三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

『ダーティハリー』1

2011年12月12日 | 映画

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「午前十時の映画祭」でドン・シーゲル『ダーティハリー』(1971年)を見る。
1972年度キネマ旬報ベストテンの11位。
1位 杉山平一、中原弓彦
2位 深澤哲也、山田宏一
3位 津村秀夫、双葉十三郎、南俊子、森卓也
4位 石上三登志、河原畑寧、渡辺武信
5位 嶋池孝磨、白井佳夫、竹中労
6位 大黒東洋士、河野基比古
7位 飯島正、小菅春生
9位 岡本博
中原弓彦、山田宏一、石上三登志といった若手ばかりでなく、意外にも津村秀夫、双葉十三郎、飯島正といった戦前からのベテラン評論家も選んでいる。
双葉十三郎は『ぼくの採点表』で、☆☆☆☆。
なぜか?

『アメリカ映画200』で、宇田川幸洋は「法律の枠を踏み越え、憎悪を燃料にして犯人を追って行くハリー・キャラハン刑事のキャラクターは、ハンフリー・ボウガート以来のハード・ボイルド探偵の系譜に連なる、と言うよりも、ウエインが自ら“villain”(悪漢、敵役)と呼んでいた「赤い河」「捜索者」、そして「勇気ある追跡」系列の西部劇ヒーローを現代の都会に持ち込んだものと言える」と書いている。
ジョン・ウエインは『ダーティハリー』の主演を蹴ったことを後悔していたそうだ。
そうか、新しい刑事物というよりも、ハリーは伝統的なヒーローだったわけだ。
話は単純明快で、善と悪がはっきりしていて、卑劣としか言いようがない犯人を、身の危険を顧みずに追いつめる主人公は法律を破ることも厭わない。

もっとも、宇田川幸洋によると「アメリカの批評家たちの多くは、この映画が刺激に満ちた、このジャンルの作品として優れた出来のものであることは認めながらも、反動的、右翼的、ファシスト的な映画であると言って批判したのである」
刑事(権力)は自分が正義だと信じることのためには何をしてもいいという内容だから、そうした批判も当然ではある。
佐藤忠男も『現代世界映画』の「ドン・シーゲル論」で『ダーティーハリー』を「傑作は傑作であるが、恐るべき反動的な作品である」と切り捨てる。

佐藤忠男の論は権力という暴力批判である。
「この映画は、警察の行動に制限があることに公然と不服をとなえ、その一面をいやがうえにも誇張し、拡大してみせる」
市長や検事は人気取りに汲々とするあまり、ハリーの行動を非難し、悪を擁護するエセヒューマニストとして描かれている。
「ことさら、常識的な民主主義やヒューマニズムの原則の線で行動する人間を、どうしようもない俗物として描くところに、この映画の、民主主義やヒューマニズムに対する根深い悪意がある。この悪意は、民主主義やヒューマニズムではぜったいに悪には勝てない、という考え方と結びついている」
秩序を乱す奴はさっさと殺してしまうのが社会のためなんだ、というわけである。

また、自警団はアメリカ的だとも佐藤忠男は言う。
「あらゆる法的な制約など無視して、力には力で敵をうち倒し、武器を持って自分個人を自衛し、そのかわり、権力に護衛を求めることも期待しないという、こういう人間像こそは、アメリカの建国以来の理想的人間像であったからである」
佐藤忠男のこういう深読みは私好みです。

そういえばウィリアム・ワイラー『大いなる西部』は、東部からテキサスにやってきた一見やさ男(グレゴリー・ペック)が主人公。
主人公はバカにされても怒らないので、暴力には暴力でという考えを否定している非暴力主義がテーマかと最初は思うが、見ていくうちにそうではないことがわかってくる。
男らしい男、佐藤忠男の言う「理想的人間像」を描いている。
主人公は決して腰抜けではない。
荒馬を乗りこなし、牧童頭とさしの殴り合いをする。
人に見せびらかすことをしないだけである。
このように、軟弱だったり、小心者であっても、いざとなれば家族や名誉を守るために命をかけるというお話はアメリカ映画にはおなじみのものである。
すぐにマグナムをぶっぱなすダーティハリーもその伝統の中にあるわけでした。

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