森達也『職業欄はエスパー』にこんなことが書いてある。
森達也氏は、清田益章氏が切断したスプーンの折れ口(切り口のはず)に柄の部分を近づけると、スプーンの先端が微かに動いたような気がした。
清田益章氏は「ああ、磁力を持つみたいだよ」、「折れた後はしばらく引き合うんだよ」と言う。
磁力が発生しているとしたら、調べたらわかるはず。
ところが、清田益章氏によると科学者は研究してくれないらしい。
「前々から大槻先生には、俺を実験材料にしてくれてかまわないから、ちゃんと測定してくれって言ってるんだよ。大槻さんの望む場所で望む実験方法で、とにかく徹底的にやりましょうって。何ヵ月かかってもかまわないよ。ギャラもいらないよ。脳波でも何でも好きなように測定してもらっていいですよって何度も言ってるんだよ。そのうえでやっぱりこれはトリックだって確証が持てるのならメディアにそう言ってもらってかまわないからってさ。だけど俺がそう提案するたびに、あの人はテレビカメラがないと意味がないとか、また今度ねとか、いつもちゃんとした返事くれないんだよな。本当にきちんと実験ができるのならいい機会だよな」
頭から否定するだけで、ちゃんと調べないのだとしたら、これは科学者のほうに問題があるのではないか、と誰しもが感じる。
でも、皆神龍太郎・石川幹人『トンデモ超能力入門』を読むと、ちょっと違ってくる。
この本は皆神、石川両氏と編集者の鼎談。
超能力のトンデモさをあげつらった本ではなく、題名を『超心理学入門』とでもすべき内容である。
石川幹人氏は明治大学教授、超心理学の研究者で、超能力肯定派である。
皆神龍太郎氏は懐疑派。
否定派と懐疑派はどこが違うのか。
懐疑論者「本当のことを知りたいから、理解できるまで、できる限り真摯に対話をしていきたいという人種」
否定論者「相手の主張もまともに研究せずに「そういうことはあり得ないんだ」みたいなことを主張する人々」
私は否定派です。
で、清田益章氏のことである。
生徒(編集者)「清田君とかはどうなんですか?」
石川「ああ、清田君は友達ですよ」
皆神「そうなんですか!(笑) 石川先生は清田君がスプーンを曲げるところを見たんですか?」
石川「見ましたけどねぇ。個人的体験を述べてもいけませんから」
ん? この微妙な発言はどういう意味でしょう。
清田益章氏をめぐるこんな会話もある。
石川「また研究フィールドに戻って来て下さいって研究者みんなでいっているんですけど……」
皆神「清田君はもう研究協力みたいなのは全然しないんですよ?」
石川「「脱・超能力者宣言」してました。(略)なんとか引き戻したいんですけどねぇ」
皆神「(小声で)もしかしたら、帰れない大人の事情があるのかもしれませんよ」
石川「(小声で)インチキだから?」
皆神「いやいや、そこまで僕はいわない」
れれれ、研究者は清田益章氏を「実験材料」にしたけど、実は「インチキ」だった、ということですか。
超心理学ではスプーン曲げをどのように考えているのか。
皆神「超心理学者の中でスプーン曲げをまともに認めている人なんて、ほとんどいないんじゃないですか?」
石川「スプーン曲げはそうですね。超心理学の実験では通常行われません」
石川幹人氏は「超心理学者の中でも、念力はないんじゃないかと考えている人も結構います」と語っている。
『職業欄はエスパー』とはずいぶん話が違っている。
ついでに書くと、『職業欄はエスパー』に綾小路鶴太郎という、奇術師もどうやってスプーンを曲げたのかわからない腕前の持ち主が人物が出てくるが、皆神龍太郎氏はこう言っている。
「スプーン曲げっていうのは、ユリ・ゲラーの頃は親指と人差し指で首をちょっと触るだけで落とすっていうのが暗黙の了解だったはずなの。ところが、今はスプーンの端と端を持ってしまってもいいことになっていて。それじゃもはや超能力じゃないだろうって(笑)。「長野曲げ」って呼ばれているんだけど、長野にいた綾小路鶴太郎っていうスナック店主のオジサンが最初にそういう技を始めてから、そうしてもいいことになちゃった」
清田益章氏の念写については、皆神龍太郎氏はこんな話を紹介している。
『デジャーヴュ』という雑誌で念写の特集が組まれたとき、荒俣宏氏が超能力があるかどうかを調べるのではなく、超能力による念写をアートとして扱いたいので、アート的な光をフィルムに映し込んでくれるように清田益章氏に依頼した。
皆神「でもね、そのときにさすがと思ったのは、荒俣宏は、持って行ったポラロイドカメラのフィルムの番号を事前にちゃんと控えておいたんだ。清田君は何度も失敗した後に、念写に成功するわけなんだけど、その成功したときのフィルム番号を見てみると、事前に用意したものじゃない。誰も気がつかないうちに、フィルムが入れ替わっていたというわけ。最後に清田君が「ちぇっ、俺も持ってきたフィルムじゃ、信用されないよね」とかつぶやいて、その記事は終わってましたね」
『職業欄はエスパー』を読んで感じた清田益章氏のイメージが壊れてしまった。
ちなみに石川幹人『超心理学』では、能力者に密着して取材し、能力が現れる現場を記録することにある程度成功したのが「職業欄はエスパー」(本ではなく、テレビ・ドキュメンタリーのほう)だと評価している。
「各人(秋山眞人、清田益章、堤裕司)の映像に現れる、超能力発揮に対する冷めた態度、あきらめにもとれる達観した姿勢から、彼らと社会を隔てる「見えない壁」の存在が感じとれる」
「ドキュメンタリー「職業欄はエスパー」は、能力者を自称する人々の孤独と苦悩を浮き彫りにすると同時に、彼らの特異な視点から社会を見ることで、逆に私たちは社会の特異性に気づかされる」
