三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

吉野秀雄と妻と息子 2

2013年12月25日 | 

私は見ていないが、中村登『わが恋わが歌』(昭和44年)は吉野秀雄『やわらかな心』、山口瞳『小説・吉野秀雄先生』、吉野壮児(吉野秀雄の次男)『歌びとの家』を原作にした映画である。
吉野登美子『わが胸の底ひに』には「映画として作られるので、本当のことと違う場面が多少あっても仕方ないことと納得した」とある。
父親である吉野秀雄の人間性を描いた吉野壮児『歌びとの家』に吉野登美子が触れているのはここだけで、読んでいないのか、『歌びとの家』の感想は書いていない。

こんなエピソード吉野壮児は書かれている。

父親がいらだった声で呼ぶので行ってみると、「ラジオのスイッチを入れてくれ」と言う。
「それだけですか」とたずねると、「それだけだ。考えごとをしているから、うるさくしないでくれ」と答える。(略)
純人(壮児)の新しい母の場合はもっとすさまじかった。呼びたてられては、やれ障子をしめろ、茶をいれろ、雨戸をしめろ、隣の家のラジオがやかましいから交渉して消してもらってこい、ときりきり舞いをさせられた。
純人の生母に、これほど荒あらしくふるまう父の姿は、純人の記憶にはなかった。

あるいは、純人がデンマーク生まれの女性とつき合うと、父は「夷狄の女と一緒になって、子を生すつもりか!」と叱責する。
吉野壮児はその女性に「水月(吉野)家のあなたたち家族は、非常に固い感じがします」とか、「詩人の心は、ふつう柔軟なはずです」と言わせている。
明らかに「やわらかな心」を念頭に置いている。

胼胝のようにかたい心の持ち主だった。われわれ家族のものは、父という金剛砂の回転研磨機に心を磨り減らされ、振り廻されてきたのだ。そのかたい心の壁に一箇所やわらかいはけ口があった。そこからほとばしり出たのが、父の歌の作品だと思う。

兄が狂う原因となった人妻との会話。
人妻は、夫が「大酒飲みで、家庭をかえりみません」と言うと、純人は「ご主人は、こどもさんのミルク代まで飲んでしまうようなことをしましたか」と尋ねる。
そして「比喩的にいえば、水月秀人(吉野秀雄)はこどものミルク代まで平然として飲むような男ですよ」と言う。
比喩であるにしも、すごい表現である。

吉野秀雄は23回も心臓発作を起こして何度も危篤になるが、入院を拒む。
純人「もっと徹底的に治療する方法を考えたらどうでしょうか」
秀人「徹底的にとは、どういうことだ」
純人「入院して治療するとか……」
秀人「うるさい! わしは、この家で死ぬのだ!」
純人「看病疲れで、母さんに倒れられたら、どうします」
秀人「その時は、ともに死ぬのもよい」
別の医者に診てもらうことも拒む。
なぜなら今かかっている医者の心証を害したら困るから。
秀人「バカモノ! わしが夜中に発作を起した時、来てくれずに、そのまま苦しみ抜いて死んでもよいというのか!」

なんと自分勝手なのかと思うが、しかし吉野登美子は「夫と共にする苦労は何とも思わなかった」と述懐している。
吉野秀雄も「歌をつくるためにしばし、旅行をするわたしに、苦心してえた金を渡し、酒ずきのわたしに一度も文句をいわなかった」と書いている。

『やわらなか心』に、歌は一首につき、無料のこともあり、百円、二百円のこともあり、千五百円、二千円のこともまれにはある、一年の家計費をかりに百万円とし、一首の平均を五百円とすれば、一年二千首詠まなくてはならない、と書かれてある。
だけど、新聞や雑誌などの歌壇選、歌稿添削などの礼金もあるから、そんなに貧しかったわけではないと思うのだが、吉野秀雄が旅に出て歌を詠もうとすれば、登美子が質屋に駆けこむことになったという。

吉野秀雄「借金に出かけ、質屋にかよったとみ子をおもうと、わたしは恥ずかしい」
吉野登美子「私は旅費は少しでも多く持たせてやりたかったので、ありったけの金をそっくり渡してしまい、駅まで送っていって送り出したあと質屋へゆき、稿料の入るまでをつないでいた」
吉野秀雄は登美子のことを「一生意地悪ということのできぬ性分だ」と書いているが、その言葉が愛想ではないと感じさせる。
こういう人と結婚したかったと思います。


山口瞳『小説・吉野秀雄先生』(昭和44年5月刊)は、吉野秀雄だけでなく、川端康成、山本周五郎、高見順、木山捷平の思い出も語られている。
「小説・吉野秀雄先生」は昭和43年に発表されているので、吉野壮児『歌びとの家』(昭和43年3月刊)を読み、筆を執ったのだろう。
もっとも、山口瞳にしたって、父親が川端康成に詐欺を働いたことを書いていて、身内の恥をさらけ出すのは小説家の業なのかと思う。
山口瞳はとにかく吉野秀雄を絶賛する。

私は、先生という人間は、なにからなにまで、まるごとすっぽり大好きだ。

山口瞳は鎌倉アカデミアで吉野秀雄の教えを受ける。
昭和22年1月『創元』に妻の死の前後を歌った「短歌百余章」を発表するまで、吉野秀雄は無名に等しかった。
鎌倉アカデミアの文学部には西郷信綱、林達夫、中村光夫、高見順、吉田健一、服部之総、演劇科に千田是也、村山知義、久板栄二郎といった錚々たる顔ぶれの中で、吉野秀雄は人気教授だった。

無名の吉野先生の人気が第一等である。教員室でも人気があった。それは先生の人柄によるものであった。まったく、あんなに正直で、真を貫く人を見たことがない。誰にでもすぐわかることだった。誰からも敬愛されるようになる。

鎌倉文士では、小林秀雄、里見惇、川端康成、久米正雄、大佛次郎、今日出海たちからも愛されていたという。
吉野登美子『わが胸の底ひに』にも、吉野秀雄が多くの人に愛され、慕われていたことが書かれている。

家の中のことは他人にはわからないが、イギリスのことわざに「主人をほめる執事はいない」というのがあるそうだし、金子大栄師は「父親と息子、嫁と姑のいざこざは人類永遠の問題だ」と言われている。
吉野家でも我が家と同じだということでしょうか。

コメント
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