を語り続けることなど、いくつかのわかりやすいお題目を集団で唱和することが、保守の存在根拠になってしまう。

「深く考えること」や「粘り強く考えること」を嫌い、「わかりやすさ」と「単純明快な答え」を求めて、「思考停止」と「思考の空洞化」に陥り、その当然の結果として、思想的に地盤沈下している。
言い換えれば、わかりやすさと単純素朴な答を拒否し、「虚無」と「深淵」に耐え、暗中模索と試行錯誤を繰り返すことから、「作品」は生まれるのである。

保守のイデオロギー化を進めたのは、左翼から保守への転向組である。
西部邁が保守思想を体系化、理論化し、小林よしのりが保守思想を漫画化し、極めてわかりやすい単純化、図式化、映像化、二元論化を施して、多くの読者を獲得した。
西部邁や小林よしのりが主導した一連の「一億総白痴化」の動きには、保守や保守思想の劣化と退廃がともなっていた。
保守論壇の『愚者の楽園』化の真犯人は、理論的には西部邁であり、実行部隊の中心人物が小林よしのり、櫻井よしこだと言っていい。
そして、山崎行太郎氏は西部邁、櫻井よしこ、小林よしのり、中西輝政、渡部昇一、西尾幹二、孫崎享を取り上げて批判している。

櫻井よしこ「その発言は過激さだけが取り柄で、傾聴すべきものはほとんどない」
「櫻井は保守論壇の多数意見、「偏狭なナショナリズム」を代弁しているだけにすぎない」
「他人の尻馬に乗って繰り広げたものばかりで、櫻井自身が自らの頭を使って考えたものとは到底思えない」
中西輝政「政府やマスコミが垂れ流す常識だけを鵜呑みにする」
西部邁「時代状況の変化を鋭く読み取りながら、実に要領よく生きてきた」
渡部昇一「基本的な文献や資料を、ほとんど読んでいない」
西尾幹二「自分の頭で考えることをしなくなる」

これらの批判は個人に対してなされたものではなく、他の人にも当てはまることである。
私の嫌いな人物の批判(悪口)を読むのは楽しい。
だけど、保守化の悪しき流れはとまらない気がする。

コメント (6)
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