本当のところ、石川幹人氏は清田益章氏を能力者だと思っているのだろうか。
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って、私は人を見る目はありませんが
人間って、やっていない犯罪でも自分がやったと自白するんですね。
足利事件は記憶に新しいし、最近のパソコン遠隔操作の犯罪予告で逮捕された人も自白していたんですね。
これらは、かなりの圧力があったのでしょうけど、iPS細胞から作った心筋細胞を患者に移植したと虚偽発表した森口尚史氏なんて御仁も居る。
エスパーもこういう心理がどこかに潜んでいたんじゃないでしょうか。
スプーンやフォークを曲げたと思っていたら、曲げたのは自分の心だったのかもしれない。
他人の心を曲げるよりはずっといいですけどね。
ウソだとばれるのがわかっているのに、どうして森口氏は公表したんでしょうか。
目立ちたいのか、金儲けのためか、妄想なのか。
清田氏が火星に行ったとか、秋山氏の宇宙人の話とかも同じなんですかね。
サギ商法をしている人は悪党ヅラではないでしょう。
「あなたのために」というふうに誠心誠意だと思わせて、腹の中では笑ってる。
森達也氏や本間修二氏がそういう類とは思いたくないです。
>となりのみよちゃんさん
怪力乱神に私たちは一線を引くべきだと思います。
だまされる人がいますからね。
孔子の時代から人間は少しも変わっていません。
隕石、大陸移動説、鍼灸とかはウソだと思われていましたが、現在は事実だと認められているます。
その一方で、インチキ科学にだまされる人はあとを絶ちません。
ですから、科学者は超常現象や代替治療などを疑似科学として切り捨てず、きちんと研究すべきだと思います。
一般人は、研究者におまかせモードで、老子の言うような生き方をしてると気楽かと思います。ところで、どうして、「信じたい私がアホなのか」なの?
超能力肯定派の超心理学研究者石川幹人氏が清田益章氏の能力に疑問符をつけているのに、私は「嘘は言っていないだろう。ひょっとしたら本当かも」という気持ちが抜けきらないんですよ。
超常現象は信じたくない気持ちが強いのですが、あってほしいという気持ちも、正直あります。
でも瓶から木の葉というのは、どうかしら?そういうのは、マジか、いえいえ、まじかに観ても、信じられないような・・・
いつも中国古典の引用で恐縮ですが、『南斉書』に三十六策という言葉が出てきます。孫子の兵法とは、また違うのですが・・・その三十六計の第一計は「瞞天過海」なるものです。人間は見慣れているものには、あまり警戒心を持たないので、そういった心理の盲点を逆用されると、かなり幼稚なトリックに、はまってしまう、という意味(に使われるのが一般的)。
木の葉が突如出現するのも、謎解きしたら、実のところは、意外に簡単なトリックだったりして。そして、ウソがばれてしまったら、三十六計の締めくくり、「走為上」で、一目散に逃げていってしまうような・・・そんな気がするのですが、いかがでしょうか。
その映像は残されているのでしょうか。
見てみたいですね。
本間修二氏の言ってることが事実なら、ぜひとも研究して解明してほしいですね。
ノーベル賞級の発見となるでしょう。
だけどウソだったら・・・。
石川幹人氏は信じているようですが。
石川氏の超心理学も拝見いたしましたが、現代社会ではとてもじゃないが、超能力を話題にするだけで思想犯となってしまう現状に辟易しましたね。超能力に行く前に、人間の認識と、社会の受け入れの限界をもっと考えていかねばなりませんね。
信じる、信じられない、は理性よりも、社会のありようと、自身の日々の生活の身体感覚に依存する、のではないでしょうか。
ちなみに私は肯定ですね。有る、と前提にしないと、見落とす可能性があるでしょう。それも含め、、暇があれば超能力の練習でもしたいものだぁ、と何とか時間を作っている最中ですね。あるなしは情報なら、自分で体験する、で乗り越えたいですね。
太陽が輝く大地の元で、太陽が存在しない、と力説する社会ならば、太陽が見えるまで待とうではないか、と考えています。自己鍛錬、の問題になるのでしょうか。最終的に。
『ムー』の編集者にしてもオカルトを信じて雑誌を作っているのでしょうか。
>超能力を話題にするだけで思想犯となってしまう現状に辟易しましたね。
そうですかね。
占いはテレビや新聞にも載ってますが。
>信じる、信じられない、は理性よりも、社会のありようと、自身の日々の生活の身体感覚に依存する、のではないでしょうか。
超能力は主観的事実ではないのだから、信じるかどうかではなく、事実かどうかでしょう。
スプーンは念力で曲がるのか、トリックで曲げているのか、そのどちらかでしょ。
>辟易
石川氏の著書("超心理学"のほうです)では、能力がタブー視されてると述べておりましたので。占い師が番組で占うのと、研究者が学術的態度取る場合、慎重な態度表明に終始してしまう、問題は同じ問題とは言えでしょう。実証=ものさしづくり、を積み重ねるしかないという認識がどんどんみんなで協力するいい方向が加速される日が早く来ることを祈っております。
>信じる、信じない
超能力の問題が実在としよりは、個人の世界観の衝突になるところが克服できれば、とおもいまして。理性より、日常と感覚で、硬直した態度で終わらないようにという、自身の諌めもあります。広い視野という理想は重要だと思っております。
実践としては信じるという単語より、イメージするという単語がふさわしいかもしれません。文字だとなかなかいいにくいのですが。実験というより、小さな実践ですね。